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第十四話 こどもになるひ
父を連れて帰宅したら、母は「おかえりなさい」と意外と普通の反応だった。
もっと泣いて取り乱すかと覚悟していたのに、私は拍子抜けしてしまう。色々な言葉を考えていたのに、無駄になってしまう。その後二人は大人だけで話があるから、と言って私に部屋に戻るように言いつけた。
そう、これが『普通』の対応。
私が求め続けたこと。
親に頼られることは悪い気はしないけれど、それが当たり前になってしまっては辛い。外ではどんなに気を張っていても、せめて二人の前では子供でいさせてほしい。
そんなことを願っていたんだと言うことに、私はようやく気がついた。
意地を張ってずっと自分で持っていた重い鞄を自分の部屋に置いて、そっと階下に耳を澄ます。特に怒鳴り声や鳴き声は聞こえてこなかった。
なんだ、心配して損した。
ボスンとベッドに沈み込む。
父のどうしようもなさはもう永遠に直らなくて、母を守るために私がしっかりしなくちゃという考えは私の独りよがりだったようだ。
父は父で、一人で勝手に立ち直っていたし。
母は母で、一人でも父と話ができている。
私がなにもしなくても、父はこうやって自分でケリをつけて今日ウチに帰ってきただろうか。昨日の、いや、これまでの出来事はなんだったんだろう。母と一緒にアワアワして不倫相手の言うがままになっていても、今日という日は来ただろうか。
……いや、違う。
父が心を入れ替えたきっかけは菜々子さんでも、父が帰る家や母を守ってきたのはやっぱり私だ。そして母はその細い肩にかかる今後の生活から逃げなかった。最悪の場合、一人でも私を育てるつもりだったということをパート時代の母の姿から私は理解している。
私がやってきたことは、無駄じゃなかった。
私の歪みは今日、報われたのだ。
「ふふっ」
自然と笑みがこみ上げてくる。
こんなに自然と笑えたのは何時ぶりだろうか。
「喜理」
一階から私を呼ぶ声がする。もう話し合いは終わったらしい。私は寝ころんだことで崩れてしまった制服のプリーツを直して階段を降りた。
***
「喜理にはもう話したけど、改めてな」
勧められるまま、二人の前に座る。
父の横に座る母はいつになく嬉しそうだ。あんなに不安定だったのに、結局娘の力よりも夫の力の方が強いのね、なんて少しだけイジケてしまう。
父の不貞が詰め込まれたいちご型の箱は、食卓から綺麗さっぱり消えてしまっていた。
「喜理ちゃん、今までありがとう」
「えっ」
「お母さん、喜理ちゃんにたくさん助けられたわね」
「そんな……」
ほんの数秒前の自分を恥ずかしく思う。私もちゃんと、母の支えになれていたんだ。それはちゃんと、伝わっていたんだ。
「頼りないお母さんだけど、これからはもっと頑張るから」
「うん……」
「喜理、俺からもありがとう。母さんから聞いたよ、お前が頑張ってくれていたこと」
「私、喜理ちゃんを産んで、よかったわ」
私を産んで、良かった。
私は産まれて、良かった。
母にそう感じてもらうことをひとつの目標にしていた私にとって、待ち望んだその言葉ははすっと心に溶けていった。ある時など、もうずっと一生ウチはこのままで、それどころが事態はもっと悪くなるばかりかもしれないなんて絶望した日もあったのに。人によってはそんな事態になったなら見切りをつけて出て行く人もいるだろう。でも私にはそれができなかった。いつか戻るかもしれない細い望みを捨てることができなかった。だってそれは、どうしても欲しかったから。
欲しくて欲しくて、たまらないものだったから。
「なあ喜理。俺にとっての幸せはお前だよ、お前たちだ」
「嘘ばっかり」
間髪入れずに私はそう言い切る。いつもなら、きっと遠慮して曖昧な台詞で濁していただろう。でも良い子ちゃんでいたところで、事態はなんにも好転しないと分かったから。皆にとっての良い子ちゃんよりも、その人の為なら誰かに嫌われてもいいと思えること、そして行動することが大切なんだ。
「嘘だと思われても、仕方がないな」
父が自嘲気味につぶやく。
「それでもお前は、俺を見捨てないんだな」
「まあ、お父さんだし」
「うん」
「血、繋がってるし」
「そうだな」
「お父さんも、分かるでしょ」
「そうだな」
父もまた、実父を裏切ることが出来なかった。最期の最期まで信じて、だから耳に痛い言葉も言った。そうしてさよならも言えないまま、死に顔さえ半分崩れたものしかみれずに勝手に去られてしまった。それを恨みに思っているのかどうかなんて私は怖くて聞けないけど、きっと父は恨んでないんだろう。
なぜって?私が父の立場なら、きっと恨まないからだ。
おかしいかな。
狂ってるのかな。
でもそれが、私が見つけたカゾクの形だ。
何度裏切られても。
何度傷つけられても。
子供は親を見捨てられない。
見捨てたくない。
見捨てて、たまるか。
なによりも大切で、世界のすべてだと思える日々を過ごした人を。
「私達、家族だもんね」
意識せず、菜々子さんと同じ言葉を言ってしまう。
だけどこれは、月末だけに出現する台詞じゃない。
一年中いつだって、私はなんの見返りも求めずにこの言葉を言えるのだ。
私の、家族に。
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