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空を知らない雨姫さま
西の国の正宮さまが亡くなった。国の民草は喪を表す青い衣を身に着け、空のお宮へと旅立たれる正宮さまのために、華やかな音楽を街の中で奏でている。踊る女たちは青い衣を翻しながら、正宮さまの葬列を見送るのだ。
正宮さまの髪は青い玻璃の髪飾りで結い上げられ、紗が幾重にも連なった衣装が身を飾る。重たい肉体を捨て、天へと旅立つ彼女の晴れ姿は、空の青そのものだ。
西の国では、太陽が昇る東を世界の始まりの場所と定めている。人々の魂は雨と共に空から降り、晴天の日に重い肉体を捨てて空へ還るとされているのだ。
魂が昇る晴れの日は、新たな旅立ちを祝福する日でもある。人々は正宮さまを取り囲みながら、祝いの歌を奏でていく。すると、灰色の雲が立ち込め、魂の昇るはずの青い空を覆っていくではないか。
「ああ、雨姫さまがいらっしゃる。新たな魂が降りてこられるぞ!」
葬列を追うように、独りの乙女が片足を軸にして体を回している。玲瓏とした音が、彼女の黒髪を飾る玻璃から鳴り響き、足を覆う青い衣は花が咲くように閃く。
西の国の一の姫さまこと、雨姫さまだ。王宮には、天に愛された姫が生まれることがある。彼女の幾先には命をもたらす雨が、絶えずついて回るのだ。
だからこそ、雨姫さまは母である正宮さまの遺骸に寄り添うことができない。後ろから踊りながらついていき、新たな命の誕生を告げる雨を彼女は降らせるのだ。
雨姫さまの眼から涙が零れていく。その涙に応じるように、ぽつりぽつりと雨が地面に染みを作り、音を立てて降り始めた。
雨音を聴きながら、葬列を見守っていた僕は雨姫さまを見つめる。涙を流しながら踊る雨姫さまは、亡くなった母の死を悲しむ、一人の少女にしか見えなかった。
「母さまは青い空に旅立っていったかしら?」
じっと僕の眼を見つめながら、雨姫さまは微笑む。雨姫さまの玻璃の眼には、僕の青い眼が映り込んでいた。
「空をご覧になりたいですか?」
僕は雨姫さまの映る眼を伏せ、問う。雨姫さまは眼を瞑って、そっと首を左右に振った。ここは、王宮の離れにある雨の塔だ。雨を呼び寄せる雨姫さまのいるこの塔は一年中、雲に覆われ、雨に濡れている。塔の周囲には巨大な貯水池が作られ、雨姫さまの雨を受け止めてくれる。
雨姫さまがこの塔からでることはほとんどない。出れば、たちどころに周囲は雨によって水浸しになってしまうから。
彼女が外に出られるのは、国で葬儀がおこなわれるときと、雨期に雨がなかなか降らないときだけ。
新たな命を大地に芽吹かせるために、彼女はこの国に雨を降らせる役割を担っている。
「大丈夫よ。だって、白藍の眼は空の青だから。だから私は、白藍の眼を通じて、空を見ているの」
眼を瞑りながら、椅子に座る雨姫さまは歌うように言う。彼女は両手を組み、そっと硝子窓の外に広がる灰色の空を見上げた。
「私が空を見られないのは、天にいる命たちに愛されている証。だから、空が見えなくても大丈夫。私は、白藍を通じて、空の青を知ってるから」
「でも……」
「たしかに母さまの最期には立ち会うことを許されなかった。仕方ないわ。空を曇らせる私がいたら、母さまの魂は空に還れない。それは絶対にあってはならないこと。でも、母さまと一緒に、青い空、見てみたかったな……」
硝子窓に掌を押しつけ、姫さまは眼を伏せられる。僕は、なんとも言えない気分になって、姫さまから眼を逸らしていた。
「どこに行くの。白藍?」
踵を返す僕に、姫さまが話しかける。僕は顔を姫様に向け、告げていた。
「青空を探しに。姫さまが青空を見られる場所を探してまいります」
「そんなの無理よ。雨を降らせる雲たちは、ずっと私に纏わりついているのだから」
笑う姫さまが玻璃の眼を細められる。僕はそんな姫様から顔を逸らし、逃げるように室を後にしていた。
「雨姫様に、空を見せたいだぁ!!」
物知り爺の声が暗い裏路地に響き渡る。雨具を被った僕は、慌てて番傘を差す爺の口を塞いでいた。
「おめえ、帝の許可なしに雨姫さまを外に出すことが、どんなことか分かっているのか?」
「分かってますよ。だから、あなたに空の行方を聴いている」
「そんなん簡単じゃ、雲が届かんところへ行きゃいい」
「雲が届かない所?」
「そこにあるじゃないか」
爺は曇った空を指さす。そこには輪郭を影のようにけぶらせる、山の影が聳えていた。東の果てに位置するその山は、天山と言う。天山は魂が空に昇っていく通り道だとされている場所だ。
「天山って。あんなところ」
「雲海っちゅーてなあ。高い山のてっぺんまで雲は昇れんのよ。その代わり、そこに雲の海を作りよる。雨姫さまを慕う雲たちも、雲海のできる場所より上へは来ないじゃろ」
「あんなところに、雨姫さまを……」
「山男が登っても、てっぺんまで三日はかかるじゃろうて。諦めな。そもそも、姫様をどうやって連れ出すつもりだい?」
「それはもう……覚悟は決めているんだ」
「幼少のころから側仕えをしておるお前が処刑でもされたりしたら、姫さまが泣きよるぞ」
「かまわないよ。姫さまがいなくちゃあ、僕はとっくの昔に空に昇っていたもの」
爺と会話をしながら、僕は姫様に会った時のことを思い出していた。流行り病で両親を亡くし、街の片隅で死にそうだった僕の手を姫さまは優しく握り締めてくれたのだ。
それから僕は、ずっと姫様にお仕えしている。白藍という名も姫さまに貰ったものだ。だから僕はこの名前にかけて、姫さまに空を見せようと思う。たとえ強引なやり方を使ったとしても。
「ああ、姫さま。本当にこげんなやつのどこがいいんだか……」
はあと爺がため息をつく。
「うん、なんのこと?」
「なーんもありゃせん。長い人生じゃ、せいぜい姫さまを泣かせるなよ」
「うん、そうだね。一緒ずっと、いられたらいいな」
そっと眼を瞑って、僕は姫さまを思う。僕の瞼の裏には、笑う姫さまの顔が浮かび上がっていた。
悲鳴があがる。僕が横抱きにした姫様の悲鳴だ。僕はかまわず硝子窓を破って、塔の外へと飛び出していた。
「何を考えているの? 白藍! 私を誘拐するなんて!!」
「誘拐じゃありませんよ! ちょっと長い旅行をするだけです!」
「きゃあ!」
叫ぶ姫さまを抱え直し、僕は塔の埠頭に寄せていた木船の中へと着地していた。激しくゆれる船は、そのままものすごい勢いで塔を離れていく。船の周囲を雲が覆い、あたりに雨を降らせ始めた。
「ちょ、白藍! 戻りなさい! お父さまに知られたら! あなたが!」
「大丈夫! そのときは姫さまが僕を守ってください!?」
抱きしめる姫さまに、僕は満面の笑みを浮かべていた。本当は、ものすごく怖い。でも、僕のわがままに突き合わせる姫さまに、これ以上嫌な思いをさせたくなかった。姫さまはそんな僕を見みて、顔を逸らす。
「馬鹿……空なんて、見たくないわ……。あなたの眼で十分……」
「僕の眼は、しょせん空の光を浴びたまがい物です。そこにあなたの大切な人は見えない。僕は、あなたを大切な人に会わせたいんだ……」
「白藍……馬鹿ね。あなた、大馬鹿者よ」
姫さまが僕の顔を覗き込む。姫さまは苦笑しながら、玻璃の眼で僕をまっすぐ見つめてくれた。
物知り爺に伴われて、僕らはひたすら山を登った。山歩きになれない姫様を担いでの登山は想像以上に厳しいものがある。おまけに周囲はずっと小雨が降り続いている状態だ。寒いし、疲れて今にも眼を閉じそうになる。
「大丈夫、白藍」
そんな僕に、姫さまは声を優しくかけてくれる。昨晩、山小屋で一泊したときも、僕たちはお互いに身を寄せ合い、抱きしめ合って眠っていた。一介の召使が一国の姫になんて無礼を働いたんだろうと僕は姫さまに平謝りしたが、姫様はそんな僕を笑って許してくれたのだ。
――白藍の体。とても暖かったわ。
頬を赤らめて、そう笑っていた姫さまの顔が脳裏から離れない。姫さまのことを思い出すと、顔が熱くなるのは気のせいだろうか。
「おお! 雨が上がって来たぞ! 雲海が下に見える!」
先を行く爺が、大声で僕らを呼ぶ。僕は姫さまを抱え直し、爺の元へと走っていた。もうすぐ、山の頂だ。
頭上を仰ぐ。そこには青い空が広がっていた。
「凄い! 雲があんな下にある!」
感嘆とした姫さまの声が聞こえる。姫さまは、山の下方に広がる白い雲海を夢中になって眺めていた。
「姫さま……」
「うん、分かってる」
僕が姫さまを降ろすと、姫さまは優しく微笑んで僕の隣にやってきた。両手を輪にして、姫さまはその手を口に近づける。
真っ青な空を仰ぎながら、姫さまは叫んだ。
「母さまあ! 私のことが見える!? 白藍に連れてきてもらったの! 空を初めてみたわ! 本当に白藍の眼と同じ色。母様が言っていた通り!! 私、ずっとずっと、白藍を通じて、空を見ていたのね! だから、これからも……白藍の眼を通じて……母さまを見守るわ……」
ほろほろと姫さまの眼から涙が零れる。そっと俯く姫さまの手を、僕は優しく握り締めていた。
時が巡って、私は子を抱きながら天山を登る。その傍らには、夫となった空の眼を持つ白藍もいた。
「本当にハラハラしたよ。生まれたばかりの我が子を連れて、天山に登りたいだなんて」
「あら、あなただって私をおぶって天山のてっぺんまで連れてきてくれたじゃない。だったら、この子にも空を見せてあげないと」
「あい!」
私の腕の中で娘が嬉しそうに口を開く。蒼は白藍と同じ色彩の眼を空に向け、満面の笑顔を浮かべてみた。
私は母がいる空に向かって叫んでいた。
「母さま! あなたの孫が生まれました! 可愛い女の子です! 私と白藍の子供です!!」
弾む私の言葉は空に木霊する。そんな私の声に合わせて、蒼は嬉しそうに笑い声をあげるのだった。
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