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 5月半ば、その日の電車は、やけに混んでいた。  この路線は、都心への通勤客と沿線の学校の学生で、もともと朝の時間帯はかなり混む。だが今朝は、併走する私鉄で人身事故があったため、振替輸送の客が流れ込んで来ているようだ。この駅を使い慣れていない様子のサラリーマンや学生で、駅構内や電車内が普段よりも混雑していた。  通勤の途中の満員の電車内で、松橋は新聞やスマートフォンを取り出すこともできずに電車の揺れと人の波に従い、次の駅までやり過ごしていた。  入社して5年。会社の寮から本社ビルまで、4駅ほどの短い通勤距離を通うのが松橋のルーティーンだ。  今朝は、振替輸送の影響で、その穏やかなルーティーンが崩れた。  最初は、何となくの違和感を感じた。松橋の横に立っているのは、40代くらいのサラリーマンだ。  その男は落ち着かず、そわそわと身動きしていた。視線を巡らせると、その男のすぐ前の、ドア口のところに高校生がもたれているのがわかる。  学ランだ。清鳳の子かな、と松橋は思う。この地区では有名な、私立の進学校だ。この路線では良く見かけるし、同じ車内には、他にも同じ学ランの学生が何人かいた。あの格好は、この混んだ車内では暑いだろう。  次の駅に着くまであと5分ほど。そうこうしているうちに、横にいる男の息が乱れてくる。  この混雑で気分でも悪くなったのかなとも思ったが、何となく違う。電車の揺れを装って、必要以上に学ランの学生にすり寄っているような気がする。  痴漢? …いやいや、それ女子高生じゃないぞ。ミニスカートでもないぞ。きっちり詰め襟の、男子高生だぞ。  体を近づけているだけで、特に手で触れたりはしていないようだ。ただ、息が乱れている。それだけだ。だが、その高校生にしてみれば、あまり心地のいいものではないだろう。  身動きが取れないため、二人の間に割って入ることはできない。何か声をかけるべきか? とはいえ、ただ鼻息が荒いという理由だけであからさまに咎めるわけにもいかない。…ひょっとしたら、ただの鼻炎かもしれないし。  そうこうしているうちに、次の駅に着く。ドアが開いた途端、そのサラリーマンは慌てたように電車を降りていった。高校生は一度外に出て、再び同じ場所に乗り込んでくる。  松橋の目の前に来た。やはり、清鳳の学生だ。窓の外に目を向けている。  綺麗な顔だな、と思った。背筋の伸びたすっきりとした立ち姿に、さらさらとした髪。  ふいにチラ、とその高校生が視線を上げた。一瞬視線が絡み、松橋はドキリとする。  目が合ってしまった。しかも、かなり近い。  この駅から乗り込んできた新たな乗客たちが、ぐいっとさらに車内を押してくる。これ以上近づくのはまずいと本能的に思って、松橋は手を突っ張ってその流れに抵抗した。  さっきの男が鼻息を荒くしてしまった理由が、何となくわかる。目の前の彼の仕草や体の線から漂う、色気のようなもの。  女性的な印象は全くない。どこからどう見ても、男子高校生だ。細いけれどひょろひょろとしているわけではなく、何か無駄があるわけでもなく、自然にバランスの取れた体つき。  少し目を伏せた睫毛の影が、手触りの良さそうな頬に落ちかかっている。学ランの袖から覗く指先が、どうしてかやけに色っぽく見えた。  …あー、確かにこれは、やばいな。  そう思いながら、必死に手で自分の体を支える。普通に呼吸をするのも憚られるような、そんな距離。ふっと腕の力を抜けば、きっと体が重なってしまう。  どさくさに紛れて抱き寄せたくなるような、そんな誘惑。  次の駅までの距離は短い。清鳳の学生なら、そこで乗り換えるだろう。  長いような短いような数分を、松橋はやり過ごした。やがて車内のアナウンスが、駅が近いことを知らせる。松橋はホッと息をついた。クス、と腕の下の高校生が小さく笑った気がしたが、気のせいかもしれない。それを確認する余裕はなかった。それにこの子の笑顔なんて、きっと見ない方がいい。  ドアが開いた。人の波に押されて、するりと高校生が腕の中から抜けていく。空虚になった行き場のない腕をそっと下げて、松橋は電車の奥の方へ移動した。  窓から、さっきの高校生が、同じ制服の誰かに声をかけられているのが見えた。松橋は、ぼんやりとそれを目で追ってしまう。  …何だったんだろう。やけに疲れた。あの高校生の、引力のような、磁力のような空気。  もう会いたくないし、少なくともあの距離でニアミスすることは二度とないだろう。それでも、もし同じ空間にいたら、すぐにあの子を見つけてしまう自信があった。  …男子校に、あんな子がいるのって色々とまずくないか? 勝手ながら、ふとそんな心配をしてしまう。もしも高校時代に今の状況になってたら、自分を止められていた気がしない。  明日から電車の時間、変えよう。とりあえず、学生たちとかぶらない時間帯に。松橋はそう決意した。  社会人にとって、危険予測やリスク管理は極めて重要である。

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