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雨模様は混ざり合う
☂
花冷えの季節、私は息抜きに散歩へ出かけた。
見慣れた風景が桜によって鮮やかに彩られている。
風が吹き桜の花びらが舞う中を私は歩いた。
何も考えず、頭を空っぽにして。
そのまま歩き続け、たぶん三十分くらい過ぎた頃。
体もだいぶ冷えてきて帰ろうとした時のことだっ
た。
少し前まで売地になっていた場所にこぢんまりとした店が建っていた。
周りに森の木々しかないこんな場所によく建てようと思ったものだ。
近づいてドアの取っ手にかかっている掛札を見ると、『喫茶Rain☂』と手書きで書いてある。
喫茶店なら尚更ここに建てるべきではない気がするが……ん? 掛札をよく見てみると下に何か書いてある。
『雨が降り次第開店、止み次第閉店』と書いてあった。
率直に言うと独特な店だ。
時間ではなく、まさかの天気次第とは。
梅雨の時期になったら二十四時間営業だな。
下手したらそれ以上か? その場で店を眺めていると、冷たい風が私の体を通り抜ける。
「さむっ……早く帰ろう」
そうしてその場を後にし、ぽつりと呟いた。
「……次雨が降るのはいつだったかな」
私はたまたま見つけたこの店に興味を覚えた。
☂☂
仕事の関係上、私は家にいることが多い。
だから普段は洗濯物を干す時間帯の天気ぐらいしか気にしない。
だが、今日は担当の人との打ち合わせがあるため外に出なければならない。
そういう日だけ一日の天気を確認する。
そう、普段なら。
この前見つけた喫茶店が気になっている私は、雨が降るのが今日であることを前々から知っていた。
「よし」
身支度を済ませ、立ち上がる。
「面倒事をさっさと片付けてあそこに行くか」
本当に開店してるのか知りたいしね。
☂☂☂
やっと打ち合わせが終わり、外に出たすぐの事。
顔に冷たい雫が当たり、頬を伝って流れ落ちる。
天気予報通り、空からポツポツと雨は降り始める。
鞄の中から折りたたみ傘を取り出し、私は『喫茶Rain☂』へと向かった。
まあ、着く頃には傘を差してたのなんて関係なかったけど。
折りたたみ傘だし、しょうがない。
そして、目的地のドアを見てみると掛札には『開店中』と書いてあった。
半信半疑ではあったものの本当にやっているとは思わなかった。
濡れた服を軽くタオルで拭いてから、店内へと入った。
傘を鞄の中にしまって中を見渡す。
質素な内装の店内は静寂に包まれている。
店内は三席ほどの椅子とテーブル、カウンター席の方にある手動のコーヒーミルとティーカップ。
そして、壁際に置いてある立派なピアノ。
小さな店にあんな大きなピアノを置く必要があったのだろうか?
私が店内の様子をしばらく眺めていると、
「いらっしゃいませ、お好きなお席へどうぞ」
と言って女性の店員がやってきた。
そう言われたので、とりあえず窓際にある一人席に座る。
適当に何か頼もうと思い、メニューを見ようとしたが無かった。
準備し忘れたのかな。
店員さんを呼んでメニューを見せてもらえないかと頼んだ。
すると、店員さんは不思議そうな顔をしてこう言った。
「カプチーノしか出ませんよ?」
と言い首を傾げる。
私は呆気にとられてしまった。
どういうことか分からない。
それを察したのか店員さんが言葉を続けた。
「掛札にも書いてあったはずですよ? カプチーノオンリーって」
なるほど、それはよく見てなかった私が悪いな。
それにしても、独特だと思っていたがまさかここまでとは。
郷に入っては郷に従えってことだな。
一息つき、
「すみません、ではカプチーノを一つお願いします。困らせてしまって申し訳ない」
「いえいえ、初めてですし戸惑いますよね。すぐにお入れしますので、少しお待ちください」
そう言うと店員さんはカウンター席の方へ戻っていった。
ここまで個性が強い店は見たことがなかった。
ある意味、貴重な経験だ。
カプチーノが出来上がるまで暇だし、スマホでゲームでもして待つことにした。
数分後。
「お待たせいたしました」
と言って私のテーブルに出来立てのカプチーノが置かれる。
ティーカップから何とも穏やかな香りが漂う。
「ありがとうございます」
カプチーノを口へと運び、ゆっくりティーカップを傾ける。
……しっかりした味わいとすっきりした苦味。
濃厚なエスプレッソとフォームドミルクが絶妙のバランスだった。
……なるほど、カプチーノオンリーにするだけあってこだわりが感じられる。
そのままぼーっとカプチーノを飲みながら、窓の外を眺めていた時だった。
店員さんが近づいてきて、私の横に立った。
「何か一曲弾こうと思うのですが、リクエストなどありますか?」
「え? う、うーん?」
少し考えてみたが何も浮かばなかった。
「お任せします」
と店員さんに告げる。
店員さんは少し困った表情を浮かべていた。
でも、
「わかりました」
と言ってピアノの方へ向かった。
「ドビュッシーの『月の光』を弾かせていただきます」
私は自分だけに演奏してくれる彼女に拍手を送る。
彼女はニコッと笑ってから一礼して座った。
椅子の高さを調節したり、音の確認を一通り済ませる。
そして姿勢を正し、鍵盤に指が触れる。
曲名を聞いた時は分からなかったが、音を聴くと聴いたことがある曲だった。
店内の静寂に溶け込むように調和が生まれている。
窓の外から聞こえる雨の音も相まって、なんだか切ない気持ちになる。
だが、心地よくもある。
私は今この瞬間にいる目の前のピアニストに目が奪われる。
音の旋律もそうだが、彼女の姿そのものに惹かれてしまう。
このままずっと聴いていたい、そう思えるほどに。
だが、突然その指は止まってしまう。
それと同時に私の意識が引き戻される。
まだ曲は終わっていないはずなのに、なぜ止めてしまったのか分からなかった。
「もう雨が止んでしまったので、今日はここまでですね」
そう言って店員さんはピアノから離れた。
言われて窓の外を見てみると、確かにもう雨は止んでいた。
「では、お会計をお願いします」
「は、はい」
慌てて席を立つ私を見ながら店員さんは言う。
「どうでした? 私の演奏」
「え、あ、はい。とてもよかったです」
今の私にはそんな言葉しか出ず、恥ずかしい。
それでも店員さんは嬉しそうに微笑んでくれた。
会計を済ませた私は出ようとしたが、少し止まって後ろを振り向いた。
「あ、あの、お名前を教えてくれませんか?」
突然のことで少し驚いていたが、嫌そうな顔はしなかった。
「はい、いいですよ。私は夜見志香と言います。お客様の名前は?」
「紫暮尚人です」
「紫暮様ですね。また機会がありましたら来ていただけると嬉しいです」
「はい、また来ます」
店のドアを開きすっかり暗くなった外へ出た。
店を出た後も私は店の余韻に浸っていた。
正確にはあの店と夜見さんのあの空間に。
外灯の光が反射する水たまりを避けることもせず家へと帰宅した。
☂☂☂☂
「紫暮さん、変わりましたね」
「え? そうですかね?」
「そうですよ! 前まで全然作品の執筆に取り組む気なかったのに、今では暇があれば書いてるじゃないですか!」
担当の人はそう言ってパソコンをカタカタ打つ私の手元を見て言った。
「……最近はモチベーションが高いだけですよ」
「変わったのはそこだけじゃありません。いつも天気を気にしたり、飲み物がだいたいカプチーノになったり、聴く音楽がクラシックになってたり」
「……まぁ、気分を変えようかと思って」
「ふーん?」
何か言いたそうな目をして、こちらを見てくる。
「……なにか?」
「いえ、もしかして、意中の相手でもできたのかなーと」
「意中の相手……?」
意中……気になる……夜見さん?
「え? なんですかその反応」
「意中なのかは分からないけど、気になる人ならいます」
夜見さんに対しての感情は恋愛的なものなんだろうか?
「ふーん? まぁ紫暮先生を変えてくれたその人には感謝ですね。こっちとしては大助かりです」
とまぁ、あれから月日は経ち、夜見さんとは二か月くらいあっていない。
あの日から雨が降ることがなかったからだ。だけど、もう少しであの時期になる。
「ん? なにカレンダー見てニヤついているんですか?」
「もうすぐ梅雨の時期だなぁと」
「……梅雨が嬉しいとは思いませんが?」
「私にとっては嬉しいんですよ。だって……」
「だって……なんです?」
だってそしたら、あの場所……『喫茶Rain☂』に行けるから。
お し ま い
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