第十話 こどものはなし

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第十話 こどものはなし

 子供の作り方なんて、学校で習う前から知っている。知りたくはなかったけど、イヤでも耳に入ってくるのだ。  父が今のように女性にだらしなくなったのは元を正せば父の父、つまり私から見た祖父にあたる。あんまり人のせいにはしたくないけど、身内だから別にいいでしょう。 「なぁ、おい、喜理すけ、もうブラジャーつけとんのか」  そんなことを平気で小学生だった孫の私に言う人だった。愛情があれば良いんだけど、残念ながら私にはそれを感じることができなかった。ただただ、不快。鳥肌。嫌悪感。普通『おじいちゃん』といえば眼に入れても痛くないぐらい孫を可愛がるものじゃないだろうか。もしかしたら、私は祖父にとって『かわいい孫』ではなかったのかもしれない。その結果、祖父は私に対してセクハラ紛いの嫌味ばかり言うようになったのかもしれない。それなら私にも悪いところがある、なんて思ったこともあった。  でも結局、そんな自己犠牲の精神は一年と保たなかった。  感情を押し殺すには私は人生経験が浅すぎた。  祖父の言う言葉を受け流して、祖父の望むような孫であればきっと愛してくれると信じ切ることもできなかった。どうしても、耐えられなかった。私は自分に正直になり、心の赴くままに祖父のことを嫌った。どうしていつもイヤなことばかり言う人間のことを好きになれるんだろうか。その理由が『身内だから』ならば、それは随分とお粗末で頭が空っぽな理由だと思う。  では、祖父好きになって欲しかったか、可愛がって欲しかったかと聞かれれば迷いなく頷くけれど、無い物ねだりしたって仕方がない。母などは「それがおじいちゃんの愛情なのよ」と棒読みで私に言い聞かせていたけれど、焦点が合っていなかった。母も母で、舅には苦しめられたんだろう。祖父は人の触れて欲しくない部分をめざとく見つけて、じくじくと膿ませる才能があった。徹底的な人格否定からの、砂糖菓子のような甘やかし。そんな祖父に騙される人も騙されたがる人も大勢いたらしい。私は血を分けた孫なので、幸か不幸か祖父の厄介なカリスマ性に影響はされなかった。だけど、外から縁野家に入った母は違ったらしい。  私が今聞いても「えっ?」と思うようなことをまるですばらしい出来事のように語る母の正気を疑ったことは、一度や二度ではない。  人は、簡単に狂う。壊れる。操れる。  そんなことも、祖父からは学んだ。  祖父は色んな人間を人生の中で味方につけていたけれど、たったひとりだけ味方にできなかった人物が居る。それは私、ではない。  確かに私は祖父の味方にはならなかったけれど、祖父だって私みたいな生意気な子供に味方になってほしくはなかっただろう。そういう意味で、祖父が味方になって欲しいと望んだのにそれが叶わなかった人物、ということ。  それは私の父だ。縁野正苗。  父は内心誰よりも祖父のことを愛していたけれど、だからこそ祖父の間違った行いにはいつも否定的だった。私はよく「父さん、それは間違っている」と言って祖父を言いあっている姿を見たことがある。  一度だけ、祖父の葬儀の時に父と祖父について話したことがある。  喪服を着た参列者の中には見知った顔もあれば一度も見かけたこともない顔もあった。彼らは皆一様に『私こそがあの人の一番の理解者!』という同じ台詞をなぜか身内の私たちに向けた。なんなんだろう、あの心理は。自分を置いていった自称理解者の祖父を憎めばいいのに、まるで私たちが引き離したみたいに言う。ばかばかしい。  祖父は、勝手に死んだ。  自殺なのか他殺なのかも知らない。私たちの知らない場所で私たちの知らない方法で死んで、そして腐り始めた頃に警察からの連絡でやっとその事実を知らされた。今まで散々心を引っかき回しておいて、最後の「さよなら」も言わせてくれなかった祖父。最期まで身勝手だ。でも、非常に「らしい」と思った。私はどこかそんな祖父の終わり方を不思議と「なるほどな」と飲み込めたけど、父は違ったらしい。 「なぁ、喜理」  ふらりと幽霊のように私に近づいた父は言う。見慣れない黒いスーツが余計に幽霊みたいにだと思った。 「なに?お父さん」 「じいちゃんな、死んじまったな」 「そうだね」 「じいちゃんのこと、好きだったか」 「それなりに」 「それなりって、どれぐらいだ?」 「どれぐらいって、そんなの言えないよ」 「大体で良い」  面倒くさいな、と思いながら私は今の祖父の居場所を指さした。 「それなら、今じいちゃんを焼いてる煙の高さぐらいには好きだったよ」 「結構すきだったんだな」 「じいちゃんだし」 「そうだな」 「それなら、お父さんはどうなの?」 「俺か?」 「お父さんも、もちろんじいちゃんのこと好きだったでしょ」 「どうだろうな」 「えっ」 「俺、父さんと喧嘩ばかりしていた。父さんのやることは、間違いが多すぎると思っていた」 「だって、間違ってたでしょ」  他人の家庭を壊すことが正しいとは、幼い私でも考えられなかった。 「どうだろうな」 「違うの?」 「違うんだろうか」  それから「俺、涙が出てこないんだ」と言い残して、父は私の元から去った。  思えば、父がおかしくなったのもそんな会話を私とした後からだった。  祖父が死ぬまでは、むしろ真面目でそういうことを毛嫌いしていたのになぜか自分の父を亡くしてからは彼が乗り移ったかのような好色ぶりを見せた。  それは亡くしてしまった父親を追い求めた形なのか。  抑圧されていた自我が目覚めた姿なのか。  どちらにせよ、残された私達にとってソレは迷惑でしかなかった。  大人は是非とも、そういう自分探しみたいなものは遠慮しておいてもらいたい。そういうのは、子供のうちにすませておくべきなのに、どうして大きくなってから周りに迷惑をかけてまで自分を探すんだろう。探したら、見つかるとでも思っているんだろうか。見つかるならとっくに見つかってるでしょ、なんて思う。  でも、父に同情する気持ちもある。  自分の親に同情するなんておかしいかもしれないけれど、この感情はきっと同情以外の何者でもないのだからそう言わせて欲しい。  あんな人たらしに育てられたなら、父のかわいそうになるほどなりふり構わず愛を求める姿は分からないでもないのだ。父の、自分を好いてくれる人物を嗅ぎ分ける天才的な能力はきっと祖父譲り。でも父は、祖父じゃない。祖父みたいにうまく立ち回れるわけではないから、人気者にはなれなかった。それどころか中途半端に察する力をつけてしまったのだから父は心を閉ざし、苦労せずに手に入る愛に溺れるようになった。  さみしかったんだと思う、父も。  時々、怖くなる。  私はもしかして、間違って産まれてきたんじゃないかと。  一歩間違うと、私が幾名ちゃんみたいになる未来もあったんじゃないかと。  私は二人の愛の結晶なんかではなく、二人の些細な不注意なのかもしれない。  或いは、母の狡猾な企みか。私が産まれた頃はまだ祖父も健在で、父も真面目さが際だっていたからきっとそんなことはないと信じたいけれど、父にとって私達では祖父の開けた風穴を埋めることはできないんだということを行動で示し続ける父にはうんざりだった。  うんざりだけど。  私も父を嫌えない。  父が祖父を嫌えないように、私も父を嫌えない。  思考の上でだけなら、祖父を嫌うことはできる。「じいちゃん、あんまり好きじゃないや」とクラスメイトに言うこともできる。たとえ嘘でも。でも心のどこかで、また愛して欲しいと願ってしまうから身内の前ではなかなかおおっぴらにできない。  他人の前だと嫌えるけれど、身内の前だと嫌えない。  それが祖父。  他人の前でも嫌えないし、身内の前だともっと嫌えない。  それが父。  私はたとえ冗談でも音に出して「父がきらい」なんて言えない。クラスメイトにさえも言えない。あんな薄っぺらな会話の中に挟むことも出来ない。良い子ちゃんのフリをして「私、お父さんのことすきだもん」と言うものだから皆はウチの家庭環境は非常に恵まれたものだと勘違いしている。ずっと勘違いしていてほしい。そしてできれば、勘違いじゃなくなればいい。  まあ目下の私の現実は、浮気性でろくに家にも帰らない甲斐性なしの亭主を抱えた家族、というだけのこと。  私は産まれたときからこうなることを運命づけられていたから、別段不満にも思わないけれど母はどうだろうか。  母は自分で父を選択して、そうして今の生き地獄に陥った。  結婚の結果がこれならば、私の誕生に意味はあったんだろうか。  落ち込みがちの母を支えるという点では、私の意味はあるのだろう。  だけどそもそも私という存在がいなかれば母はもっと簡単に父の呪縛から逃れられるわけで。それなら、一体私はなんなのだろう。  父を見ていると、どうしようもない祖父の子供である父もまたどうしよもなくなっている。その規則性で言うともちろん父の子供である私もいずれどうしようもない状態になってしまう。そうならないように努力はするけれど、私も父を亡くしたら少しでも父の気持ちを理解しようとして色恋に走るのだろうか。でも女の私がそれをするのはあまりにもリスクが大きすぎるだろう。だからきっと、どこかでブレーキがかかるはず。それかもっと根本的な解決方法がある。  それは、このくだらない遺伝子連鎖を私が断ち切ること。  子供を作らなければ良い。出来たとしても、殺せばいい。  だからきっと私は結婚しない。  間違っても、結婚しない。  誰かと感情を分かち合いたいとも思わないし、分かって欲しいとも思わない。  そんな弱い人間じゃ、ない。  そう心に決めているのに、どうして今こんな『生命の誕生』のビデオを見ているんだろう。もうクラスメイトの大半は机につっぷすか他の教科の勉強をしている。もうビデオは複雑怪奇なイメージ図のみになっていて意味不明だ。もしも保健体育の教材としてアダルトビデオのワンシーンでも流せば皆飛び起きるだろう。まぁその後が、大変だろうけど。そんな妄想をしながら退屈をなんとかやり過ごす。私の隣に座っていた近藤さんの頭はさっきから私の視界に入らない。なんとか頑張っていたみたいだけど、途中で力つきたらしく頭は完全に机に広げられたノートに落ちていた。起こすこともないだろう。私は寝かせておくことにした。そろそろビデオも終わる。このビデオが終われば、私は近藤さんをめぐる一連のゴタゴタに巻き込まれるのだろう。ばかばかしい。  私は隣の地獄耳が息絶えたのをいいことに、盛大に溜息をついた。 「はぁ」  古くさい映像の中で、トレーナーに白いヘアバンドをした母親役の女性が心底嬉しそうに他人の子供を抱いている。その下には「幸せな家族」というテロップ。  幸せな家族、か。  それって、なんなんだろう。  父がいて母がいて子供がいて。それだけで満たされるなら私のウチだって「幸せな家族」だ。たとえ父が家庭を省みなくても母の精神が壊れていても。  実は、学級委員長を務めて人望も厚い近藤さんは母子家庭だ。母親の実家に身を寄せていて、やさしそうな祖父・祖母と買い物をしている姿を良く見かける。なんでも、父親は早くに亡くなってしまったんだとか。そういう下世話な話を聞いたことがある。でも近藤さんは母子家庭特有の卑屈さなんて微塵もないし、むしろ持ち前の明るさでクラスの人気者だ。父も母もいるのにクラスのはじっこでそっと息をしている私とは大違い。別に、子供の個性と言ってしまえばそれまでだけど私は映像にあるような家庭ばかりが本物であるとは思えない。冷え切った両親といるぐらいならばあたたかい片親がいてくれたほうが、いいんじゃないのかな。でもこんなの、持っている者から見た贅沢なんだろう。わかってる、わかってるけど。  幸せな家族。  シアワセナカゾク。  見た目だけそろえたって仕方がないじゃない。  幸せになる要素を揃えていたとしても、自分からそれを手放す男だっている。  そんな男にとってのシアワセなカゾクってなんなのだろう。  父に、とっての。  あの人にとってのシアワセナカゾクはきっと、私ではなかったのだった。  じゃあ、私は、なんだ?  私は一体、なんなんだ?  適当な行為の果てに産まれただけなんじゃないのか? 「うっ」  昨日会った幾名ちゃん、みたいな。 「うううううう」  私、どろぼうのこどもかもしれない。  私、どろぼうのこどもなんだ。  そういうふうに理解を進めると、私はこみ上げてくるものを押さえることができなかった。手を挙げて「先生、ちょっと体調が」さえ言えなくて皆とは違った意味で机に突っ伏す。そんな私の変化に気が付いた地獄耳の近藤さんが眠りの世界から帰ってきて私に何事か言っていたけれど、よく聞こえなかった。  いいよね、近藤さんは。  幸せなんだから。  そんな思考だけが、最後に残った。
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