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「今日は何を教えてほしい?」
優雅な口調で聞いてくる先生の声は静かにコップから湯があふれるように、耳に響く。先生の声はいつでもそうやって響いてくる。こうやって話しているときもそしてお互いに裸でシーツの間にいても同じ温度と強さだ。
「別になんでも。先生が話したいことを聞きたい」
無邪気な口調をしてみる。だけど先生は私が無邪気さを演じているとわかっているだろう。
今までさんざん目も耳も覆いたくなるような姿や湿度をもった声や音をきかせているのだから。こんなことをしても無駄だと気が付かれていても先生に飽きられないように、必死で「まだ先生がしらない自分」を演じる。
私はずっと先生のそばにいたい。だからどれだけ滑稽に映ってもいい。笑われてもかまわない。先生の心をいつも手の中で見つめていたい。
「無邪気だなぁ、君は」
「そうですか」
ふふふ、と笑う先生の声にうれしくなって背筋を伸ばすがその瞬間に先生の顔は色をなくして私を見据え「いや、全然」と言い放った。
その言葉の冷たさと泥臭さ。そして重たさ。つかんでいた手を急に振りほどいて奈落に突き落とすようなあっけなさ。
明らかに傷ついた私は「いじわるですね」と素直に答えた。だって本当にそうだった。これは私を試しているのだ。自分が冷たい返事をしてそれで私の反応を見るのだ。
いじけたり、悲しんだりしているのを見るのが好きなのだ。この男は。
「演じなくていい。別に。僕は君に飽きることはないし今のところ本当に良いパートナーなんだよ」
ぬかりのない言葉だと思った。「本当にいいパートナー」とだけ言えばいいのに「今のところ」をつけるあたりが先生らしい。隙がない。一つも私にみせてくれることはない。
「それは、光栄ですけどね」
「そんなにいじけないでほしいな。僕は純粋に君のことが好きだし、君だってそうなんだろう。だったらもうそれでいいじゃないか」
「私はまだ子供なんでしょ。先生。一人で生活できないし、一人で何かを決めることだってできない。それなのに先生はどうして私をパートナーに選んでいるの?」
こんな質問自体がばかげている。自分である程度の答えを知っているのにどうしても聞いてしまうのは、自分が本当に子供だからだ。実際に先生の口からきかないと納得ができないのだ。
背にしている窓が乾いた音を時折立てている。低く響くその音は雨が降り始めたことを知らせていた。
ああ、そうだ。今日は雨だ。先生とこういう関係になった時も雨だった。こういう関係とは男女の関係ということで付き合うとなったその日から私は先生にすべてをささげた。
ささげたなどというのはあまりにも儀式的だがそんなものではなく「あげた」と言う言い方が合っているかもしれない。
「何を不安がっているのかしらないけど、僕は本当に君が好きだよ」
いつもはへらへらした物言いがほとんどの先生だ。だが今の言葉はなんのにやけた様子もなく慎重に言う様子は普段では見ないものだ。
その視線は今にも抱きつきたくなる衝動を与える。すぐにでも抱かれたくなる。そして私自身が彼の欲を満たしたいとも思う。
「不安がってなんかない。私なんて一時の関係なのかなって考えることがあるだけ」
「学生時代の恋人なんて全部一時の関係じゃないか。それを今更いうなんて、馬鹿みたいだねぇ君は。他のありふれた女性じゃないところが僕は好きなんだよ」
定形の授業をするような言い方が私は気に入らない。教科書で習ったとおりの言い方をされても全く心に響かないのだ。でもだからといって先生が甘い雰囲気でそう言ったところで私は信じられるだろうか。心の底から。
「君のその疑り深い性格は慎重ととればいいことなんだろうけど、ちょっと傷つくなぁ。まぁ今日は雨だし、ちょっと遅くなっても言い訳は聞くだろう?」
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