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家に帰り着いた頃には、すっかり暗くなっていた。牢屋の入り口のようにそびえ立つ玄関をそっと開ける。すでに殴られるだろうことは決まっているが、物音ひとつでその時間は変わる。
滑るように歩く横で、ユーナの羽の音がチリチリとうるさい。ミリアにしか聞こえないと言うが、ヒヤヒヤしてしまう。
「……ただいま」
極力低い小さな声で帰宅の旨を伝えながら、リビングのドアを開ける。大きい声で言えばうるさいと罵られ、言わなければ言わないで夕飯にもありつけなくなる。ありつけたところで、他の家族、父や弟に比べれば雀の涙の量でしかないが。
暗い中、母親がテーブルで項垂れるように顔を覆っている。その姿が鬼のように見えて、ビクリと体が浮いた。
「……どこに行ってたの?」
「学校のクラスメイトと……」
嘘ではないが、ミリアに友達がいないことは母親も承知している。バレバレの言い訳に、母親が顔をあげた。ギラリと闇に底光りした瞳にぞくりとする。
「そう。なんで連絡しなかったの?」
「夢中になってたら忘れてて」
テーブルから幽霊のように立ち上がった母親が、ミリアのもとへとゆっくり近づいてくる。ミリアはこれから来るであろう嵐の中立っているために、グッと足に力を入れた。倒れたりしたら、余計に時間が長くなる。
手をだらりと下げたまま、虚ろな表情で母親がミリアの前で立ち止まる。
──くるっ!
思わずギュッと目を閉じると、想像していた衝撃ではなく、背中と胸に思わぬ重さを感じた。
「心配したじゃないっ!」
「……え?」
母親が、ミリアの母がミリアを抱きしめている。その状況に思考が追いつかない。しがみつく母の腕に思わずミリアもすがりつく。抱きしめてもらったのは、ずいぶん前のことだったろうか。夢に見た、母の腕の暖かさ。
「ミリア、ごめんね。ずっと辛い思いをさせていたね」
「ううん……」
ミリアは、涙で詰まった喉の奥で返事をする。今が幸せならそれで良い。ギュッと母を抱きしめる手に力を込める。そんな様子をユーナが微笑ましそうに見ていた。目が合うと、慌てたようにすまし顔に戻す。思わず、クスリと笑ってしまった。
「? どうしたの?」
「なんでもない」
「そう? じゃあ、ご飯にしましょう。今日はミリアの好きなカレーよ」
トテトテと床に響く足跡が軽い。お腹いっぱいに食べたカレーは、隠し味の蜂蜜で、甘くてまろやかで涙のような味がした。
「ミリア! そっちいくよ!」
「うん!」
黒光する地面を滑るように移動しながら、ミリアは剣を振るう。七色の斬撃が敵を貫き、燻らせた煙とともに敵が砂のように消え去った。
「もうすっかり板についたね」
「吹き飛ばされなくなったしね」
トラジオンを葬った日から、ミリアの日常は変わった。
母もクラスメイトもまるで人が変わったかのように、ミリアをいたぶることはなくなった。痛まない体、汚れない体操着、ミリアに戻った笑顔。それらは、ミリアに友人さえも連れてきてくれた。
ユーナに会ったその時から、辛く苦しい日々は終わりを告げたのだ。
変わらず化物との戦いは続いているが、ユーナの話からすると、化物を一つ片付けるごとに、ミリアのような幸せな人間が増えていると言う。
辛い想いをしている人を救いたい。
その言葉をユーナに伝えると、「だから、あなたを選んだの」とユーナは誇らしげに微笑んだ。
笑顔に応えたい。ミリアはその一心で日々剣を振るう。
「そろそろ、大きな敵が現れると思うわ」
化物を倒して家路に着く。その日は、ユーナがいつにも増して真剣な表情で、ミリアに次の戦いを告げた。決戦が近づいている、と。
「今までのようにはいかない。だから、万全の準備をしましょう」
ユーナの表情にミリアも息を呑んで頷いた。
ユーナがくれた剣は、希望と勇気を糧に、力を発すると言う。
大丈夫、ユーナとともにあれば。戦える。
「ミリア! そっちよ!」
「わかってる!」
今回の化物は今までとは桁違いに大きく、力が強い。体は鋼のように硬く、タコのような足でミリアを攻撃するので、近づくこともできない。
──目に斬撃さえ叩き込めば。
「──あっ」
焦燥がミリアの足元を縺れさせる。化物は、タコのような足をくねらせて、ミリアの足を捕まえた。
「ミリアッ!」
倒れた拍子に剣がミリアの手から離れる。カランという音が鳴り響いたかと思うと、化物のニョロニョロとした足で遠くへ飛ばされてしまう。
「剣──ガッ」
胴体につんざくような衝撃を感じた。息が止まるとかそう言うレベルではない。例えば、ビルから飛び降りたり、電車に弾き飛ばされたりするような、経験したことのない衝撃。骨がありえない音を立てながら吹っ飛ばされる。吹っ飛ばされたはずなのに、壁にぶつかることなく、反対の方向から再び暴れ狂うほどの力が襲ってきた。
「ミリア──!」
いたい痛い痛いいたいイタイ痛いいたいイタイいたい痛い。
頭の回路がそれ一色に染まる。左右前後からボールのように蹴られ続ける。その間にも魔法少女の力が体を回復させようとする。なす術はないのに。無駄に痛い想いをするくらいなら、死にたい。もう、死なせてほしい。
「やめてええええええぇぇぇ」
ユーナの叫び声が遠くに聞こえる。
ふっと意識が途切れる直前。
──ああ、これで解放される。
ミリアはゆっくりと目を閉じた。
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