八年目のひな人形

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八年目のひな人形 鮎村 尚  業務用洗剤と消毒液の清潔な匂いが、一気に溢れてきた。  木製のスライドドアを開けると、手すりが動線に沿って壁に設置されている。コールセンターから紹介された五十代の夫婦は、バリアフリー対応のフローリングの床を、来客用のスリッパで歩き、手すりの感触を確かめている。 「へぇー、割と中は広いのね」 「床や手すり、クローゼットはすべてダークブラウンで統一しています」  多機能トイレと洗面所は、車イスで乗り入れができる広さを十分に確保している。ナースコールで二十四時間いつでもスタッフが対応しますと、札幌の有料老人ホームの入居相談員である鍋谷和親(なべたにかずちか)は、見学者の夫婦に笑顔を向けた。  洗面所の横に備え付けられた棚の収納を、妻が背伸びをして一つ一つ確認している。入居を検討しているのは今年八十二歳になる夫の父親で、今は脳神経外科に入院している。 「では、居室内へどうぞ」  十一畳の居間には介護用ベッドと上質の二人掛けソファーが置かれている。昼過ぎから降り続ける雪が、傾きかけた西日に照らされ、淡く光っている。  壁に備え付けられたクローゼットを全開にすると、すかさず妻がハンガーパイプの高さと、引き出しの容量をチェックしている。 「上の棚は可動式になっています。お好みの高さで調整もできます」  妻が着ているジャケットは、数年前の秋冬物のデザインだ。縫製の良さが一目で分かる。転職してから一年が経っているのに、つい顧客の服装に目が行ってしまう。背後でベッドが軋み、和親はマットレスの硬さを確認している夫に向き合った。 「病院からは早く退院して下さいと言われていましてね。リハビリも完全に終わっていないのに」 「入居後も協力病院への付き添い、送迎は可能です。マッサージの先生も紹介いたします」  モデルルーム用のソファーの座り心地を確認していた妻が、防犯用のロックがかかった窓を覗き込んだ。五階の居室の窓からは、スキー客を乗せた藻岩山ロープウェイが見える。 「春になると眺めが良いんでしょうね」 「裏が藻岩山の原始林になっています。春にはキタコブシの花が咲きますし、その奥には白樺の林が広がっています。秋の紅葉も見事ですよ」 「お義父さん、気に入ってくれるかしら」 「まずは体験入居をして様子を見てみよう」  ナースコールとベッドのリモコン機能を説明し終え、一階のダイニングに降り立った。夕食用の水やお茶を用意する介護職員が、見学者の夫婦に笑顔を向けた。二人部屋に入居している妻が「お父さん、今日は豚肉の生姜焼きだよ」と車イスに座る夫の耳元で叫んでいる。  ロビーの液晶テレビでは、ファイターズのオープン戦が放送されている。見学者の夫婦と八回裏のスコアボードの数字に注目していた時、腰の辺りでモーターが低く唸った。  視線を斜め四十五度に落とすと、そこには器用に電動車イスを乗りこなす西山ヱミ子がいた。細かい刺繍がほどこされたカーディガンを羽織ったヱミ子は、和親が初めて契約を交わした入居者だ。数年前までは理美容専門学校の副理事長を務めていた。 「鍋谷さん、自宅から持ってきたから。あとで見てちょうだいね」 「いつもありがとうございます」  ヱミ子は介護タクシーを利用し、頻繁に自宅にある絵画や美術品を施設に寄付している。ロビーにある淡いルビー色のボヘミアンクリスタルの花瓶も、ヨーロッパ旅行中に購入してきたものだ。金彩の細かい文様と扇形の曲線が見事だ。  巾着袋からヱミ子は日枝神社と書かれた白い封筒を取り出した。 「これ美香ちゃんにあげて。息子に頼んで買ってきてもらったの」  封筒を開けると、丹塗の矢を大事そうに持つ猿のお守りが、和親を見て笑っていた。コミカルな表情にこちらまでつられて笑いが込みあげてくる。  緩んだ口角を引き締めた時、去年入団した七番打者の打った白球が、一塁側の応援席に吸い込まれていった。  再就職支援会社の担当者から老人ホームの営業の求人を紹介されたのは、前職を希望退職してから三ヶ月後だった。その当時、三十八歳になった和親は、札幌駅の十四階のオフィスビルの一室で、女性担当者から渡された求人情報に戸惑いを隠しきれなかった。  大学在学中から百貨店の催事のアルバイトをしていた和親は、地元老舗百貨店に就職をした。様々な売り場の接客販売を経て、入社五年目からミセス部門の商品の仕入れや、催事の企画を担当した。  細身のスーツを着た和親はすっきりとした顔立ちで、銀縁の眼鏡や七三ツーブロックの髪型も、清潔感と真面目さを表していた。売り場の女性店員からの信頼も厚く、和親を指名する年輩の顧客も多かった。  二歳年下の同期の美香は、婦人靴売り場に配属となり、研修や懇親会で顔を合わせることが多く、スムーズに二人の付き合いは始まった。丸顔の美香は売り場でも明るく、和親も気立ての良さと屈託のない笑顔に惹かれた。三十歳で結婚し、共同名義で札幌の文教地区に新築の4LDKのマンションを購入した。  シフト勤務の二人は家事を分担し、最初の二年間は共通の趣味の旅行やゴルフを楽しんだ。八階の部屋からは藻岩山が見え、夜には大倉山のジャンプ台が白く伸びていた。  正月やお盆に、互いの実家からそろそろ孫の顔が見たいと言われた。美香は基礎体温表と二人のシフト表をダイニングテーブルに並べた。その頃は和親も美香も簡単に子供が出来ると思っていた。  しかし、排卵のタイミングによる治療を二年間試みたが、美香は一向に妊娠しなかった。抵抗があったが、和親は病院で精子検査を受けた。二人とも検査では特に異常はなかった。  いつからだろうか。トイレから出てくる美香の顔色を伺うようになったのは。 「また生理が来ちゃった」  あの当時は、焦らず自然に任せていこうと、慰めることしか和親には出来なかった。不妊治療は仕事や受験勉強のように、努力をすれば結果が出てくるものとは違う。まるで出口の見えない迷路に迷いこんだようだった。  妊娠しやすい身体作りのために、美香は今までの外食中心やデパ地下の惣菜を止め、ネットや口コミで漢方やサプリを取り入れ、徹底的に食生活を改善した。休みの日には冷え性を治すために、ヨガ教室にも通った。  歯科の定期検診を受けるような口ぶりで、今まで通院していた婦人科ではなく、不妊治療専門クリニックを予約したと、カレンダーに印を付けた。  遅くとも三十五歳前に妊娠するよう目標を掲げ、精子を直接膣内に注入する、人工授精の治療が始まった。排卵誘発剤やHCG注射を投与するため、美香は上司に半休や中抜けなど、変則的なシフトを組んでもらうよう頼み込んだ。自然と同僚や同期との関係が気まずくなった。  人工授精の治療は六回にも及んだが、結局美香は着床しなかった。 「なぜ私だけできないんだろう」  痛みと共に毎月訪れる生理に、美香はとうとうトイレから出てこなくなった。  和親は辛抱強くドア越しに説得し続けた。  お互い寝不足のまま出勤すると、会社が関東の大手百貨店に吸収合併された。まずは百貨店を長年支えていた五十代以上の社員がリストラされた。その後、和親を含めた大卒の外販部や販売促進部の社員が、本社の人事担当に呼ばれた。マンションのローンが残り三十年あるため、退職できないと告げた和親に、担当者は上乗せ退職金の額を提示した。希望退職を断れば、グループ企業へ出向してもらうと言われた。勤務地は道外としか言われなかった。  体外受精への治療に切り替えるか悩んでいた美香も、希望退職の人員に入っていた。人事の女性担当者から「不妊治療大変でしょう。しばらく休んだら」と面談の時に優しく声を掛けられた。売り場でも孤立していた美香は出産経験のある担当の言葉に救われた。  二人合わせての上乗せ退職金は相当な額だった。マンションのローンを一部繰り上げ返済し、残りは貯蓄と不妊治療費にあてた。札幌市の助成金が出るとはいえ、体外受精の治療費は莫大な費用がかかる。和親はすぐに就職活動を始めた。  第一希望だった百貨店やアパレル関係の求人は、どれも非正規社員だった。老人ホームの入居相談員の条件は申し分がなかった。基本給は百貨店よりは若干下がるが、契約が取れた時のインセンティブの額は大きかった。しかし、営業経験のない和親は、入居一時金が数百万円の契約を自分が取れるとは到底思えなかった。 「老人ホームは無理です。自分は介護や医療の知識もありません。だいたい営業職は未経験ですから」 「未経験でも鍋谷さんは長年、百貨店でご婦人に接していましたよね。私は向いていると思いますよ」 「販売と営業は違います」 「受けるだけ受けてみたらどうですか? 親会社が建設会社なので、他社よりは安定していますし、グループ全体の入居率や満足度も高いです」  担当者の言葉に後押しされ、和親は履歴書と職務経歴書を送った。よほど応募がなかったのだろう。面接の帰りに和親の携帯に、施設長から採用の連絡が入った。  十五年間、洋服を売り続けていた自分がこれからは高齢者に安住の場を売る。介護をサービスとして提供する。ブラウス一枚も、入居一時金何百万のワンルームの部屋も、その先にあるのは顧客の笑顔だけだろう。和親はマンションのエントランスから、雨があがった歩道に降り立った。  不動産屋や塾が入った雑居ビルの隙間から、土の匂いがたちあがってきた。空き缶が転がった自販機の下に、タンポポが地面に深く根を張っていた。  施設では入居者の様付けを徹底している。研修で最初に「入居者の尊厳を守り、快適な居住空間を提供しよう」と、経営理念を叩き込まれた。資料を対象者に発送し、先輩の相談員と区役所や居宅支援事業所にサービス内容を提案した。  コールセンターから見学の申し込みがあり、施設内を案内したが、契約はなかなか取れなかった。本人が断固として入居を拒否している、退職金で入居一時金を支払えても、家賃と管理費が年金では足りない、部屋が狭すぎる等、断りの電話を受ける度に、鳩尾の辺りが痛み出した。営業推進部の部長が和親の営業件数と実績の数字を顎でしゃくり、営業力が低すぎると言い放った。  今日の最後の見学者は七十代の自立の夫婦で、将来のために社会勉強の一環として施設に訪れた。今後の顧客になるかもしれないと思ってはみたものの、入居一時金の償却率や介護保険のサービス内容を説明しているのが空しくなってきた。日報を書き終え、帰路についた。  玄関に中高年の婦人が履くウォーキングシューズがあった。キッチンから煮物の匂いがする。札幌市内に暮らす美香の母親は、頻繁にマンションに訪れている。  ダイニングに入る前に西側の六畳間を覗き込んだ。廊下のライトがピンク色のクラシックローズの壁紙をぼんやりと映し出している。家具の置いていない六畳間の壁紙は女の子用に美香が選んだものだ。今は二人のゴルフバッグや海外旅行用の大きなスーツケース、バーベキューセットが置かれている。隣の六畳間は男の子用に淡い水色のヨットの壁紙を選んだが、今は客間としか使われていない。  退職後、美香は持ち回りでこのマンションの理事会の役員になった。会合の議事録と会員名簿をホチキスで止め、全部屋に配布した。 「和親さん、お帰りなさい」  施設の仕事の様子を訊く義母の横で、美香が壁掛けカレンダーの日数を真剣な面持ちで数えている。 「和くん、来週の休みは採取の日だからね」 「美香、いま帰ってきたばかりなのに、その話はあとでも良いでしょう」  精子を取るために、和親はクリニックの採精室と言われるプライベートルームに籠る。戸棚にはアダルトビデオやエロ本が常備されている。しかし、誰が触れたものかも分からない雑誌を開くことに抵抗があり、和親は昔好きだったAV女優を思い出していた。  プライベートルームにいる時の感覚は異質なものだ。まるで自分一人地球の裏側に取り残されたようで、早く採取しなければと白い壁を前に目を閉じた。なぜか美香のことは一切考えられなかった。  豚の角煮に辛子を付けていると、義母が冷蔵庫を開けた。 「美香、ビールはないの?」 「和くんは禁酒しているの」 「和親さんだって息抜きに飲みたいでしょう。仕事のストレスだってあるんだから」  感情の揺れ幅がその時によって違う美香は、乱暴に箸をテーブルに置いた。その拍子に箸置きが悲鳴をあげ、和親は見て見ぬ振りをした。 「私だって検査や診察で週に何度も受診しているんだよ。病院の待ち時間だって長いし、理事会の仕事はあるし」 「美香が頑張っているのは母さん分かっているよ」  子供をあやすように義母は声を荒らげる美香を宥めた。その向かいでひたすら和親は並べられたおかずを食べた。こんな時にビールの一杯でもあれば、その場をしのげるのに……。   治療中の飲酒は男女とも妊娠しづらいと統計が出ているため、可能であれば禁酒してもらいたいと美香に頼まれた。自宅では来客時や夏場以外は、ほとんど晩酌の習慣がなかったため、抵抗なく和親は申し出を受け入れた。  中には不妊治療に非協力的な夫がいるらしい。不妊検査を拒否、禁酒禁煙ができない、タイミング治療はプレッシャーがある等。自然と授かれば問題はないが、自分も出来る限り美香には協力したいと思う。六畳間の子供部屋とカギがかけられたトイレのドアを見る度にそう思う。  九年前にマンションのモデルルームを見学した時、白い家具が並んだ子供部屋に入った美香は、ドアの横にひな人形を飾るとはしゃいでいた。  あの時はここまで不妊治療に時間と金銭的、精神的負担がかかるとは思ってもみなかった。  「お母さん、おひな様、買ってくれるんだよね? 私の時は買ってくれなかったじゃない」 「仕方ないでしょう。あの時は家にお金がなかったんだから」 「おじいちゃんも健康に気を付けていれば長生き出来たのに」  美香が産まれる前、祖父が定年後に運送会社を起業した。しかし、二年後に大動静脈瘤が破裂し、搬送中の救急車で心肺停止、病院で死亡が確認された。連帯保証人だった美香の父親は長年に渡って借金を返済した。初節句に美香の母方からもらったお祝い金は、そのまま返済に回った。 「女の子が産まれたら、ひな人形を買ってあげるから」 「七段飾りのおひな様を買ってね、絶対だからね」  なぜそこまでおひな様に執着するのか、和親には分からなかった。三月になると、小学校の同級生の部屋に赤い緋毛せんが敷かれたおひな様が飾ってあったと、美香から聞かされた。バブル当時、歯ごたえのないひなあられを食べながら、子供ながらに格差を感じていたらしい。  毎年バレンタインデーが終わってから、百貨店の九階の催事場でひな人形の販売が行われる。自然派化粧品や高齢者向けのウィッグの売り場を通り越すと、内裏雛と三人官女の二段飾りや、細部に至るまで丁寧に作られた七段飾りの人形が鎮座していた。  百貨店の閉店後、照明を落とした店内に、人形のつるりとした顔が金屏風を背にして白く浮きあがっていた。剃り落した眉に薄墨を乗せ、おちょぼ口の唇には鮮やかな紅が塗られていた。  横に引かれた細い目が不気味で、いつも視線を外してロッカー室へ移動していた。 「私のことは西山様ではなく、ヱミ子さんって呼んでちょうだいね」  西山ヱミ子と六十代の長女は、百貨店時代の特選コーナーの顧客だった。  一人暮らしの家で八十七歳のヱミ子は誤って転倒し、整形外科に長期入院していた。お盆前に子供たちで見学に訪れ、翌日には契約を取り交わした。入社二ヶ月目、念願の初契約だった。 「鍋谷さんが施設にいるのよ、と母に話したら、入居しても良いって言うんですよ。私たちは安心しましたけどね」 「お母様とは百貨店の頃からお世話になっています。施設でもまたお会いできて嬉しいです」  退院後、そのまま施設へ移るよう当日のスケジュールを確認し、長女を駐車場まで見送った。  八月の日差しを喜ぶように、エゾゼミが絶え間なく鳴いている。駐車場の裏にある白樺に、飴色の抜け殻がびっしりと張り付いている。小学校の夏休みの絵日記に、触覚の節の長さや数を記入し、茶色の色鉛筆で陰影を付けながら、エゾゼミとアブラゼミの抜け殻を描いた。  あの当時はセミの成虫の一生は短いとしか知識はなかった。交尾をして産卵するためだけの生殖期間は至ってシンプルだ。  デニムブルーのニュービートルのボンネットに、セミの抜け殻が落ちていた。長女は悲鳴をあげながら指先で摘んでは林に投げ捨てた。和親は見えないように緩む口元を手で隠した。 「そうそう美香ちゃんは元気なの? 治療は順調?」  百貨店で顧客に合った靴を提供する、シューフィッターの資格を持っていた美香は、ヱミ子や長女の担当でもあった。不妊治療で休みがちだった美香に、ヱミ子は東京の水天宮の子授り守りを買ってきてくれた。 「来月から体外受精に切り替えます」 「美香ちゃんもずっと家にいたら、自分を追い込んでしまうんじゃないの」 「なるべく外に出るようにはしていますがね」 「夫婦二人の人生も悪くないと思うよ。鍋谷さんと美香ちゃん、仲が良いし」  外出も必ずしも美香の精神状態に良いとは言えなかった。エレベーターで同世代の母親が、ベビーカーを押している場面に出くわすことは頻繁にあった。お盆の高校のクラス会は、美香から迎えに来てほしいと電話が入った。  再会した既婚者子持ちのメンバーと同席だった美香は、幼稚園のママ友の派閥や、義理の母親が買ったランドセルの値段、学習発表会の演目の話をただ頷いて聞いていた。  二十歳前にデキ婚をし、早々と離婚をした同級生から「焦らなくてもきっと出来るよ」と言われた美香は、劣等感を深く植え付けられた。 「なにも考えずに簡単に妊娠をしたあの子とは違う」  車のグローブボックスを叩きながら、美香は黒い感情を助手席で吐き出した。  リモコンでエンジンをかけた長女が、和親の顔を覗き込んだ。 「鍋谷さんが深刻な顔をしていたら駄目だよ。妊娠したらそれで終わりではないんだから。出来ても出来なくても人生は長いよ」 「そうですね」  緩やかにアクセルを踏んだ車の音に驚いたのか、林の中で鳴いていたエゾゼミの声が止まった。  セミは一生の大半を土の中で過ごす。ようやく地上に出てきたセミは数週間で交尾をし、子孫を残して死んでいく。セミの中にも繁殖能力のないものがいるのだろうか。突然浮かんだ思いに、和親は長女が捨てたセミの抜け殻の行方を探した。  山の四季の移ろいは都心部よりも早い。協力病院の裏にある藻岩山の登山道入口には、ススキの穂が揺れていた。  ダイニングで刻み食やミキサー食を食べる入居者の前で、西山ヱミ子は食事がまずいと強い口調で叫んだ。箸を持つ指には翡翠やサファイアの指輪が輝き、トップにボリュームのある髪は、定期的に手入れに出しているウィッグだ。  入居三ヶ月で、ヱミ子はすっかり施設の主のような風格になった。レクリエーションで老人とぬり絵などやりたくはない、週二回しか入浴できないのは苦痛だ。居室からヱミ子は長女に面会に来てほしいと、頻繁に電話を入れた。その度に家族が介護タクシーでなじみのレストランへ連れて行き、入浴も追加で有料サービスを申し込んだ。  一階のロビーでヱミ子に会う度、和親と長女に騙されたと冗談混じりに言われ、美香の様子を逐一訊かれた。  一度目の体外受精は失敗に終わった。治療費のことを考えれば、そう頻繁には体外受精は受けられない。  十一月には美香の失業保険の給付日数が残り僅かとなり、和親は部長から道東の新規施設に応援で二ヶ月間、単身赴任をしてもらいたいと言われた。ようやく今の施設の契約件数も伸び、毎月インセンティブが入ってきた矢先だった。理由は釧路の入居相談員が、ヘルニアの手術で入院をするためだ。  赴任先では寮も用意され、帰省交通費込みの手当も支給される。釧路から札幌までは車で五時間かかるが、休みの前日には帰れるだろう。不妊治療も精子を凍結保存できるが、治療は一旦休みにしよう。  そして、短期間とはいえ、美香と離れられると期待している自分が存在していることに、和親自身が驚いていた。  完全に葉が落ちた駐車場の白樺の上に、ロープウェイのライトが一定の速度で藻岩山の中腹駅まで登っていく。白い仏舎利塔が何かを暗示するように、薄ぼんやりと山麓に浮かんでいる。札幌もそろそろ本格的に雪が降り始めるだろう。  帰宅後、和親はキッチンからただようデミグラスソースの匂いを嗅いだ。 「ただいま」  おかえりなさいと顔をあげた美香は、ダイニングテーブルに並んだ数枚のハガキを咄嗟に隠した。ハガキは子供の写真が印刷された今年の年賀状だった。宛名ファイルを編集した美香はデータを保存し、パソコンの電源を切った。 「もう年賀状の準備か」 「今年は時間があるから元旦には届くと思うよ。今、シチュー温めるから」  食後にコーヒーを飲みながら、不妊クリニックのカウンセリングを申し込もうかと呟いていた美香に、言葉を選びながら単身赴任のことを話した。 「期間は二ヶ月って言われているから、治療を休もう。年末年始は帰れるからゆっくりしよう」  明らかに美香の目が泳いでいる。先週、義母が短期間のパートに出るなり、環境を変えた方が良いかもしれないと言っていた。 「ごめんね」 「なぜ美香が謝るんだ?」 「だって和くんが毎日頑張っているのに、私はいっこうに赤ちゃんができないから」  赴任期間中、頻繁に義母にマンションに来てもらうよう、明日にでも電話を入れよう。 「体外受精はまだ一回目だろう」 「マンションのローンだって来年からあがるんだよ。治療費だって高いし、私は来年三十七になるし」  その時、和親の中で初めて消去法が働いた。出来ても出来なくても人生は長い。限られた時間と治療費のことを考えたら、まずは生活レベルを変えるべきだ。 「俺は治療を最優先にさせたいから、マンションを売っても構わないと思っているよ」  のろい速度で美香が首を傾げた。単身赴任もマンションの売却も美香にとってはまったくの想定外だったのだろう。コーヒーの表面に浮いた油が黒く光っている。 「マンションを売って赤ちゃんが出来なかったら、どうするの?」  抑揚のない棒読みの美香の言葉を反芻した。和親は最悪な状況に陥った時の救済方法を、常に自分の中で用意していた。そのタイミングをいつも窺っていた。それを口にするのは勇気がいる。  和親は敢えてその一歩を踏み出した。 「もしこのまま子供が出来なかったら」 「出来なかったら?」  和親の言葉を繰り返す美香の声には、以前のような明るさはなかった。まるで別人と話をしているようだ。 「俺は美香が問題なければ、養子をもらっても良いし、犬か猫を飼っても良いと思っているよ」  最悪な状況でも二人なら倒れないだろう、和親には確固たる自信があった。  しかし、それは単に和親の独りよがりだったのだろうか。ダイニングを挟んだ距離が遠く感じ、沈黙の長さが計り知れなかった。一切の感情を失った美香の空っぽの目に黒い渦が低く蠢き、和親は動揺した。まるで一瞬でも単身赴任を喜んでいた自分を見透かされているようだ。 「和くんってホチキスみたい」 「ホチキス?」  そして、右手で何度もホチキスを押す仕草を繰り返した。まるでマンションの理事会の名簿や議事録を綴るように……。 「ホチキスの針がなくなった時の感覚って分かる? あの気の抜けたような、どこに怒りをぶつけて良いか分からない感じ」  今までの会話とホチキスが結びつかなかった。しかし、和親はその先の言葉を黙って聞いた。 「なぜ養子や犬猫の話になるの? 私が産まないと意味がないの。和くんがそんなことを考えていたなんて、怒る気力もなくなった」  いつもの要領で、ホチキスを押した瞬間に伝わる手応えの無さが、掌に蘇ってきた。それでは、治療を諦めた後のことを考えるのは無意味ということなのだろうか。現に時間も金も限られている。  夫としての配慮に欠けるとでも言いたげな美香の目の縁に、強い光がはらんでいた。 「このまま赤ちゃんが出来ないと、私には何も残らないよ」  それ以上美香には何も言えなかった。  子供が欲しいが、マンションは売りたくはない。養子を貰ったり、ペットを飼うのも嫌だ。月々のローンや治療費は着実に家計を圧迫している。この現状の中、どの選択がベストなのか、和親にはもう分からなくなった。  元旦にはきっと子供の写真入りの年賀状が届くだろう。親戚の集まりでは、今年から子供のことは一切聞かれなくなった。三が日の最終日に行われる高校のクラス会を、美香は早々欠席の返事を出していた。 「周りからどんどん取り残されていくようで自分が惨めだよ」  不妊治療もホチキスのようなものだ。規定量以上の厚い紙を挟むと、針は刺さった状態でその機能を果たさない。力任せに押すと表面で潰れる。針が無くなった瞬間は、空しさだけが残る。  ヒステリックに泣きわめいたり、物に当たることはなかった。止まない小雨のように、美香はずっとすすり泣いていた。  自分が針のなくなったホチキスなら、美香は余白で潰れたホチキスの針だ。既にお互いが噛み合っていないのだろう。  二人では広すぎるマイホームという名の箱。物わかりが良いだけの自分と、不妊治療のスパイラルから抜けられない美香は、紙をとめる簡単な作業さえも、満足に出来ないでいるのか。  その先には紙を破らないよう、潰れた針を取り除く作業が二人には残っていることを、和親はぬるくなったコーヒーと一緒に飲み干した。  白糠で高速を降り、国道三十八号線に入ると、強烈な臭気に息が止まる。釧路の製紙工場のパルプと水産加工場の魚の臭いは、暴力的に車内へと侵入する。眼下に広がる鉛色の海に気持ちまで荒む。札幌と比べて雪の少ない釧路の町並みは、より一層うら寂しく感じる。  きっと街が白い雪に覆われていないからだろう。雪はすべてを覆い隠してくれる。  単身赴任生活は地味なものだった。二日目に歓迎会をしてもらったが、三日目からは施設と寮の往復の毎日だった。美香が心配していた食生活も、昼と夜は施設で入居者と同じものを食べた。  釧路のワンルームマンションは他の会社も寮として契約しているのだろう。同じような背広姿の単身者と、エレベーターホールや駐車場で顔を合わせた。  十二月にもなると外は十六時には暗くなり、駅前はシャッターの下りた店舗に貼った不動産屋のビラが翻っていた。バス乗り場には学生と高速バスを待つ数名の客しか並んでおらず、ロータリーのタクシー運転手は暇そうに談笑している。  繁華街の居酒屋や炉端にサラリーマンや観光客の姿を見かけたが、札幌のススキノほどの賑わいはなかった。歓迎会の帰りに乗ったタクシー運転手から、風俗を紹介すると言われたが、丁重に断った。  夏場は日照時間が短いため湿気が多く、霧のイメージが強い釧路も、冬場は空気が乾燥し、海からの空っ風に身体の芯まで凍った。地震速報でいつも流れる幣舞橋も、日が沈むにつれ、西の空が金色に染まり、等間隔に建てられた街路灯のシルエットが奥に伸びた。釧路川の水面も刻一刻とその色を変えていく。  家には毎日電話を入れ、休みの前日にはどんなに遅くても、片道五時間の距離を走った。気楽な単身赴任生活も一人の時間は空しく過ぎ、酒の量が増えた。美香との関係は以前と何ら変わりはなかったが、義母が頻繁にマンションに泊まってくれた。  百貨店時代の知り合いから美香に、繁忙期の十二月と一月、ホテルで行われる冬物売り尽くしの短期アルバイトの声がかかった。当初は乗り気ではなかった美香も、和親と義母の言葉で数ヶ月振りに売り場に立った。  一月の連休明けに釧路湿原と知床を二泊三日で回る旅行を計画した。タンチョウの餌付けを見たいと言っていた美香の希望を優先させ、JRの切符を手配し、旅館の予約もした。人工授精を失敗した直後から二人で旅行へ行くこともなくなっていた。退職から転職するまでの期間も慌ただしく、あの時の記憶は一部欠けていた。だからこそ、道東の旅行を和親は心待ちにしていた。  一月三日からホテルの催事会場へと出勤する美香を、和親は玄関先で見送った。数ヶ月振りに社会に出たため、疲れや緊張はあったものの、帰宅後の顔の色艶が見違える程良くなった。  ホテルのデリカで買った惣菜や、義母の作ったお節の残りをテーブルに並べる。 「和くん、釧路の旅行なんだけど」  数の子を摘んでいると、申し訳なさそうに美香が箸を置いた。 「ホテルの催事、あと一週間来てくれないかって頼まれたの。旅行、一泊二日に出来ないかな」  ほぐれた数の子の粒が舌の上で潰れた。塩気が苦く感じ、ビールで強引に流し込む。 「旅館もJRも予約済みだよ。この時期なら旅館はキャンセル料を取られるよ」  今回の旅行は二人の関係を見つめ直すイベントと、和親は考えていた。オホーツク海を望む旅館で、これからのことを話し合う良い機会だろう。 「やっぱり無理かな。人がいないって頼まれちゃって」  小さなわだかまりが、虫に刺された痕のように残る。納得いかない和親の空気を読んだのか、美香が何食わぬ顔で、 「ごめんね。仕事断るから大丈夫だよ」  デリカのオードブルを取り分けた。  一夜が明け、午後から札幌を発った。付き合っている頃から美香の我が儘には自分は割と寛大だった。分かりきったことなのに、今回だけは釈然としないものが残るのはなぜだろう。  釧路郊外のホームセンターやパチンコ屋を通り過ぎ、あと数キロで寮に到着する。片道五時間の距離はやはり心身ともに疲れる。イオンの看板を見て、仮の住まいに帰ってきたと安堵する。  駐車場に縦列駐車をしている最中、ワンルームマンションの入り口に停まっていたセダンのエンジンがかかった。運転席の男が車内でスマホを操作しているのだろう。顔が薄ぼんやりと、液晶画面の光に照らされている。  この車は週に数回、マンションの前で路駐している。  一階のポストに溜まった郵便物を取り、エレベーターに乗り込んだ。五階の一フロアーに三部屋しかない左端が、和親の部屋だった。  エレベーターが開くと、右端の部屋から黒い鞄を抱えた若い女が出てきた。フェイクファーのコートにミニスカート、肌色のストッキングにロングブーツを履いた女の後ろに、スエット姿の男が立っていた。  彼女がデリヘル嬢だと入居してすぐに分かった。男の単身者が多いこのマンションでは金曜の夜、セダンや軽自動車の後部座席に乗ったデリヘル嬢が客の部屋へ行き、ドライバーは車内で待機している。 「失礼します」  和親と鉢合わせとなったデリヘル嬢は、伏し目がちにエレベーターに乗り込み、急いで閉のボタンを押した。  コートから部屋のカギを出していると、ドアにもたれた男がいやらしい笑いを浮かべ、タバコ臭い息で呟いた。 「あんたの前に住んでいた介護士も、結構デリヘル呼んでいたよ」 「そうですか」 「毎週、きちんと帰ってご苦労様」  男のスエットの股間が一部濡れていたのを和親は見逃さなかった。  返事をせずにカギを締め、熱いシャワーを浴びた。見るからに男受けしそうな品のない顔と、踵が一部剥げたロングブーツが脳裏から離れなかった。思えばタイミングで失敗し、本格的に人工授精の不妊治療を始めてから、美香とは直接的な行為は何年もなかった。  先ほどのデリヘル嬢の顔が、昔好きだったAV女優の顔に変わる。結婚前に処分したビデオは、グレーのスーツを着た林瑞穂の女教師ものだった。進路相談室で林瑞穂は生徒にレイプされた。黒髪に寂し気な顔の下には、豊かで形の良い胸が揺れていた。そのギャップがたまらなかった。  シャワーを浴び終え、冷蔵庫から発泡酒の缶を取り出した。ふと、宅配弁当やクリーニング、水道修理のチラシの中に、デリヘルの割引券が入っていた。いつもならゴミ箱に捨てるはずのチラシに思わず目が行く。OL風のピンクの制服や看護師、セーラー服の中に紺色のスーツ姿のデリヘル嬢がいた。  テーブルに置き、興味本位でQRコードからサイトに入り、本日出勤予定のデリヘル嬢の写真を眺めた。料金計算画面に入り、初級コース一時間一万二千円、オプション無し、指名二千円、地域二千円と適当に入れる。合計一万六千円と表示された。  恐る恐る触れた通話ボタンが即座に発信中となり、心臓が大きく跳ねた。通話終了を押す前に、コール二回で出たのは、事務的な男の声だった。  聞かれるままに希望時間や名前、自宅住所を告げる。 「どの子でどんなコスプレがお好みですか?」 「林瑞穂に似ている子で、教師」  今時、林瑞穂とでも言いたげな声が、スマホを通して伝わってきた。出勤時間を調整した男は四十五分後と告げた後、新規利用ということで注意事項や禁止事項の説明をした。  大きく数字が表示されたタイマーが六十分後にセットされた。  罪悪感はデリヘル嬢を前にし、どこかに置き忘れた。シャワーを浴び終えたのに、わざわざ下着とスーツの着用をお願いした。非日常的な光景に頭の芯から痺れ、空っぽになっていく。 「まあさ」と名乗る二十六歳のデリヘル嬢は、林瑞穂の顔を幾分華やかにした感じだった。ストレートの栗色の髪に紺色のスーツは、一般的な風俗嬢の中では硬いイメージだ。しかし、ブラウスからはだけた胸の谷間や、スカートから覗く太腿が肉感的だった。  いつもはプライベートルームで林瑞穂を思いながら採精する。まあさの白い頬を撫でると、長い髪を左肩にまとめ、上目遣いにわざと顔を見せた。  目と目があい、気持ちよさと恥ずかしさに気が遠くなった。まあさの白い肌に赤みが差し、乳首が透けた黒いブラジャーと白いブラウスとの対比に気が遠くなっていく。  風俗に入る前はネイリストをしていたと言っていた。年齢の割には肌に瑞々しさと弾力があるが、舌使いは素人とは比べものにならなかった。  いつもは採精室ですぐにケースに入れていた精液を、まあさは慣れた手付きでティッシュにまるめて捨てた。  ブラジャーを外し、乳首をそっと口に含んだ。この乳房も妊娠すると乳腺が発達し、乳が出るようになるのだろうか。そして、日に日に大きくなる妻の腹を優しく擦る夫のように、贅肉のついていない腹を撫であげた。  黒いショーツの縫い目の奥に潜む卵子が、先ほどティッシュの中に捨てた精子と出会い、十ヶ月後にはここから赤ん坊が産まれる。  まあさのセットしたタイマーが、残りの時間を事務的に告げた。  知床のホテルは五日前までキャンセル可能だった。  働きたいという美香の気持ちを優先させ、前日の最終のJRで美香が釧路入りをし、翌朝から釧路湿原のタンチョウツアーに参加した。  二人の他にツアーには中年女性のグループと年輩の夫婦、一眼レフを持った若い女性の二人連れがいた。ダウンコートに白い耳当てを付けた美香は、実年齢よりも若く見える。手袋の上からカイロを握りしめ、寒いと腕を掴んできた。  釧路湿原を見渡せる北斗展望地は所々木道が見え、丸裸となったハンノキ林が遥か遠くまで続いていた。ガイドが昨朝のカヌーツアーで、釧路川沿いに立ち並ぶ木々が霧氷のトンネルになっていたと写真を見せてくれた。  湿原にいるタンチョウも冬期間は川を塒にしている。澄んだ川面にいるタンチョウの白と黒の羽毛に雪が舞い落ち、毛繕いをする度に動く赤い頭部が幻想的だった。川岸で羽を広げ、くちばしを天に向けるように高々と鳴いている。女二人連れが慎重に望遠レンズで二羽のタンチョウを撮影している。  群れの中で黒い模様が入った幼鳥が片足をあげて昼寝をしている。幼鳥はまだ頭部が赤くなっていない。雪が止み、晴れ間がのぞいたからだろうか、二羽並んで眠る幼鳥の姿に、美香が眩しそうに微笑んだ。澄み渡る晴天の下、羽を広げた成鳥が大きく旋回し、湿原へと帰っていった。  吐く息が白い美香と目が合った。給餌場へ向かうガイドとメンバーから二人は若干遅れた。カイロを揺すっている美香がそっと和親の手を握った。 「あの二羽のタンチョウ、夫婦だね」  タンチョウはオスが長く鳴いたあと、メスが短くリズミカルに鳴く。縄張り争いと夫婦の絆を確認するためだと、ガイドが説明してくれた。一月下旬から二月には求愛のダンスが始まり、交尾をし、つがいとなった二羽はどちらかが死ぬまで添い遂げる。卵を温めるのも交代で行い、子育ても協力し合う。人間の夫婦もタンチョウを見習うべきだと、中年女性のグループが、旦那の悪口で盛りあがっていた。  雪原を踏み締める度にブーツの踵が鳴る。給餌場の柵の前に立つと、集まったタンチョウの群れが餌を取り合っていた。つがいを呼ぶ鳴き声とは違った鋭い攻撃的な声に、上空を飛んでいたオジロワシが逃げていった。  双眼鏡を首から下げた美香がハンノキ林へ飛んでいくタンチョウを追った。大きく羽ばたいたタンチョウの黒い風切羽が日の光に照らされた。 「私たちもタンチョウのようにずっと一緒にいようね」  ぬるくなった缶コーヒーを手袋で温めていた和親は、頬が赤くなった美香と向き合った。 「やっぱり私は子供のことは諦めきれない」 「そうだね」  一時期は和親や母親にヒステリックに当たり散らしていた美香の目が、今日は違って見えた。その中には新たな強さと意志が生まれていた。 「四十歳になるまでは治療を続けたいの。だからマンションを売ろう」  美香の頬の赤みは寒さのためだろうか。耳あてから覗く耳朶もかじかんで血管が透けて見える。思わず握られていた手を握り返した。 「あと三年ある。お互い前向きにやっていこう」  マンションがいくらで売れるのか分からないが、家賃を今のローンよりも落とせることは十分可能だろう。あとは施設での毎月の新規契約を何件とれるかだ。 「今の催事の会社からパートの話が出ているの。体外受精の治療を考えたら、フルタイムは無理だけど、私も働くよ」  大きく羽ばたいた二羽のタンチョウが首を空に向け、ステップを踏んだ。給餌場の柵に痩せ細ったキタキツネが現れ、他のタンチョウが一斉に甲高い声をあげて、よそ者を取り囲んだ。 「店は駅前の百貨店の女性用ウィッグ。大手かつらメーカーのブランドで、研修や勉強会もあって、ノルマもないの」  やはり美香も仕事に生きがいを感じているのだろう。婦人靴から女性向けのかつらへと扱う商品は変わるが、客の笑顔が財産なのだろう。 「私がパートに出たら、治療費の一部になるよね。和くんだけに頼っていられないから」 「西山ヱミ子さんが確か、そのメーカーのウィッグを使っているよ」 「メンテやカスタマイズもできるし、ヱミ子さんなら新規で買ってくれるかもね」  再び雪が降ってきた。薄青の空が白く陰り、小さかった雪の粒が数分で大きな粒となった。タンチョウの群れに追われたキタキツネの尻尾が、木肌がむき出しとなった林の中に消えていった。不思議と寒さは感じなかった。  その夜、阿寒湖畔の旅館で数年振りに美香を抱いた。まあさと比べて小ぶりな美香の乳房は、心なしか形が変わっていた。  体験入居の申し込みをした夫婦を入口まで見送った。居室数八十室分の下駄箱が並ぶ玄関には、桃の花がいけられている。来週には暦は三月になる。  六階の共用スペースに飾られた七段のひな人形は、西山ヱミ子が施設に寄付してくれた。介護タクシーを利用し、自宅から運んだひな人形は状態も良く、名匠が作った十五人揃いの人形は、気品のある表情を浮かべている。十二単の京友禅の着物の色彩や、桜柄の刺繍も見事で、ひな道具もめでたい鶴蒔絵が描かれている。 「美香ちゃんにウィッグのメンテ、お願いしてね」 「新商品が出たって言っていましたよ。前よりも手入れも楽だし、風合いも良いそうです」  七段飾りの下段の桜橘の花びらを直しているヱミ子は、やれやれと肩をすくめた。 「あなたたち二人には死ぬまで世話になりそうだわ。来週、介護タクシーで美香ちゃんの店に行くから、出勤日教えてね」  各階にも他の入居者から寄付された段飾りや、殿と姫が対となった内裏雛をスタッフが黙々と箱から出している。今週末にはおひな様のレクリエーションが施設で行われる。  釧路の短期出張が終わった頃には、美香が引っ越しの準備をあらかた終わらせていた。将来的に子供は一人と考え、3LDKの賃貸のマンションを近場に探した。不動産屋を通して新聞の折り込みチラシに載せたマンションは、地下鉄沿線の教育熱心な文教地区のせいか、すぐに買い手がついた。  契約を交わし、部屋を引き渡す前に大掛かりなリフォームが入った。クラシックローズとヨットの壁紙はシンプルな漆喰のパターン模様に変わり、台所には食洗機が備え付けられ、駐車場には車止めが付けられた。  西側の六畳間には結局、七段飾りのひな人形は飾られなかった。美香と最後に荷物の入っていないマンションを訪れ、ブレーカーを落とし、カギを掛けた。  八年目のひな祭りは引っ越したばかりの部屋で、ひなデコケーキにちらし寿司でお祝いをしよう。きっと手付かずの段ボールが子供部屋に置かれたままだろう。  四月から二回目の体外受精の治療が始まる。出来ても出来なくても、二人の人生は確実に未来へと広がっていく。  ふと、ヱミ子から貰った東京の日枝神社の子授守を取り出した。猿のお守りが入ったビニール袋には、きっちりとホチキスがとめられていた。  施設の裏にそびえる藻岩山スキー場のナイター照明が点灯したのだろう。うさぎ平からファミリーゲレンデまでのコースの明かりが、ぼんやりと藻岩山の山頂をオレンジ色に縁取っていた。
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