どこは誰で私はここ

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どこは誰で私はここ

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 「お客さん。お客さん」 「あ……はぃ」  体をゆすられて目が覚める。  目の前が白くチラついて、胃からこみあげてくる不快感に頭を振った。 「え…と、電車?」 「そうだよ、ここは終点の湯玄北駅(ゆげんきたえき)」  教えてくれた男は年配の駅員だった。  心配そうに私を見上げて、困ったように眉根をよせている。 「だいぶ気分がわるそうだね。立てるかい?」 「はい、ありがとうございます」  少し情けなくなるが仕方がない。  ふらつきながら席から立ち上がり、駅員に導かれて電車の外に出ると冷たい風が頬を打った。 「ぇ……え、畑。え、田んぼ?」  ここでようやく、私は自分の置かれている状況を正確に理解する。  飛び込み台のような狭くて細長い駅のホームから、かろうじて線路に沿って田んぼや畑が広がっているのが見えた。  鼻を突く濃厚な草の匂い。風で動いた雲が、闇に埋もれた山のシルエットを浮かび上がらせていく。  リーリーリー。  ケロケロケロケロ……。  ギョ、ギョ、ギョ、ギョ、ギョッ。   まるで私を歓迎するかのような、闇夜に響く人外生物の大合唱。  深夜の荒川土手や多摩川でも、ここまで見事なオーケストラを私は聞いたことがない。 「…………ここ、本当にどこ?」  完全に、私――日比野(ひびの) 友美子(ゆみこ)の酔いがさめてしまった。 「あー、若い人はめったにここに来ないからなぁ」  横でうんうんと頷く駅員さんに、私はちょっと泣きたくなった。  ついさっきまで、私を乗せてきたらしき小さな赤い電車が、一本道の線路をのろのろと動きだした。  どうやら単線の区間らしく、長方形のコンクリートに駅舎がちょこんと乗っかっている小さな駅だった。  が、改札口は最新の自動改札機だ。ご丁寧に、通常とIC専用の二種類がそろっている。 「あ、お会計。……じゃなくて、え、と」  慌ててバックを探り、財布の中身を確認する。  よかった盗られていない。 「あぁ、会計? いいよ、いいよ。こんな辺鄙(へんぴ)なところまで寝ていたんだ。よっぽど悪い酒だったんだろう」  ちょっと待て。この駅員さん、良い人過ぎる。  普通だったらこんな独断、始末書レベルだろうに。  もしかして、これが田舎クオリティなのか。 「え、いいんですか?」  今月赤字だから助かったと思ってしまった。   「いいもなにも、若い女の子をこんな所に放り出すわけにはいかないよ。近くに旅館があるから、そこに泊まるといい。送迎のタクシーを呼んでくるから、ちょっとそこで待っていてくれるかな?」 「は、はい」  田舎の近くは、都会でいうところの歩いて30分ぐらいの距離だと大学の先輩が言っていた。  距離感や時間の感覚が違うから、そこらへんは注意したほうがいいと。  送迎タクシーを手配するあたり、かなりの距離があるのではないかと穿ってしまう。  改札の横にあるベンチをゆび()さして、駅員さんは行ってしまった。  取り残された私はベンチに座り、着衣の乱れがないか確かめる。  一応生物学上はメスなのだ。前後不覚で酔っ払ったところを、不逞の輩にナニされたか分かったもんじゃない。 「よしっと」  スーツにスカートは無事。ブラよし。パンツよし。ストッキングも破れていない。  正真正銘、私は無事である。そう納得するとしよう。  預かり知らぬところで動画を取られたとか、記憶がない間にボディータッチされたとか、そんな可能性はどうしようもないから考えない。  自意識過剰で結構。世の中は自分が思っている以上に、弱い者いじめが好きな人間が多いのだ。 「う、ううう……。酒がまだ抜けてない」  気が緩んだせいで、一気に全身が悲鳴をあげた。  胃のあたりがぎゅるぎゅると音を立てて、口の中がカラカラ。  なのに、下腹部に強烈な尿意を覚えてしまう。 「あぁ、君。連絡とれたよ。あと30分ぐらいでタクシーがつくならね」  報せに来た駅員に私は顔がひきつった。  やっぱり、先輩の言っていたことは間違っていなかった。  タクシーがここにつくのが30分後。つまり、ホテルに到着するのは今から1時間後ということになる。  歩いたらはたして何分かかるのだろう。  と、その前に……。 「す、すいません。ト、トイレ。トイレはどこですか?」 「トイレなら駅を出てすぐ横に併設されているよ。改札を今通してあげるから」 「あ、ありがとうございます」  私は礼を言うと、トイレにかけこんだ。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  トイレをすませて、洗面台で手を洗う。  和式のトイレは学生以来だった。勝手を忘れてしまい、用を足すのに苦労した。  しかも、公共の川の音が流れるトイレに慣れたせいもあって、自分の立てる音に激しい羞恥を感じてしまう。  天井に蜘蛛の巣があったり、電灯に蛾や羽虫が飛び回ったり、いろんな意味でカルチャーショックだ。 「はぁ、どうしてこんなところまで」  鏡の中で、さえない表情の私がもの言いたげに見つめ返してきた。  薬用化粧水だけをつけたすっぴん顔は、青くむくんで顔中にニキビが出来ている。  おまけに唇もひび割れて不健康そのものだ。 「お願いだから、早く治ってくれ」  ニキビに向かって私はぼやく。  肌の状態を改善したくて、化粧を我慢しているのに、私の意に反してぽつぽつとニキビが増えていく。  まるで、私の不満が反映されているかのように。
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