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 もう直ぐ夜の十時になろうとしていた。十五階建て本社ビルの一室に明かりが灯っていた。 「マツシタ、終わりそうか」  隣の席のオクヤマさんが大きく伸びをして言った。オクヤマさんは僕より三年先輩だ。僕なんかと違って、仕事はよくできる。それでいて、上から目線で喋らない良い先輩だ。 「もうすぐ終わります。付き合わせてしまってすみません」  僕はパソコンのキーを打つ手を止めてオクヤマさんに頭を下げた。  いつの間にか事務室に居残ってるのは、僕とオクヤマさんの二人 だけになっていた。 「どうってことない、溜め込んだ仕事を片付けたかっただけさ」 「でも、いろいろと手伝っていただいた分、オクヤマさんの仕事がまた溜ったんじゃないんですか」 「少しだけだ、気にするな。それで、できそうか?」 「ええ。オクヤマさんのアドバイス、助かりました。もうすぐ終わります」  僕はもう一度頭を下げる。どうやら課長から貰った宿題が片付きそうだ。  僕の営業成績はいつも販売部で最低だ。今月はまだ十日ほど残してるけれど、今から挽回しても今月もびりっけつだろう。だから、課長から、「目標達成の販売計画を作ってくれ。それで、できたやつを明日一番に見せてくれ」と言われた。  今日中に作れとは酷いと思った。報告書の作成や得意先のサポートをやれば、それだけでも十分残業になる。その上、販売計画書を作るとなれば、日付が変わってしまうのじゃないか。  僕は余程悲愴な顔をしてたのだろう、オクヤマさんが心配して「どうした?」と聞いてくれたので、課長との経緯を話した。 「どうせ俺も今日は居残りだ、手伝ってやる。なに、どうせ目標達成なんて無理なんだから、販売計画なんて適当に体裁さえ整えときゃいいんだ」  オクヤマさんは、気にするなとばかりに笑った。  僕は残業して販売計画書を作成することになった。オクヤマさんのアドバイスを受けながら作成していった。もう少しで完成するだろう。 「しかしなあ、売り上げを落としてるのはお前だけじゃないんだけどな」  独り言のようにオクヤマさんが言った。 「会社全体の売り上げが伸びてない。いや、じり貧だ」 「そうですよね」  僕も実感として分かる。  万年健康食品は血圧を下げるとか、カルシュウムを補うとかを目的とする食品――いわゆる健康食品の製造販売を行ってる。世の中の健康ブームで製品はよく売れていたけれど、最近の売れ行きはじり貧だ。ヒット商品がないのと、食品メーカーだけでなく、化粧品や製薬メーカーまでもこの分野に参戦してきて、競争が激しくなったのも原因だろう。 「近いうちにリストラがあるって噂、聞いたことあるか」 「ええあります。けど、それ本当なんでしょうか」 「うん、どうも本当なんじゃないか。人事が動いてるらしい。リストラの優先順位を作ってるらしいんだ」  オクヤマさんは顔を歪めた。 「それとなくプライバシーを探ってるしな」 「どういうことですか」 「うん、経済的に苦しいかどうかだ。やはり会社もいきなり家計の苦しい社員の首を切るのは躊躇ってるんだろう。そういうことすれば、会社の評判は悪くなるからな」 「なるほど、もっともですね」  会社としても不必要に社員の恨みを買いたくないだろう。残った社員の士気にも係わるし。 「セトさんに聞いたんだが、課長がそれとなく確かめに来たってさ」 「何をですか」 「セトさんとこ、上の子が大学受験一浪中で下の子が高校受験というけど本当か、と聞かれたって」  となると、リストラ要員は、高給取りで子どもが自立したシニア社員と成績不良の独身若手社員ということになる。僕は後者に十分当てはまる。 「大丈夫。お前はまだ若いから、首になっても他所で働けるよ」  オクヤマさんが冗談か本気か分からないような励まし方をした。  オクヤマさんの口から聞かされたけど、リストラの話は社内では今一番ホットな話題だ。個人のプライバシーを調べてるって? もう既にリストラ候補は決まってるのかも知れない。僕なんて間違いなく候補者だな。 「じゃあ、俺は帰るとするか」  オクヤマさんは机の上の書類を片付け始めた。  オクヤマさんが帰った後、僕は三十分程かけて販売計画書を完成させた。壁の時計は十時をとっくに過ぎていたが、日付が変わらないうちに家に帰れるのは幸せだった。  エレベーターで一階に降りた僕は、正面エントランスのドアが閉ざされているので、裏の通用口に向かった。  廊下を歩いてると、音が聞こえた。ドアが閉じる音のようだった。警備員が巡回してるんだろう。帰りの挨拶をしておこうと思って、僕は音のした方に向かった。  角を曲がった通路に警備員の姿はなかった。「資料室」があって、「倉庫」がある。そして、その隣には開かずの部屋があった。音は開かずの部屋から聞こえたんだろうか。まさかと思いながら、僕は開かずの部屋のドア前に立った。部屋の中で音がした。ドアノブに手を伸ばす。しかし、ドアノブは回らない。耳をドアにくっつけた。部屋の中から音は伝わって来ない。空耳だったのかな。いや、確かに聞こえた。僕は暫くドアに耳を付けていた。
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