第1話

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第1話

 移動に一時間はかかるとは言え、家の最寄り駅が電車一本で済むところでよかったと今は心から思う。  ――今すぐ会いたいんだけど。  数分逡巡した後、家を飛び出した。終電を迎える一本前の各駅電車に揺られながら、頭に浮かぶのは連絡をよこした彼のことばかり。  今勤めている会社で、たった二人の新入社員として出会ってすぐ仲良くなった。足りなかったピースがようやく嵌まったような、不思議な感覚を覚えた。 『あのさ、変かもしれないけど……初めて会った気がしないんだよね』 『なんだそれ。って言いたいとこだけど、俺もなんだわ』  思いきって告白してみたら彼も同じ感想を持ってくれていたようで、胸の中がくすぐったくなったものだ。  趣味はあまり被らない。性格は周りから言わせれば「正反対」らしい。  それでも二人でいる時間は日だまりのように心地いいし、無駄に気張らなくてもいい。だらだらと喋るのも、仕事について真面目に意見を交わし、時に言い合いになっても、ただ互いの時間を隣で過ごすのも、彼となら楽しい。  親友、とは違う気がする。そう呼べる友が他に何人かいるが、同じカテゴリーに収められるような人間じゃない。  多分、近い単語は、相棒。かけがえのないパートナー。  少なくとも、自分はそう思っている。  最寄り駅が近づくにつれて、忘れていた緊張が湧き上がってきた。全くまとまらない宿題を前にして途方に暮れた気分にさえなる。  数日前にあったあの出来事を忘れたわけではない。  でも、彼から「会いたい」とこぼすときは、いつだって見逃してはならないサインだった。  一層強い音を立てて開かれた扉を数秒見つめてから、のろのろとくぐる。  つい時刻表を見つめて、頭を軽く振った。 「本当に、来たんだ」  玄関のドアを開けて開口一番、ひどい物言いだった。 「そりゃ来るよ。だって、西山が会いたいって言うんだから」 「……そうだな」  西山は小さく笑ったが、どこか苦しそうに見えた。  初めて感じる息苦しさだった。ちょっとしたことで、ボタンは簡単に掛け違えてしまう。 「上がるだろ?」  一拍置いてから促してくる西山をただ見つめてしまう。本当にこのまま、玄関をまたいでもいいんだろうか。いや、ここで悩むくらいならそもそも来なければいい。 「……おじゃまします」 「そこで素直に従っちゃうのが、白石なんだよなぁ」  ドアを閉めた瞬間だった。  顔を上げた先に、恐ろしく真顔な西山がいた。少しでも触れたら怪我を負いそうな鋭さを秘めて、ひたすらに見つめられる。  逃げることは叶わなかった。両側に彼の腕が伸びている。背中は無機質で頑丈な壁だ。 「どうして来た?」 「だって、お前がああいうこと言うときは」 「確かにそうだな。でも今は状況が違うだろ」  呼吸はいつも通りできているだろうか。何度も喉を鳴らしてしまう。 「俺がこないだ言ったこと、忘れてないよな?」  ――俺、白石が好きだ。どうしようもなく、好きなんだ。  金曜日の夜は、大抵終電ぎりぎりまで飲み食いしていたりする。  だがその日は飲み会もそこそこに、周辺を散歩しようなんて言い出した。  朝からどこか様子が変だと気づいていたから、その珍しい提案にも乗ったし、本題ではない話にもいつも通りを努めて付き合った。  そのラストに待っていたのがそんな告白だとは、思うすべも、ない。  終電近い駅のホームで、互いの座るベンチだけ世界と切り離されたようだった。背中をすっかり丸めた西山は、西山じゃない他人に見えた。  結局まともに返答できないまま、お互い終電に乗り込んだところまでは覚えている。次に視界を埋めていたのは、薄暗い自宅だった。  それから、互いの空気は混ざらないまま。  仕事中は、名前を貸している他人が自分を完璧に演じているよう。  出会って四年、初めての体験だった。  西山の顔がわずかに近づく。たまらず横を向くと、短いため息が頬をくすぐった。 「お前が来たのはどうせ、友達の俺が苦しんでると思ったからだろ?」  友達、の部分をわざと強調してくる。 「なんもわかってないよ。俺が……どんな気持ちで、告白したと思ってんだよ」  語尾が震えていた。まさか、泣いている? それとも、怒りのせい?  ゆるゆると視線を元に戻すと、普段は分厚いフィルターに包まれて見えない西山の弱い部分がむき出しになっていた。毎年ほんの数回現れる、目にしたらきっと誰もが手を伸ばさずにはいられない。 「……さわるなよ」  拒否しながらも、背中を撫でる手を振り払いはしない。 「ごめん。でも、やっぱりほっとけない」 「友達として、だろ。俺とは違うくせに」 「なら、おれじゃなくて別のやつに連絡すればよかっただろ」  八つ当たりだとわかっていながら、つい憎まれ口をたたいてしまった。  一瞬目を見開いた西山が、かくりとうなだれる。 「……できるわけ、ないだろ」  ドアに固定されていた両腕が、縋るように両肩に置かれた。 「お前だけなんだよ。こんなみっともない俺、見せられんの……白石しか、いない」  胸の中をぐるぐると駆け巡るこれは、なに?  自分だけ。弱い西山を見られるのは、触れられるのは、自分だけ。  嬉しい? それだけじゃない。この充足感の中には多分、他の感情も含まれている。でも、何が。 「なんだよ、その顔」  下から見つめてくる西山に小さく首を傾げる。 「もしかして、嬉しかった?」  反射的に顔全部を覆って後悔する。これじゃあ、答えているのと同じだ。  引き剥がそうとする手を、首を振って払う。羞恥が募りすぎて、絶対みっともない顔になっている。 「……ねえ。俺、期待するよ?」  驚きで、変な悲鳴が漏れそうになった。 「そんな反応されたら、期待するなっていうほうが、無理」  聞いたことのない声が、耳に注がれている。小さな震えを含んだ、吐息に近いかすれた低めの声。  駄目だ。押し切られる。西山とそういう関係になるのを望んでいるわけじゃないのに。 「っおれ! おれは……お前のこと、相棒みたいなやつだって、思ってる!」  空気が固まった。気配は変わらず、すぐそばにある。 「だからなんでも相談できるし、弱いとこだって見せられる」  勢いのままに吐き出すしかない。思いをわかってもらいたい。 「ねえ、俺お前が本当に好きだよ。誰よりも大事だよ。お前の隣にずっと立っていたいよ。それだけじゃ」 「駄目だね。少なくとも俺は、足りない」  今度こそ、壁を壊された。  ぎらぎらと輝く双眸に縛られる。まるで獲物の気分だ。 「何度もそうあろうとしたさ。お前は唯一無二の大事な相棒だ、それだけだって。でも無理だった。無理だったんだよ……!」  唇に、そっとなにかが触れた。あまりに一瞬過ぎて、混乱する暇さえない。 「相棒だけじゃ足りない。恋人の席も、俺のものにしたい。俺以外の奴とキスしたり、セックスしたりする姿なんて想像したくない」  牙をむいた独占欲にくらくらする。さっきの告白では全然太刀打ちできない。  このまま飲み込まれるしかないのか? それでお互い納得できるのか? 「お、れ……お前とそういうことするの、一回も想像したこと、ない……」  なけなしの抵抗のつもりだった。味方だと信じていた人がいきなり喉元に食らい付いてきたらどう対処すればいい? 「なら、今すぐここから逃げてくれ」  呆然と、訊き返す。  予想外の言葉に混乱している間に、西山が距離を作る。拘束しているものもすべてなくなった。 「俺はもう、戻れない。お前を今すぐ俺のものにしたくてたまらない。でも、ここで逃げてくれたら、多分諦められるから」  軽く口端を持ち上げて、怖いくらいに優しい視線を向けてくる。  身体の自由が効くという事実が少しずつ浸透していく。向きを変えようとして、足が細かく震えていることに気づいた。たっぷり時間をかけてドアノブを半分まで回したところで、顔だけ振り返る。 「……逃げたら、おれとお前は……」  元の関係に戻れるのか?  毎日、また切磋琢磨しながら笑い合えるのか?  おれの望む日々が、戻ってくるのか……? 「……ああ」  一層深くなった笑みで、確信した。  戻るわけなどない。修復なんて不可能に決まっている。完全に壊れるのを覚悟した上で、西山は想いを吐露したのだ。もしかしたら結果さえわかっていたのかもしれない。  なら、どうなる? 壊れたら、西山はどうなる? 仮に自分が西山の立場なら、どうする?  ――足元から冷たいものが這い上がる。呼吸さえ奪われてしまったように、喉の奥が詰まった。  いやだ。西山を失いたくない。相棒という関係を失う以上に、西山がいなくなることが耐えられない。 「……っ、どういう、つもりだよ……!」  全身を軽い衝撃が走った直後、明らかな怒気を含んだ声が下から突き刺さる。  勢い余って西山を下敷きにしてしまったらしい。慌てて退くが、本人は動こうとしない。 「本当に、どういうつもりなんだよ……また、無駄に期待させるのか」  残酷なヤツ。  胸を抉られる。わざわざ作ってくれた逃げ道を自ら封じてしまった人間に、これほど相応しい言葉はない。 「こわ、いんだ」  想像でしかなくとも、現実になったら二度と取り戻せない。  そして外れる予感は全くなかった。彼はそういう選択をためらいなく実行する男だ。 「お前を失いたくないんだよ……エゴだってわかってる、でも……!」 「わかってるなら押しつけんじゃねえよ!」  胸ぐらを思いきり掴み上げられた。 「俺は戻れないって言っただろ……恋人じゃなきゃだめなんだよ! お前の望みは叶えてやれないんだよ!」  誰よりも大事に想っているのに、目指す方向が違うだけで姿も見えないほど離れてしまう。  どちらかが歩み寄るしかない。なら、誰が? 「……なら、試してみてよ」  頭の芯に冷水をかけられたように、無駄な熱が引いていく。  本当に、最低な提案をしようとしている。西山の気持ちを利用しているに過ぎない。 「西山は、おれにとって誰よりも大事な人だよ。それは相棒だからだって思ってるけど、自覚してないだけかもしれない」  二つの瞳がはっきりと揺れていた。期待と恐怖に板挟みにされているようにも映る。 「おれに、キスして。西山」  掴んだままの西山の手に自らのを添えて、告げる。 「気持ち悪いって少しでも思ったら、今度こそ逃げるよ。約束する。西山がどんな選択をしても、もう止めない」  嘘をついている。この場は諦めても、その後取り戻そうと足掻くだろう。彼と違って、自分は悪あがきしてしまうから。 「……そう、思わなかったら?」  同じ気持ちなのか? わからない。西山を失いたくない一心で動いているから。  うまく返答できないまま、噛みつくように西山の唇が覆い被さった。  角度を変えながら深さを増していき、ついには舌も差し込まれた。逃げ場もなく戸惑う自らのそれを、水音が聞こえるまで絡ませ合う。 「……っふ、う……ん、ぁ……!」 「……しらいし……しらいし……っ」  背中がびくびくと震えて止まらない。口の端からこぼれる唾液を拭う気力さえない。  四年分の想いをすべて注がれている気分に陥って、眩暈がしそうだ。 (……おれ、どうしよう。こんなに激しいのされてる、のに……)  自棄になっているから? 悪あがきをしているから?  考えがまとまらない。引いた熱がまたぶり返して、飲み込まれそうになる。  だめだ。このまま続けられたら……怖い。 「……も……や、め……!」  ゆっくり離れていく唇の間から透明な筋が見えて、たまらず瞼を下ろした。四肢が自分のものでなくなったように動かず、西山の抱擁もただ受け入れるしかできない。 「気持ち悪くなかったんだろ?」  隠せない期待が溢れていた。 「俺の自惚れじゃなかったら、お前、気持ちよくなってた」  違うと叫びかけて、堪える。逃げなかった上に喘ぎに似た声まで漏らしておいて、説得力なんてあるわけがない。 「なあ……好きなんだろ? お前も。俺と同じなんだろ?」  頭を撫でる手つきがただ優しい。優しすぎて、年甲斐もなく泣きそうになる。  なあ、おれ、やっぱりお前と恋人同士になるのが想像できないよ。  だって……恋人になったら、絶対変わってしまう。  今まで大事にしてきた関係が壊れて、全く違うかたちになりそうで、お前は否定するかもしれないけど、怖いんだ。  おれにとっては宝物なんだ。お前も、唯一のこの関係も、空気感も、何もかも。  臆病だと思うよ。でも、捨てる自信がない。捨てて、新しい関係を手にする勇気がない。  拳をただ握りしめる。  今、自分は一番の卑怯者だ。西山を無駄に期待させて、胸の内をどう吐き出せばいいのか迷ってばかりいる。  やっぱり、逃げておけばよかった。そうすれば、少なくとも西山の傷はまだ浅かったかもしれない。 「……なあ。試しに一ヶ月、恋人として付き合ってみないか?」  思いもよらない提案だった。 「一ヶ月付き合ってやっぱり無理だったら……お前の望み通りにする。今まで通り、相棒でいる」  期間限定とは言え、一ヶ月は短いようで長い。 「でも、そうじゃなかったら……俺の恋人になってくれ」  こちらに向き直った西山の瞳がひどく揺れている。その可能性に必死に齧り付いているようで、わずかに視線を逸らした。 「……いやだって、言ったら?」 「……お前のそばには、いられない」  承諾するしか道はなかった。脅されているようなものだが、一ヶ月を耐えれば西山を失わないで済む。  顔は見られないまま、首を縦に振った。 「白石が嫌がることはもちろんしないから、安心してくれ。デートと、できればキスまでしたいけど……わがままは言わねえよ」  消え入りそうな声だった。当たり前だ、明らかに分が悪いのは西山なのだ。西山こそ逃げたいはずなのに、それを殺して譲歩してくれた。 「西山は……ほんと、優しいね。普通なら殴られたって、文句言えないよ」  状況を忘れて、ついこぼしてしまう。  出会ってからずっと、際限のない優しさに何度も甘えてしまっている。同じくらい頼ってもらいたいという目標は未だ叶いそうにない。 「……そんなんじゃない。卑怯で、臆病なんだよ。ずっとな」  もっとそうなのは、一体どっちなんだろうね。  喉の奥が震えて、ただ首を振るしかできなかった。
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