第0話 魔女の住む森

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第0話 魔女の住む森

 暗い森を走っていた。  振り返ると、夜空は炎で葡萄酒色に染まっている。  お父様、お母様。  叫びにならない慟哭を噛み殺す。  命を掛けてわたしを逃がしてくれた行為が無駄になる。  だけども靴はとうに失くし、裸足の足は傷だらけ。  もうこれ以上は走れない。  こんなに深い森の奥、踏み込んだのは初めての事。  捻じ曲がった木の影も、何とも知れない鳴き声も。  怖くて仕方が無いけれど、手探りでただ先へと急ぐ。  木の根に躓き倒れ伏す。  膝をすりむく。挫いた足首の痛みで、もう立つ事さえままならない。  嗚咽を押し殺し、這って木の洞に潜り込む。  真っ暗な茂みの中、眠りを妨げられた、得体の知れないもの達が蠢く気配がする。  こわいこわいこわい。  怯えるわたしを、星だけが優しく照らしてくれる。  けれども、いけない。  追っ手に居場所を悟られぬよう、星明りの届かないさらに奥で膝を抱く。  ふと気が付くと。  目の前の闇が老婆の姿を取っていた。  森に住む魔女。人を取って喰い機を織る。  冬の夜の炉辺でばあやが話してくれた夜語り。  漏れかかった悲鳴を手で押さえ飲み込んだ。  怖いか?  死なずに済む方法を教えてやろうか?  枯れ木を擦るような声で老婆は囁く。  わしはもう疲れた。死ぬのは怖くない。  ただ、あの方がこの世を踏み歩くのだけは何より恐ろしい。  わしの代わりに糸を紡いでくれ。  約束の証に指輪を嵌めて。  わしの代わりに機を織ってくれ。  蜘蛛の足が、指に絡まる気味の悪い意匠。  指輪を残して魔女は消えた。  こんなところに居やがった。  指輪に見入るわたしを、毛むくじゃらの腕が捕まえた。  樽の様な巨躯の上で、黄色い目が下卑た表情を浮かべている。  何よりも恐ろしいのは、手に持つ斧から滴る血。  死にたくない! 糸を紡ぐから、死にたくない!  機を織るから、死にたくない! 死にたくない!!  わたしは夢中で蜘蛛の足を指に絡めた。  そのとき死んでしまった方が良かったのだと。  思い知らされるのはほんの数刻後の事だったけれど。  愚かなわたしには、もうそれを選ぶ事さえ許されない。
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