第15話 貴史――紅衣の騎士②

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第15話 貴史――紅衣の騎士②

 江間絵だった物が巻き取られ、乾いた音を立て床に落ちるのを、俺は身動き一つ出来ぬまま見続けた。  何故だ? どうしてだ?  怒りなのか悲しみなのか。自分でも理解出来ない感情が、答えの出ない疑問と共に沸き立っている。  俺が手を伸ばせば届く所に糸巻きが転がるのを、表情を消した魔女が見詰めている。  恐ろしいまでの冷徹さで。駆け寄り蹴り飛ばしてくれれば、それで終わる事も出来たのに。  血まみれの左手で掴んだ白い糸巻きは、まだ暖かかった。  江間絵の温もりだ。  ぱたぱたと零れ落ち、赤を洗い流してゆく熱い滴で、初めて自分が泣いている事に気付いた。  ああ。そうだな。桐月に出来た事が、俺に出来ないはずが無い。  ズタズタにされた右手に糸が潜り込んでくる。  襤褸切れのような筋肉を縫い合わせ、戦える組織に造り替えてゆく。  暖かく柔らかな掌で包み込むような感覚。  今頃になって、こんなに取り返しの付かない所にまで来て。ようやく彼女の想いに気付けた。  それでも、俺は。彼女の想いを利用してでも、食いものにしてでも、約束を果たさなければならない。  糸が与える、まだ生きている二の腕の神経との接続による激痛が、今の俺にはむしろ心地良い罰だった。  黒衣の魔女はその全てをただ見守っていた。  立ち上がり、半分ほどに残った糸巻きを、紅衣の左ポケットに仕舞う。   構える前に、自然に一礼が出た。 「黒曜励起」  呟きと共にばら撒く黒い輝石は、黒い風となってその手足に纏わり付く。  無言のまま弓を引き絞るように右腕を引く魔女。  背負う物があるのが自分だけだと、思い込んでいた己の傲慢さを恥じる。  絵間絵にも、桐月や美耶子さんにも、目の前の魔女にも。譲れない思いがあるからこそ、戦いの場に赴いたはずだ。  彼女を殺し得る力と覚悟を手にした俺に、魔女はもう一片の慈悲を見せるつもりもないだろう。  風に乗り踏み込むその速度は、今までと比べ物にならない。  黒い風で形成した、右の貫手による一撃。  かわせる速さでも、紅衣で凌げる威力でも無い事は理解している。  相打ち覚悟のカウンター狙い。  腕を造り替えたところで、俺の拳の速度と威力はたかが知れている。  ダメージを受ける前に、俺の身体を血袋に変えるのみ――  魔女が過ちに気付いたのは、その貫手が俺の肩を貫いた瞬間だった。  俺の右の拳が想定以上の速さで魔女に届いている。  ポケットに落とした糸は俺の左足と体幹を造り替え、床を踏み壊すほどの衝撃を螺旋の形で拳に、魔女の胸元に伝える。  放物線を描く事さえ許されず、直線で吹き飛ばされた魔女が壁に叩きつけられるのと、貫かれた俺の左肩が爆散するのはほぼ同時だった。  肩ごと吹き飛ばされた意識を、倒れ込み床に頭を撃ちつけた衝撃で取り戻す。  撃痛に絶叫し蹲る俺に、衝撃で壊れた天窓のステンドグラスが降り注いだ。  壁にめり込み、磔刑に処された魔女は動かない。  江間絵だった糸が壊された左肩を繕い、癒してくれるのを感じる。  安堵から改めて意識を失う間際。広間へ続く階段から、白い人影が降りてくるのを目にしたような気がした。             §  満天の星が見える。  日本じゃ目にしたことの無い、広さと深さと星の数だ。 「こうして星を見るのは、何年振りじゃろうかの」  優しく微笑み覗き込む姫の顔に、膝に抱かれているのだと理解する。 「魔女は!?」  結局敗れて喰らわれるのかと身が竦むも、姫はゆるゆると首を振り、ただ優しく髪を撫でてくれる。 「約束どおり、共に星空を眺める事ができたな」  そう……だったか。  そういう約束だったのか。  初めて会った幼い日を思い出す。 『星が見えれば、恐れも不安も忘れる事ができる』  地下に迷い込み、心細さでぐずる俺をあやしながら、姫が口にした言葉だ。  不意に、身体の底から込み上げてくる物に、堪え切れずにふき出した。  緊張の糸が途切れ、笑い続ける俺を、屍織姫はきょとんとした顔で見下ろしている。 「こんな城なんかいらない。一緒に日本へ帰ろう。狭い家だけど、家族が一人増えるくらい平気だ。親父の稼ぎで心もとないなら、俺が働けばすむ」  身体の中の白い糸が、甘い痛みを伝える。  お前の事だって忘れちゃいないさ。魔女も魔法も存在したんだ。荒造伯父や桐月だってその一端を知る事が出来たんだ。お前を元の姿に戻す方法も、必ず見つけ出せる。 「姫の呪いを解く方法だってあるはずだろ。親父はあれでも、知識量と検索能力は本物だ。自慢できる。もう人なんか食べる事は無い。きっと年頃の女の子らしく、お菓子の食べ歩きだって出来るようになる」 「それは随分魅力的な提案じゃな」  姫の口元が綻ぶ。 「そうだ、姫。帰ったら君に晴着を贈ろう」  確か江間絵に聞いた覚えがある。家憑きの妖精が解放される条件。立派な外套を贈られたプーカは、家事の義務から解放されたという。 「なんじゃ? 求婚のつもりか?」  いたずらっぽい笑みを浮かべた姫の返答に口ごもる。    ……あれ? 違ったか?  そんな俺を見て、姫は鈴を振るような声で笑った。  釣られて二人で一緒に笑い声を上げる。  笑い終えると、どっと睡魔が襲ってきた。  少し疲れた。   身体を癒してくれる幼なじみも、二度の繕いに加え、魔女の黒い風に糸の幾らかを持って行かれたせいか、口を開かない。 「眠いのか。もう少し休むがよい」  穏やかな微笑を浮かべ、屍織姫はただ優しく髪を撫でてくれる。  瞼が落ち、眠りに落ちる間際。  囚われの部屋を離れ、腰を覆うくらいまでの長さになった髪の事を、聞きそびれた事に気が付いた。
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