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午後の教室は時間がゆっくり流れていく。黒板の前に立つ葵の目の前の席の生徒が、睡魔と闘っていた。
「マリー・アントワネットの夫、ルイ16世は妾ももたず王妃だけを愛したにもかかわらず、アントワネットは不倫したり、色々あったわけです。中国や朝鮮の王様だったら側室がたくさんいたから、淋しさを紛らわすとか、わかりますけどね。かつて、奥さんが合計11人、子どもが26人いた王様がいるんですよ!」
「え! マジで⁉」
「11人もどうやって相手するの?」
「子供26人って名前覚えられるの?」
そのどよめきで、舟をこいでいた生徒が目を覚ました。
「葵先生って、よく中国や朝鮮の話になるよね」
「今はヨーロッパ史やってるのに」
「はい、今日はここまでです!」
「起立。礼。ありがとうございました」
チャイムの音が鳴った。
杉浦葵30歳。まつ毛の長い二重瞼でロングヘアー、童顔に加えて華奢なためか、男子生徒にファンが多い。性格がさっぱりしているし、授業もわかりやすいと、女子にも人気がある。しかし、わけあって彼氏は何年もいない。キスの経験もない。恋愛なんてもう一生することはないだろうと思っていた。彼が現れるまでは。
*
3学期が終わり、春休みに入った。私立朔陽高校では、年度末に職員の歓送迎会を近くのホテルでするのが恒例だ。その日が今日なのである。葵は欠席する理由を考えたが、今年もいい考えは浮かばなかった。仲良しの養護教諭、上林かすみと待ち合わせ、会場に向かった。
かすみは、葵とは年が近く、お姉さん的存在で、葵の心の保健室といっても過言ではない。葵が教育実習中お世話になって以来の仲だ。
会が時間通りにスタートし、校長のあいさつからお決まりのコースを経て、葵の恐怖の時間、「歓談」が来た。
「葵ちゃん、がんばろうね~」
かすみに励まされ、葵は気合を入れた。入れ代わり立ち代わり、男性教諭がビールを持って葵のところにやってきた。
「杉浦先生、今年もお疲れさまでした。いやあ、今日もお綺麗ですな」
(来た! セクハラおやじ)
固まっている葵の代わりにかすみが助け舟を出す。
「ありがとうございます~、ビールは少しで勘弁してあげてくださいね~」
「葵先生! 今日は僕と飲みましょうよ」
(来た! 肉食体育教師、山川先生!)
「すみません~。養護教諭として、これ以上はお勧めできません~。少しでお願いしますね~」
かすみが割り込んだ。
男性教諭に話しかけられるたびに、かすみが上手に受け答えをしてくれた。葵は「女を見る目」が、自分に向けられていることに耐えられなかった。喉の奥から嫌な味が湧き上がってきた。
「葵ちゃん、そろそろ限界みたいね」
「もうだめ。吐く」
「男アレルギーも病気のうちね」
仕事なら大丈夫だった。しかし、相手にオスを感じた瞬間から気持ち悪くなってしまうのだ。
まだ宴もたけなわではあったが、かすみは校長のところに報告に行った。
「校長先生、杉浦先生の体調がすぐれないので、私が送っていきます」
「上林先生、毎年すみませんねえ。よろしくお願いします」
養護教諭の一声は強い。すんなり帰れることになった。
「かすみ先生、ありがとう」
「私も早く帰れて助かるんだ~。旦那が子供たち見てくれてるとはいっても、あんまり遅くは帰りたくないし~」
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