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 駅前のロータリーに黒塗りのBMWが停車していた。僕が近づいて行くと、車のドアが開いて制服を着た男が出てきた。 「マツシタさんですね」  男が慇懃に尋ねた。 「ええ、そうですが」 「お待ちしてました。社長の運転手のカキタと申します。社長がお待ちです」  カキタが体を移動させて、後部ドアをさっと開けた。何度も反復したと思われるような無駄のない動きだった。  僕は後部座席に座った。体が心地よくシートに沈み込む。  BMWが坂道を登って行く。社長の家――邸宅と言った方がいいか――は山の上にある高級住宅地の一画にあるそうだ。   人事課長に呼ばれた翌日、今度は社長に呼ばれた。社長室にはカワカミ顧問もいた。僕のロサンゼルス営業所勤務を祝って、社長の家で宴を持ちたいという。僕は断ったけれど、社長はどうしても祝いたいと言って押し切った。「皆には秘密だよ。マツシタさんを妬む人が出てくるからね」と付け加えた。僕は内心嬉しかったけど、そこまでして下っ端社員の転勤を祝うなんて不思議だった。  BMWは一軒の豪奢な邸宅の前に止まった。社長の家だった。家に入ると、社長と奥さんそれにカワカミ顧問が待っていた。 「明日、アメリカに出発するんだね。慌ただしいのに、無理を聞いてくれてありがとう。どうしても今夜しか空いてなくてね」  社長は申し訳なさそうに言った。 「いえ、社長もお忙しいでしょうから。荷物はもう向こうに送ってますし。出発準備は終わってます」 「そうか、良かった。じゃあ、食事にしよう」  と言って、社長は皆をダイニングルームに連れて行った。  食事は和食だった。テレビのグルメ番組でしか見たことがない料理がテーブルに並んでいた。社長が贔屓にしてる老舗料亭が調理した料理を運んで来たのだという。どれも美味しかった。酒が注がれた。口当たりがいい酒だった。幾らでも体に染み込んだ。  体が揺れていた。いつの間にか車に乗っている。隣に人がいた。 「僕は車に乗ってるんですね」  と隣の人に聞いた。 「うん、酒を飲み過ぎたようだ。だから送って行くんだ」  社長の声が答えた。 「ありがとうございます」  と言って、僕はまた眠りに落ちた。  次に目が覚めた時、僕は知らない部屋にいた。後ろ手に縛られて、パイプ椅子に座っていた。  薄暗い照明が室内を照らしている。二人の人物がこちらを見ていた。社長とカワカミ顧問だ。 「気が付いたね」  社長が言った。 「ここは何処ですか」 「本社ビルの中だよ」  カワカミ顧問が代わりに答えた。 「家に送ってくれたんじゃないんですか」 「家には送れないよ。マツシタさんにはここで仕事をしてもらうんだ」  カワカミ顧問が言う。 「仕事ですか?」 「そう、仕事だ。多くの人が助かる重要な仕事だ」  重要な仕事? 明日アメリカに行くんじゃなかったのか? どうもよく分からない。 「仕事をやってもらう前に話をしておこう。部屋の中に神棚と井戸があるだろう」  カワカミ顧問は後ろを振り返った。背後には井戸があった。そして、その向こうの壁には神棚が付けられてある。 「神棚は万年健康食品の前身の薬問屋『万年』の創業者を祭ってる。井戸は創業時からあって、本社ビルを建てたときも埋めずに残してもらった」
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