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どこはここで誰は私1/2
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私、日比野 友美子は今年で29になる。
大人になったという自覚がないまま、大学生活をおくり、社会に出て、そこそこ良い会社に就職できた。
周囲にも恵まれて仕事も任せられており、我ながら運がいいと。
――そう、思っていた。
「日比野くんは、男並みに働いてくれるからなぁ。助かっているよ」
「はい、ありがとうございます。課長」
素直に礼を述べるが、次の瞬間に私は固まった。
「草下くんも見習ってくれよ。こんなミス、小学生でもしないぞ。あぁ、ごめん、もう草下くんじゃなかったね」
「っ!」
茶化すように笑う課長に、草下 千夏の顔がこわばる。
同期である彼女は、今年、結婚して名字を改めた。会社ではビジネスネームとして旧姓を名乗っている。
「……」
上司ではなく、私を睨んでくる草下。
仕事のミスが多くなった原因は、シンプルに結婚して生活が変わったからだろう。
以前のように仕事が出来ない自分に、草下は最近焦りを感じているようだった。
「まったく、日比野くんは頑張っているのにねぇ」
私を持ち上げつつ部下を貶める構図と、愛想笑いを浮かべる周囲。居心地のわるさを覚えながら、私はじっとたえている。
こいつ――坂上 修吾が、半年前にこの事務課の課長として、異動して来てから、私の日常が土砂降りの酸性雨状態になってしまった。
本当にうぜぇ。
一方を持ち上げて、もう一方を容赦なく口撃する手口。
みんな真面目に仕事をしてきたのに、それが、坂上にとって気に入らない部下を攻撃する口実になり、今月に入るまで三人辞めた。
怒りの矛先を分散させている点も悪質だ。
一度、本気で抗議したらこっちが悪いように責められた。
「褒めているのに、どうしてそう受け取る」
「冗談が通じない」
「真面目すぎる」
「せっかくの楽しい空気が君のせいで台無しだ」
と。
「草下さん、あの……」
「……」
なんとかしなきゃと焦ってしまう。
抗議したその日から、坂上の持ち上げターゲットになってしまったという自覚があった。
周りの目が私に集まる。
まるで悪趣味な見世物を眺めるように、高みの見物を決めこむヤツ。私が辞めると決めつけて、ここぞとばかりに日頃のストレスをぶつけてくるヤツ。
本当にイヤになる。
「宮野さん、この前頼んだ書類なんだけど」
「あぁ。ごめんなさい、忘れてました」
「……そう」
ねぇ、宮野さん。アンタ、この会社に何年いるのよ。こんなんだから、いつまでもハンコを押すだけの仕事しか任されないんだよ。この給料泥棒。
どうしよう、このイライラをぶちまけたい。
「もう、怖い顔しないでください。またニキビ増えちゃいますよ~。同じ女としてどうかと思います~」
へらへら笑う宮野の顔が歪んで見えた。
「日比野さんなら、この程度のタイムロスなんとかしちゃいますもん。ねぇ~?」
アハハハハハ。
笑い声が聞こえたのは幻聴だと思いたい。
周囲の変化と同期が向ける憎悪の眼差し、環境汚染野郎の上司の狡猾さにどんどん追い詰められていく。
じりじりとした不安を誤魔化すように、お菓子を大量に買って食べるようになり、ストレスで眠れなくなる時もあった。
夜、母に電話をして仕事を辞めて、実家に帰ってもいいかとそれとなく相談したら。
「そんなことより早く結婚して欲しい。もうすぐ30なんだから」という言葉が返ってきた。
この一言で、実家に帰る選択肢が自分の中でつぶれた。
私のなにがいけなかったのだろう。ただ、真面目に仕事をしてきただけなのに。
才能もない、センスもない、美人でもない、ヤクザのように坂上の家に火をつける度胸も実行力もない、ただの凡人だという自覚。
だから真面目に着実に積み重ねていくことが、私が出来る現実の戦い方だと思っていたのだが。
ストレスと滅茶苦茶な食生活で、顔中にニキビが増えていく。
ぶつぶつの顔を見て私は思うのだ。このまま醜い化け物になって暴れたい。全部壊れてしまえばいいと。
全部全部壊れて、最後には私も消えてなくなってしまいたい。
連休を前日に控えて、発作的に私は居酒屋で酒を飲んだ。
酒をジュースで薄めて氷で量をごまかしている安い酒だ。
10杯目あたりから記憶があやふやになり、気づいたら駅員に起こされて知らない土地に辿り着いていた。
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