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魔法少女の条件
土の上に転がった体を、青く腫れた頬を、風がなでていく。その感触にさえ傷が痛んだ。
見上げる空は青い。以前は涙でぼやけるように見えていたその空も、今では残酷なほどに真っ青だ。涙のひとつもこぼれなくなったのは、いつの頃だったろうか。
体操着から覗いている腕は骨が浮き上がっていて、ガリガリに痩せてしまうと、殴られたときに余計に痛いんだということが最近わかった。だからと言って、お腹いっぱい食べられるはずもない。
ミレイは痛む体で壁の方に這いながら、なんとか体を起こす。頭がクラクラして持ち上がらない。
中学の体育倉庫の裏。体育と部活の時間以外は誰も通らない場所。
通ったところで、見て見ぬふりされるだけだ。伸ばした手がつかまれることはなく、髪についた泥は誰もが遠巻きに見る。ただ、いたぶられる時間が見せつけのように長くなる。
──制服でやられなくなっただけマシか。
先生に目を付けられないように、ミレイはこの時間の前に、いつも体操着に着替えることを強要される。逆らう気力ももうない。いや、最初からなかったかもしれない。体操着は、処刑台に連行される前にかけられる手錠のようなものだ。
「あーら。またハデにやられたわね」
鈴のような声にのろのろと顔をあげた。ミレイがこうやって傷ついている時に、声をかけられたことはない。
「……誰?」
目線の先には、ただ青い空と校庭へと続く道があるだけだ。時折、遠くから喧騒が聞こえてくるけれど、先ほどの声はもっとはっきり耳元で聞こえた。
「こっちよ。こっち」
風鈴の音のようにチリチリと音が鳴る。笑っているみたいだ。横を向くと、左頬に痛みが走った。
「──ッ」
痛みに声が上がる。思わず左頬に手を当てると、「いたい!」と声が上がった。手に何か小さい人形のような弾力を感じる。
「え?」
「ちょっと! 離して! 痛いじゃないっ」
青色の瞳に金髪の髪は腰までありそうなほどで、頭には草で編んだかのような冠がついている。緑に透き通った服と同化するように背中から羽が4枚生えていて、爪楊枝ほどの太さの指とそのトンボのような羽でビシビシとミリアの指を叩いている。まるで、物語で見たような「妖精」だ。
そのまま、土の上に置く。頭を打っただろうか。先ほど殴られたときの打ち所が悪かったのかもしれない。妄想まで出てくるとは。
「ちょっと! 妄想じゃないわよ! 私はれっきとした精霊! あなたを魔法少女にするためにやってきたの」
下の方で何か喚いているが、遠くてよく聞こえない。もう少ししたら、帰らなければ。歩けるか微妙なところだが、門限の18時に間に合わないとそこでも殴られかねない。帰ったら、掃除と洗濯をしなければ。
「あなた! 無視しないで!」
ぶんぶんと妄想が目の前を飛び始めた。煩くてかなわない。仕方なく立ち上がり、足を引きずりながらその場を離れる。
「もう! いいよ。勝手にやっちゃうからね!」
精霊が聞き慣れない言葉で歌うように何かを唱える。
途端に、ミリアをキラキラとした光が包み込み、星が地面から空に向かって流れるようにミリアの周りを飛んでいく。髪が浮き上がり勝手に後ろで編み込まれる。薄汚れた体操着が光沢のあるセーラー服のような服に変わる。頬の傷が消え、引きずっていた体の痛みが消えた。
「う、そ」
茫然と自分の姿を見る。精霊が「どんなもんよ」と自慢げにミリアを見ている。
「何これ?」
これじゃあまるで──。
「魔法少女よ」
そうだ。かつて、テレビで一度だけ見たことのある、魔法少女のようだ。
「これで、悪い奴でも倒せって?」
短いスカートが気になる。これなら、泥だらけでも体操着の方がましだ。趣味が悪い。
「そうよ。この学校にはとおっても悪い奴がいて、そいつに憑かれたやつは、いじめばかりするようになるの」
ピクリと左頬がうずいたような気がした。ふふん、と精霊が自慢げに鼻を鳴らす。その音が、また風鈴のようにチリチリと聞こえた。
「思いあたること、あるでしょう?」
「あったとして、どうするの? 私はヒーローごっこなんてしない」
「そんなこと言ってられないわよ。ほら、聞こえるでしょう?」
チリチリンという精霊の笑い声とともに、地響きのような音が聞こえる。ミリアの頭上に影がさした。まだ、空は明るいはずなのに──。
「!」
見上げた先に、空を覆うほどの大きな腹が見える。虎のような模様と色の毛だ。ただし、虎よりも数倍大きい。その腹が、ミリアの目前に迫ってきたかと思うと、目の前に降り立った。思わずあとずさると、ザリッと土がなる。
牙が顎ほどまである。その大きな口を開けて、目の前の馬鹿でかい虎が威嚇してきた。しかし、その叫び声が聞こえない。砂埃が立つほどに豪快におりたはずなのに、音が一つも聞こえない。無音の空間にでも入り込んだみたいだ。
「あいつはトラジオン。怒りの権化」
精霊の声は聞こえる。虎の化物、トラジオンの音だけが聞こえない。
「なぜ、音が……」
「あいつと私たちとでは住む次元が違うもの。あたりまえよ」
「次元……?」
トラジオンが見えない空間に向かって突進をする。ビクリと体が震え、思わず目をつむった。想像していた衝撃はやってこない。恐る恐る目を開けると、トラジオンは何か見えない壁か、もしあるのなら結界のようなものを突き破ろうとしているかのようだった。
「あの先とこちら側の次元が違うの。だから、トラジオンはこちらの人間に憑くことで、悪さをしているのよ。さあ、いきましょう。あいつがこっちにくる前に!」
──なんで、私が!
ミリアは、トラジオンからあとずさると身を翻し、校舎の隙間に逃げ込む。その先は、学校を巡らす高いフェンスがあるが、登れないほどではない。逃げるが勝ちだ。あいつが憑いている奴がすることは、せいぜい殴ることだが、あの化物は違う。殺される。
「逃げたってムダよ。あいつも、あいつに憑いてる奴も、あなたが死ぬか死んだようになるまでつきまとってくるわ」
「──なぜ」
精霊がミリアの肩に乗る。チリリンと音がなった。
「あなたが、魔法少女になる条件を兼ね揃えているからよ」
思わず、精霊の顔を見る。頬杖をついている精霊は、くるりと飛び上がるとミリアの目の前で羽を擦らせる。チリチリという精霊から発せられる音が大きくなる。そうか、羽が鳴っているのか。
「ちょおっと、手荒だけど。よろしくね」
チリリリリリリ!
突然、ミリアの踏み出した先の地面がなくなり、足元から崩れていった。
落ちる感覚に足が宙をかく。手を伸ばすが、何も掴めない。
──ぶつかるっ!
地面が目の前に迫る直前、ふわりとミリアの体が浮いた。トン、と足が地に着く。
「こ、こは……」
「あいつらの次元よ」
地面が黒光している。まるで、どこかの建物のホールのようにツルツルとしていて、継ぎ目がない。
グオオオオオォォォ!
「!」
思わず飛び退ると、トラジオンの歯がガチンと鳴った。
「次元が同じだから、音も聞こえるってわけ!?」
「そう! やつけないとやられるだけよ!」
トラジオンから逃げるように走る横で、精霊が叫ぶ。
「そんなこと言っても、どうやって戦うの!?」
「こうするの」
精霊がまた聞き慣れない言葉で何かを唱える。ぱあっと七色に空間が発光すると、目の前に剣のようなステッキが現れた。
「つかんで! 思いっきりあいつに向かって振って!」
トラジオンがせまりくる中、ミリアは走る足を止めて対峙すると、精霊の言うとおりに、その剣を振るう。振ったと同時に、何かの衝撃に弾かれたように後ろに飛んだ。
「──ッ」
背中を襲う衝撃に、一瞬息が詰まる。
「いけええ!」
精霊の声の先を見ると、七色の斬撃がトラジオンへの飛んでいく。ザシュッという斬撃がトラジオンを飲み込む音とともに、断末魔が聞こえた。
シュウウゥゥという音とともに、トラジオンが煙となって消えた。
「や……」
「やったあ!」
精霊がミリアの周りを飛び跳ねる。
「さすが、私が見込んだ魔法少女!」
精霊がミリアの手をとる。
「私はユーナ。あなたと戦うために、あなたに遣わされた精霊よ。これから、よろしく」
にっこりとユーナが笑うと、チリリンと鈴音のような音が響いた。
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