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第十一話 シアワセノカタチ
私は保健室に運ばれたらしい。
ぼんやりと取り戻した意識で無機質な白い天井を見つめる。
どうやら『生命の誕生』のビデオの途中に気を失ってしまったようだ。ああ、面倒くさい。クラスメイトにあんな古くさいビデオで気を失ったと思われただろうか。男子生徒が生理を伝えるビデオを見て貧血を起こすということはままあると聞いたことがあるけど、子供を産む当事者がこんな体たらくだとは情けない。
でも言いたいのは、私はあのビデオのせいで気を失ったわけではないということ。
「幸せな家族」の押しつけに嫌気が差してしまったのだ。嫌気も限界まで高まると、人の意識を飛ばすらしい。
「近藤さんに、借りができちゃったな」
「そうなの?」
また私の独り言を聞きつけた近藤さんがカーテンを開けた。
「気にしなくていいよ。私、委員長だし」
「そうだね」
屈託なく笑う、片親の近藤さん。
ぎごちなく笑う、両親とも健在な縁野喜理。
私は父の不倫相手に対しては不遜な態度もとれるし啖呵も切れるけど、本当に仲良くするべきクラスメイトとの必要以上のコミュニケーションは少し苦手だ。必要性を感じなかったから、今まで身につける努力をしなかった。でもそのくせ『本当は』不倫女と喧嘩をするよりもクラスメイトと仲良くする方が大切であると感じている。ひどい矛盾だ。
「きりりん、どうする?」
「どうするって?」
「結構長いこと寝てたから、今お昼休みなんだよ。午後からは体育だし、もし体調悪いなら早退しちゃった方がいいんじゃない?」
「もうお昼なんだ」
「そうそう。もし早退するなら荷物、教室から保ってきて上げるよ」
「でも私の鞄、重いよ?」
「あははっ、きりりん置き勉しないもんね!」
まぁ大丈夫だよ教室すぐそこだから、と言い残して近藤さんは姿を消した。私はまだはっきり意思表示をしていないのに、勝手な人だ。でも、私は早退するつもりだった。言葉の端々から察して、私に「早退したい」という言葉を言わせないでくれた。きっと私みたいな真面目なタイプは「早退したい」ということが「サボりたい」ということと同義だと、彼女は知っているんだろう。
「ほい、きりりん」
「ありがとう」
それなりに重い鞄を持ってきてくれた近藤さんにお礼を言って、私はベッドから起きあがった。セーラー服の乱れを整えて鞄を受け取る。
「先生には言っとくから」
「うん」
「それにしても、きりりんってば意外と繊細だったんだね」
「えっ」
「あのビデオでこうなるとは思わなかったよ。私なんて寝てたし」
「ああ」
それはね、と弁解しようと口を開いたけれど次の言葉が出てこなかった。弁解したい気持ちはある。でもそれはウチの家族の恥部をすべてさらし出すということ。別に近藤さんは口の軽い人ではないのだから言ってしまっても構わないだろうけど、他人の家の裏事情なんて誰が好き好んで知りたがるだろう。それが全くの他人、例えば芸能人とかなら逆に興味津々なのかもしれないけど、残念ながら私と近藤さんは顔見知り。クラスメイト。それだけ。間違っても深いところを話すほど仲良しではない。
「きりりん?」
話題を向けようとしたのに止まってしまった私を近藤さんが訝しげに見ている。なんとか誤魔化さないと。
「えっと、私、苦手なんだよね、ああいうの」
「ああいうの?」
「幸せの押しつけみたいでさ。幸せな家族の形はみんな違うのにね」
なんとかこれで誤魔化せただろうか。
「家族の形はみんな違う、ね……」
「う、うん」
なぜか私の台詞をそっくりそのまま繰り返す近藤さん。どうしたんだろう。
「きりりん」
改めて、私の目をじっとのぞき込む。
「な、なに、さっちゃん」
もしかしてさっきあだ名で呼ばなかったことが気に障ったのかと思って無理矢理に忘れかけていたニックネームを絞り出す。
「私も、それ、賛成」
近藤さんはコクリと深く頷いた。
「あのね、きりりんは知らないかもしれないけどウチって母子家庭なんだよね。お父さんはもう死んじゃったの」
「へ、へぇ」
うん、知ってる。周りの人から聞いた、とは言えずに曖昧な相づちをうつ。
「それだけ聞くと、私はさっきの『幸せな家族』には絶対なれないよね。だって、お父さんがいないんだもん。だけど、私にはお父さんの記憶がある。まぁ小さい頃に亡くなっちゃったからあんまり覚えていないんだけど、それでも大事にしてもらった記憶はある。だから見た目には私達の家族はお母さんとおばあちゃんとおじいちゃんと私だけど、私の中ではそこにいつもお父さんがいるの」
近藤さんは少し早口になりながらそう言った。
「だから、私の中では常に私は『幸せな家族』なんだけど、ああいうビデオ作る人とか、ああいうビデオに疑問を持たない人にとっては私はどう頑張っても父親の欠けた子供で、幸せな家族ではないんだなぁって思ったり、するんだ」
近藤さんの言うことは分かる。
母子家庭だけど、心の中に父親が生きているから幸せだということ。
ふーん。
じゃあ、それでいいじゃん。
と、思ってしまった。別に他人から『シアワセナカゾク』の太鼓判を押されなくても良いでしょう。自分の中で本当にそう思えているのなら。
本当に、心の底から思っていればそもそもそんな考えさえ浮かばないはず。だから、そんなふうに考えてしまっている時点できっと近藤さんにも父親がおらず不満なところがあるんだろう。他人から幸せと思ってもらえないからイヤだなんて。自分が本当に幸せならそんなことどうだっていいじゃないか。自分の心に幸せがないから、他人から押される判子を待っている。だけどそういう汚い感情には蓋をして、見ないようにしているだけ。
そして、それをうまく隠せているかどうか私を使って確認しているだけ。
ふーん。
そんなことしなくてもいいじゃん。
だって近藤さんには家に帰れば優しい祖父や祖母がいて、そうして優しいお母さんがいるんだから。たとえ父と母という形は揃えていても心の安らぎにはならない私とは大違いだと思う。
「そうだね」
でも私はそんな四文字しか言えなかった。近藤さんが眼を背けているモノに対して私がズバリと暴いてしまってもいいのだけど、それをすると今度は私が暴かれてしまう。斜に構えることで諦観に逃げている私を。
私こそ、現実から眼を背けているんだ。青春のすべてを愛する母に捧げ、そして精神のすべてを父に縛られている状態の歪な縁野喜理。
そういうことを考えるとき、いつも思う。
歪んでいない人間なんているんだろうか。例えば私のクラスの中で、歪んでいない人間は何人いるんだろう。あまりクラスメイトと深い交流がないけれど、そんな私だからこそ分かる。きっと、四・五人だ。それが多いのか少ないのかはわからないけれど、それだけ歪みは身近なんだっていうこと。
私は歪んでいることを自覚しているし、それに悪いことだとも思っていない。
それはきっと、私がここで息をしていくために必要なものだから。
だから、近藤さんの歪みも否定するつもりはなかった。
「さっちゃんはいま、幸せなんだね」
適当に共感の言葉を吐き出しておく。それで満足なんだろう。近藤さんはそれに食いついて満足げに微笑んだ。
「それで、きりりんはどうなの?」
「え?」
「きりりんは、どうなの?」
同じ言葉で問いかけられる。どうなの、とは。どういうことなんだろう。
「きりりんはさぁ、幸せ?」
シアワセ。
「幸せの押しつけって、さっき言ったよね」
「う、うん」
「ってことは、きりりんは誰かに幸せを押しつけられてるって感じてるんでしょ」
「そう、なのかな」
私が『シアワセ』を押しつけられていると感じている相手。
それは、私自身だ。
私の現状は、他人から見たら不幸以外の何者でもない。まさしく、親に搾取される子供。もっと非道い状況の子供もいるだろうけれど、現代日本においてはきっと搾取されている方に入るだろう。
それから必死に眼を背けて、私は自分で自分を騙している。
母に尽くして、父に媚びて、それが私の幸せだと思うように努力をしている。
そんな努力をしていることすら、忘れるように、努力している。
「違うの?」
近藤さんはなかなかどうして鋭い人物のようだ。私は彼女のことを見くびってしまっていたのかもしれない。彼女も彼女なりに、母子家庭の中で息を潜めて周囲のニオイを敏感に感じ取っていたんだろう。
「よくわかんない、や」
近藤さんは私の歪みなんてお見通しなんだろう。それを踏まえて、私と向き合って会話をしている。こんなに歪んだ、私と。まぁ近藤さんも大概だから、似たもの同士なのかもしれない。でも似たもの同士の傷の舐めあいは禄なことにならないから、できるだけしたくなかったのに。だから極力関わりを避けていたのに。
「わかんない?」
「う、うん」
さっき受け取った自分の鞄がひどく重い。
早く解放して欲しい。さっきまでただのクラスメイトだった近藤さんのことが途轍もなく面倒な化け物に見えてきた。
「きりりんて、頭でっかちだよね」
「頭でっかち?」
心外だ。
そうならないように色々な本を読んで知識の吸収には余念がないというのに。
「うん。色んなこといっぱい考えてるみたいだけど、全部自分の頭の中だけで終わってるよね。理屈ばっかりでさ」
「は?」
「ああ、言い方キツかったらごめんね。でも、本当のことでしょ」
「本当のことなら言ってもいいってわけじゃ、ないって思うんだけど」
「あはは」
近藤さんは教室で見せるような笑みとは打って変わった大人びた顔で笑う。そうか、これがこの人の本性なんだ。
「近藤さん、どういうつもり?」
頼んでもないのに自分の素の姿なんか他人に見せたりして、どういうつもりなんだろう。私に、どうしてほしいんだろう。全く分からない。
「近藤さん、か。さっちゃんって呼んでくれないの?」
「だって、馬鹿らしいでしょ。あんなルール」
「まぁね。でも担任の言うことは聞いておいた方が、いいもんね」
縁野さん、座ってもいい?と言いながら返事も待たずに近藤さんはベッドの縁に腰掛けた。
「縁野さんとは、一度こうやって話してみたかったの」
「別に話ぐらい、いつでもできるじゃない」
「できないよぉ。縁野さん、いつもすっごいバリアー張ってるもん」
「バリアー……」
やはり、分かる人には分かってしまうんだろうか。
「でも今日はね、なんかそのバリアー弱くなってる気がしたから、思い切って話しかけてみたの」
「本当?」
「ホントホント」
「自分のグループが面倒になっただけなんじゃないの?」
「それもあるけど、それはほんの少しだけだよ。私は別にあのグループどうでもいいし」
「友達なのに?」
「学校の中ではね」
友達なのは学校の敷地内だけ、と近藤さんは声を小さくして言った。
「だってあの子たち、私にお父さんがいないこと陰で悪く言っているんだもん」
「ソレを知って、よく一緒にいられるね」
「ま、どうでも良い人にどう思われようが関係ないから別に良いんだけど」
近藤さんの歪みはここか、と思った。
他人の意見なんてどうでも良いと良いながら、それでも他人の中で自分が不幸だと納得できない。そんなのは誰にでもある感情だから特別歪んでいるとも思えないけど、近藤さんにとっては一大事なんだろう。だから、私にも突っかかってくる。
もしも今、家のことでゴタゴタしていないならば、私が普通の家の普通の女子中学生ならば、きっと近藤さんが苦しんでいる歪みに対して何か力になれただろう。
でも、今は無理だ。
私は私のことで精一杯。他人のことをどうこうするなんてできない。
みんな、勝手に自分のことは自分で始末をつけたらいいのに、とそう思わずには居られない。
「ふーん、そうなんだね。じゃあ私そろそろ帰るね」
近藤さんは何か言いたそうだったけど、私はさっさと出口へと向かった。
「ほらね、そういうところが頭でっかちなんだよ」
私を追いかけて、近藤さんは言う。
「ねぇねぇ、分かってる?」
彼女の綺麗に切りそろえられたおかっぱ頭が揺れる。なんなんだ、もう。コイツ。
勝手に話しかけてきて、勝手に踏み込んできて、勝手に……。
「うるさいな!」
とうとう叫んでしまった。
びっくりさせてしまうかと思ったけれど、近藤さんは肩を震わせることもせずに変わらずニヤニヤと笑っている。
「私、うるさい?」
「うるさい」
「そう? でも、縁野さんが言ったんだよ」
「え?」
「縁野さんは覚えてないかもしれないけど、さっき倒れる前にね」
口元に手を当てて、近藤さんが耳元で囁く。
「たすけて、って」
たすけて?
私が?
近藤さんに?
あり得ない。
どうして私がクラスメイトなんかに助けを求めるのだ。
助けを求めたところで、決して助けてくれないような人たちなのに。
「聞き間違い、です」
私はそう言い放って足早に保健室を出る。
近藤さんは、追ってこなかった。
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