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男を見送った後、梓汰民が客間に戻ってくる。一口も飲まれなかったコーヒーを代わりに飲み、遠藤の方を向いた。
「結局、あの人は何しに来たの?」
「話を聞いてほしかったんだろう。更に言えば、警察に行く前に自供が適当か第三者に確認してもらいたかった。万屋なら話くらいは聞いてもらえる。もしも自分の犯行が疑われるのなら警察に行っても同じことだ。自供の嘘がバレないか確認したかったのだろう。」
「…でも、本当にいいのかな。もしも遠藤君の言う通りに奥さんが人を殺していたのなら、奥さんは人殺しなのに無罪ってことでしょ?」
「彼の守りたい者がそれで守れるのなら、彼にとってはそれでいいのだろう。」
「でも…」
「彼は妻を守りたいわけじゃない。」
遠藤の言葉を聞いて梓汰民が首を傾げる。
「どういうこと?」
「最後の質問で、彼は妻を愛していると言わなかった。本心で、自分のためではないと言ったに過ぎない。ここからは俺の想像だが、彼の妻は『妊娠している』のではないだろうか。」
「妊…娠…?」
「妻が捕まれば獄中出産となり得るし、そうでなくとも精神的ストレスで流産や堕胎の可能性が高まる。彼はそれが嫌だったのだろう。生まれてくる子が『不倫相手の子』だとしても、我が子を不幸な目に遭わせたくなかった。だから妻と口裏を合わせ、自らが犯人だと名乗りを上げた。」
梓汰民は言葉を失った。遠藤の顔が晴れない理由が分かった。彼は最初からあの男が犯人ではないと直感していた。
「遠藤君、いつからあの人が犯人じゃないって思ってたの…?」
「足元に泥が跳ねているのに裸足だったことに違和感があった。わざわざ靴下を脱ぐ時間があったのにシャツは血塗れで髪は乱れていた。狂乱気味だったのに丁寧にインターホンを押し、ドアが開くまで店の外で静かに待っていた。俺には、彼が必死で演技しているようにしか見えなかった。」
そう言って遠藤は立ち上がる。窓の外は大雨だ。血も泥も洗い流されるだろう。
「わざわざ血塗れの服を着たまま5時間も掛けて妻との口裏を合わせ、崩壊した家から血痕を取り除き、全てを自分の犯行へと偽って、その思いを持ってこの店を訪ねた。依頼をされたからには、その思いに応えなければならない。」
この雨ならば血塗れの男が走っていようと注視する者はいない。暗い雨雲と豪雨が彼を隠してくれる。他人の罪を背負って自首しに行く惨めな彼を、衆目から守ってくれる。
「せめて今だけは、止まない雨であってほしい。」
そう言って遠藤は窓に吊るしたてるてる坊主を回収した。てるてる坊主を手渡された梓汰民はそれを大事にポケットにしまいこんだ。
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