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買い物が終わり店から出ると、まだ雨は降り続いていた。
おれは大して期待せずに傘立てを見る。案の定、自分の傘は見当たらない。
きっと誰かが持って行ったのだろう。
よくあることなので、いつものように他人の傘に手を伸ばそうとしたとき、
「おや、ユウジ君じゃないか」
懐かしい愛称で呼ばれ、思わず振り返る。
雨の中、黒のロングコートを着て、右手で傘を差している男性がいた。
「久しぶりだね」
「お久しぶりです、砂村さん」
砂村さんは高校時代に知り合った、骨董品店の店主だ。しかし、大学に入ってからは疎遠になっていた。
「ユウジ君、君は今他人の傘を使おうとしたね」
突然、砂村さんは咎めるような口調で言う。おれは思わずいいえと答えていた。
「これはおれの傘です」
「違うね。君は青い傘しか買わない。黒でもなく赤でもなく、ましてや君が盗ろうとしたビニール傘なんて絶対に買わない」
断言された。
確かにそうだ。おれは青以外買わない。
「どうしてそう思うんです?」
「君が前、言っていたじゃないか」
しれっと言う。おれ自身が覚えていないことでも、砂村さんはよく覚えている。
砂村さんは厳しい顔をして続けた。
「他人の傘を盗っちゃだめだよ。今度は盗られた人が困るんだからね。君のように。」
「……わかりました。でもおれはこのまま雨に打たれて帰れと……」
いうのですか。と言いかけて、あることに気付く。
砂村さん右手に差している傘とは別に左手にも一つ、青いもの持っていた。
「砂村さん、どうして傘を二つ持っているんですか。もしかして、迎えに来てくれたとか」
自分でもあり得ないだろうと思う問いに、砂村さんは笑う。
「違う違う。これはダミーだよ」
「ダミー…?」
訝しむおれに、
「それじゃあ、この傘を開いてごらん」
そう言いながら、砂村さんが傘を渡す。
おれが渡されたそれを開くと同時に、紙吹雪がぱっと舞った。ひらひらと降る紙切れを見つめながら唖然としているおれに、
「よく盗まれるんだ。だから折り畳みを持ち歩くようにしてね、これはダミーとして傘立てに置いておくんだ。中には、いらなくなった紙をちぎって入れておく。そうすればこの傘を使った人はきっと楽しい気分になるだろう」
と嬉しそうに言う。
「なりませんよ……。それ、砂村さんが楽しいだけでしょう」
おれは服についた紙吹雪を手で払いながら言った。
「そうかもね」
あっけらかんと答える砂村さんの目は笑っていた。
理解しにくい人だ。
「でもね、人の傘を盗るほうが悪いんだよ。それに、これは僕のものだから何をしても良いじゃないか」
胸を張る砂村さんにおれは苦笑する。あの時から変わっていない。お茶目な人だ。
「ところで、どうしてここに?」
声を掛けられてから一番の疑問を口にする。
「ああ、店が入っていたビルを取り壊すっていうから、こっちに移ったんだ。また君に会えてうれしいよ」
そういって五年前、出会った時と変わらぬ笑みを浮かべた。
「おや、もうこんな時間だ」
砂村さんが腕時計を見る。
「今度会ったときは、就活で落ちないための話でもしてあげよう」
そう言って砂村さんは俺と青い傘を残して立ち去った。
「落ちない話、ね」
呟いておれは彼とは逆の方向へ歩き出す。
きっとこの雨は当分止まないだろう。そんな気がした。
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