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第十三話 どろぼうとちちおや
「あの人たちの名前を知っているか?」
「阿知良菜々子さんと、阿知良幾名ちゃんでしょ」
「そう。それじゃ、喜理のおじさんの名前を知っているか?」
「おじさん? 知らない。ウチにそんな人がいたの?」
「俺の出身地は知っているか?」
私の問いかけを無視して、父は質問ばかり繰り返す。
「知ってるよ。すごく寒いところ」
父の出身地の地名を言う。
「本州に住んでいる親戚は少ないからな。交通費もバカにならないし、喜理の会ったことのない親戚はたくさんいるんだよ」
「へぇ」
「特に俺の家系は色々あって子供が多いからなぁ」
そう遠い眼で話す父はきっと祖父のことを想っているんだろう。その姿は、祖父がまだ生きていたころの穏やかで真面目な父のようだった。
「喜理にとってはなんて呼べばいいのか分からないけれど、俺にとってさっき出会った女性はイトコなんだ」
夜遊びを繰り返すようになってこけた頬を撫でながら父は続ける。
「生まれたときから知ってる。家も近かったし、よく遊んだ。仲が、良かった」
「じゃあ、親戚の人なんだ」
昨日から目に焼き付いて離れない彼女たちの広い額。実は私にも備わっている。無意識におでこを触って確かめる。
「そうなるな。今まで紹介できなくてすまなかった」
「いや、別にいいよ」
「それで、昨日ウチに来たんだよな」
「う、うん」
「あの子供が、俺の子供だと言って」
父は再びコーヒーを啜る。仲が良かった、という言葉がひっかかって私は無駄にドキドキしながら次の言葉を待つ。
「そうか」
でも父はそう言ったきり長い沈黙に入ってしまった。
「大変だったんだよ、昨日」
「そうか」
「お母さんも倒れちゃうし」
「そうか」
「私が一人で、対応したんだから」
「そうか」
同じ返事をまるで上の空で返される。聞いていない証拠だ。
「聞いてる?」
「聞いている」
「そんな……」
「ありがとう、喜理」
そんな適当なこと言わないで、と言おうとしたら唐突に父は頭を下げてそんなことを言った。
「へっ」
父が頭を下げるなんて。
父に頭を下げられるなんて。
だって父は家族の中で頂点に君臨していて、私や母をを悲しませてもまるでそれが当たり前のように振る舞っていて、いつだって自分勝手などうしようもない男性のはずなのに。
「俺のせいで、辛い思いをさせたな」
目の前の男性は、素直に私に感謝を示してくれている。
「同年代の女の子がしなくても良い苦労を、させてしまった」
今までの自分の行いを悪いことであったと認めて、謝ってくれている。
「どうしたの、お父さん」
「どうもしないさ」
「熱でもあるの?」
「はは、ひどいな」
ようやく顔を上げた父の瞳は、まっすぐに私を捕らえていた。
「でも、お前にそう言わせてしまうぐらいに俺は非道いことをしてきたんだな」
うん、とも正直に言えずに今度は私が黙ってしまう。
「今すぐ許してくれとは言わないさ。恨んでくれてもいい」
「恨むだなんて、そんなこと」
あるはずがない。
できるはずがない。
自分だってそれが出来なかった癖に、どうしてそれを他人に当てはめることができないんだろう。どうしてそれを自分の子供に当てはめることが好きなんだろう。自分がくるほど父を求めていたのと同じぐらい、自分も求められているということをどうして理解できなんだろう。
「なにがあったの? お父さん」
「そうなるか」
「だって今まで、色々してきたでしょ。それがいきなり心を入れ替えましたなんて、信じられないよ」
私個人としては一も二もなく信じたいのだけれど、やはり母のことも考えるともっと確信が欲しかった。もう父に傷つけられないという、確信が。安心が。
「そうか」
これはあまり、子供のお前には話したくない内容なんだが、という前置きをして父は話し出した。
私が呑気に父や母と暮らしている時に起きていた、とある親戚の受難を。
***
父の出身は、とても寒くて敷地の広い某県。
私達も特別裕福な家庭というわけではないけれど、本州に一戸建てを買って母を専業主婦にして子供をひとり養うぐらいのことはできている。それは父の実家に言わせるとかなり『贅沢』なことなんだそうだ。故郷を捨てて『贅沢』な暮らしをしている父にお金を無心する親戚は多く、それに嫌気がさした父はしばらく一切の親戚づきあいを絶っていた。
そんな父が知らない間に親戚の金銭状況はさらに悪化していた。仕事しているのに、毎日身を削っているのに、それでも貧困に陥っていく。そんなはずないでしょうと思うけれど、それが私が知らない場所の現実らしい。
特に大変だったのは、父のイトコにあたる阿知良家。
そこの一人娘の菜々子さんは、高校卒業もできずに水商売に身を沈めないと生活ができなくなっていたらしい。その辺りのことを父は言葉を選んでしどろもどろだったけれど、それを聞いて私はすんなり納得してしまった。
昨日、幾名ちゃんにお母さんの居場所を聞いたときラブホテルを指さしたから。
辛い暮らしを送っていた菜々子さんは度重なる行為の末とうとう妊娠してしまう。知られれば子供を殺されてしまうから、菜々子さんはなんとか隠し通してお店を辞めたらしい。周囲からは中絶を勧められたけれど、菜々子さんは頑として聞かなかった。出産のため実家に戻って針のムシロのような生活をしていた時に、父に出会ったんだとか。
かつて幼なじみとしてよく遊んだ父。
父としては出張先として故郷を訪れた時にたまたま再会した、という程度の認識だったけれど、その偶然を菜々子さんは運命だと思ってしまった。信じてしまった。
信じることでしか、精神を保てなかった。
当時、自分の父を亡くして愛情のタガが外れていた父は「お父さんのこと、残念だったね」という菜々子さんの言葉に溺れてしまったらしい。妊娠中の彼女と何度か関係を持った。それが母に知られて、とびきり荒れてしまったからそれからはまた疎遠になったらしいけれど、後日無事に幾名ちゃんを出産した菜々子さんは周囲に『この子は、正苗さんの子供』と言いふらしていたらしい。正苗さんはひどい女と結婚して別れたいけど別れられない、その女は自分の娘を召使いのように扱っていて、正苗さんも心を痛めている。早く離婚して故郷に戻り、娘を引き取りたいらしい。私もよろこんで、その子の面倒をみようと思っている、と。
私はただ、母を悪者にするために利用されたらしい。まぁそれは最初から薄々気付いていたことだけど、こうまで現実を無視した道具扱いされると良い気分はしない。
だけど、菜々子さんの周りはそんな薄っぺらな嘘をあっさり信じた。まぁ、菜々子さんが父と関係を持っていたという件に関しては事実だからわりと真実味はあったのかもしれない。でもそうすると、今度は「いつ結婚するんだ」「まだ正苗はこっちに帰ってこないのか」と催促されるようになる。父はお金をもっているが故に縁を切ったということになっていたから、親戚たちは再び父が故郷に戻ってくれることを望んでいた。正確には、父の持つお金を望んでいた。その追求をのらりくらりとかわしていた菜々子さんだったけれど、とうとう追いつめられてしまったらしい。
父に連絡をとり、事の顛末を説明した。
私、あなたの子供を産んだの、と。
だけど菜々子さんは父の闇を正しく理解していなかった。
祖父の死に顔さえ見ることが出来なかった父は、当時狂ったように色々な女性と関係をもっていたのだ。そう、色々な女性と。
その中には、妊娠中の女性もいたらしい。
だから父には行為の最中、菜々子さんがすでに妊娠中であることに気が付いていた。妊婦特有の体位。妊婦特有の、妙な柔らかさ。だから彼女の言う言葉が自分の持っている経済力目当てのものであると気が付いてしまった。
父はとうとう幼なじみでさえ自分自身を見てくれないのかという絶望を味わうと共に、これまでの思い出が蘇ってきて彼女を突き放す事ができなかった。
再び顔を合わせた時、菜々子さんはすっかりどこかが壊れてしまっていたらしい。自分の幼なじみはもう死んでしまったのだということに気が付いた父は心ばかりのお金を毎月彼女の口座に振り込んでいた。普段は連絡のひとつも寄越さないくせに、毎月その時期になる度に『私達、家族だもんね!』というメールを送ってくる菜々子さんを見て、父は気が付いたのだ。
私や母こそ、金銭を抜きにしても離れない存在であるということに。
父が一番狂っていたとき、お金も渡してくれない時があった。その時に私達は貯金を切り崩したり親戚から支援を受けたり母も慣れないパートをしたりして、なんとか家を守っていたのだ。母も周囲から離婚して家を手放せば楽になるのに、と散々説得されていたけれど首を縦に振らなかった。私はそんなことを考えもしなかったけれど、母には離婚という選択肢があった。でも、それは選ばなかった。それだけ、父と他人になることが怖かったんだろう。だけどその時の苦労が原因で結果的に母の精神も壊れてしまったのだから、父には本当、何回だって謝ってもらいたい。
何回だって、謝って。
そうしたら私達は何回だって、許すから。
***
ところどころぼかしながら、なんとか話し終えた父は大きな溜息をついた。
父が菜々子さんの策略にハマらなかった理由にはかなりどん引きしてしまったけれど、父が言うには妊娠中の女性には特有の感触があるらしい。それを求めて、そういう人たちばかりを集めたクラブもあるんだとか。
最っ高に気持ち悪い。
気持ち悪いけど、これが、私の父なんだ。
「と、いうワケなんだ」
「ふーん」
「ごめんな、お前にこんな話をして」
「ううん、いいよ」
「え?」
「話してくれて、ありがとう」
子供に話してもしょうがないことだから、という線引きをしないで父はきちんと私に話してくれた。内容はかなり不適切だけど、私にはその事実が嬉しかった。
ただ、嬉しかった。
父に、一人の人間として見てもらえているような気がした。
私、どろぼうのこどもなんかじゃなかった。
私、ちゃんとお父さんの子供だった。
ぬるくなったオレンジジュースを一気に飲み干す。
「お父さん、サイテー」
やっと、言えた。
ずっと言いたくて仕方がなくて、でも言っちゃいけないと思って飲みこみ続けていた言葉。考えることすら許されないと思考に蓋をしていたこと。
私のお父さん、縁野正苗は最低な男。
「でも、だいすき」
私はそんな、最低男を愛している。
だって、すばらしい人間しか愛しちゃいけないなんてルールはないのだから。
私が愛している父親は残念ながらすばらしい人間とは言えない。でもその事とイコールで私も残念な人間であるとは限らないし、すばらしい人間がずっとそのすばらしさを保つことができるとも限らない。
だから、これでいい。
もしかしたらいつかの未来、すばらしい人間になれるかもしれない現在の最低な父を私は微笑みと共に受け入れる。
「早く帰ってきて」
「帰っても、いいのか」
「ずっと待ってるんだから」
「そうか」
「お仕事、まだ忙しい?」
「いや、もう落ちついたよ。仕事と言っても、引き継ぎだから」
「引き継ぎ?」
「ああ。これはまだ秘密にしておきたかったんだが」
「なに。まだ秘密があるの?」
「今度は良い秘密だよ」
ちょっとだけ私は身を固くした。
「実は、仕事を変えようと思っていてね」
「えっ」
「ああ、別に会社を辞めるんじゃないよ。今までの出張や残業ばかりの部署ではなく、もっと時間に余裕のある部署に移ることになったんだ」
「えっと、それって……」
「もっとちゃんと、家に帰りたくなってね」
「お父さん……」
「まぁその代わり、お給料も少し減ってしまうからお母さんにはまだ言ってないんだけど」
「バカ!」
私は空になったグラスを倒す勢いで椅子から立ち上がった。一度は引っ込んだウエイトレスがまた何事かと顔を出す。
「私達はね、そんなことより、そんなことよりっ……」
もう聞きたいなら聞けばいい、私の家の恥部を。そんな気持ちで、父に叫ぶ。
「一緒にいてほしいのっ!」
力んだ拍子に、今まで堪えていた涙が出てしまった。肩で息をしながら、頬を流れる水滴を拭う。ぽかん、と口を開けている父を睨みつける。すると父は大きく一度だけ首を縦に振った。
全く、鈍感な父だ。
彼の願う愛はすべて、我が家で手に入るものだということがやっと分かったらしい。
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