第三話 どろぼうのいえ

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第三話 どろぼうのいえ

「はぁ、はぁ……」  不毛な追いかけっこの末、私が幾名ちゃんを捕まえることができたのは結局最初に出会った公園の前だった。 「も、いい加減にしてよね」  つい、本音が口からでる。  子供に対する時の比較的柔らかな口調をやめて、いつもの低い声で言う。まあ幾名ちゃんみたいな子どもにはこんな些細な違いなんて分からないだろう。息を整えて顔を上げると、幾名ちゃんが何故か泣きそうな顔をしていた。  あれ。まさかさっき、ちょっとキツめの口調で話したから?  この年頃の子どもってそんなに情緒不安定だったっけ?  でも、さっき披露してくれた見事な嘘泣きを思い出す。  そうだ、この子は平気でそんなことができる子どもだった。騙されないぞ、という気持ちで目に力をいれる。 「ごめんなさい」 「えっ」 「ごめんなさい、きりねえちゃん」  だから、素直に謝られてしまうと拍子抜けだった。 「ごめんなさい」 「えっと、ごめんは分かったから」 「ごめんなさい」 「うん、もう言わなくて良いよ。それより、どうして警察がイヤなのか教えてくれる?」 「ケーサツ?」 「さっき、警察がイヤだったから逃げたんじゃないの?」 「ううん、そんなことないよ。だってケーサツって悪いことしたひとを捕まえるんでしょ? あたし、わるいことしてないもん。だからケーサツも怖くないよ」 「あ、そう……」  てっきりなにか後ろ暗いことがあるから逃げたんだと思っていた。 最近では自分の子どもを平気に犯罪に使う親もいるぐらいだから、幾名ちゃんもそのクチかとちょっぴり思ってしまったことをこっそり心の中で詫びる。 「じゃあ、なんでイヤだったの」  どうせこの問いかけもまた流されると思っていたけれど、幾名ちゃんはこの問いには具体的に答えてくれた。 「あの人、ママをいつも叩くひとに似てたの」  あの人、とは交番の前に立っていた警察官のことだろう。  低い身長。  小太りの身体。  表情は帽子に隠れて見えなかったけれど、幾名ちゃんにとってはその二つの記号だけで恐怖の対象として十分だったんだろう。  細かい印象なんて抜きにした、なんとなくの雰囲気。それだけで嫌悪を覚えてしまうほど強く、その人のことが嫌なんだろうか。  ま、母親に暴力を振るう人間のことなんてどう頑張っても好きになれるはずがないけど。それが、父親でもない限り。  たとえ父親でも難しいくらいだ。  私の父も往々にして母に暴力を振るうことがあったけれど、血が出たり痣が残ったりするようなものではなかった。その最低ラインぐらいは、守ってくれていた。  だけど痣が残らなくても、血が出なくても『暴力』には変わらない。  私は最後の最後まで父とは血の繋がりがあって逃げられないけれど、母はその気にさえなれば紙切れ一枚で法的に逃げ出すことができる。  私はどうしようもない父親を嫌うことができないばかりか、父という苦難から逃げ出せる手段をもつ母をつなぎ止めるということもしなければならないのだ。  母には『私を産んだこと』を後悔してほしくない。  後悔して欲しくない、と言うよりかはソレを後悔されてしまってはいよいよ私は立っていられなくなるから。父と結婚したことは間違いだったとしても、私を産んでよかったと思ってくれればそれで救われるはずだから。  家事を積極的にこなすことはもちろん、母が喜びそうなことは片っ端からこなした。そのおかげかどうか分からないけれど、最近私の前では母は安定している。  父の悪い癖が加速していた一時など起きあがることもできなかったのだから、それを思うと進歩したと思う。  私と一緒に過ごすとき、極々まれに母は『女の子を産んで、よかったわ』と言う。  できれば、私がなにも家事のできない気の利かない子どもであってもその台詞を言ってくれたらいいのに、と私は毎回思ってしまう。  でも、言わない。  言わない代わりに『私もお母さんの子どもでよかった』なんて恥ずかしい台詞を言う。母はロマンチストなところがあるから、大げさかな?と思うほどの言葉の方が良いのだ。まぁそんなロマンチストな母だから、クチの上手い父に惹かれたんだと思う。  でも母はひとつ、勘違いをしている。  父は母だけに浪漫を語るわけではないということ。  私と母だけでは、父をつなぎ止める楔にはなれないということ。  まぁ言ったところで、今の母には理解できないだろう。  そっと心の扉を閉じて目の前の幾名ちゃんを見る。 「そう、似てたんだね」 「うん」 「でも、違う人だったでしょ?」 「……うん」 「じゃあ、大丈夫だよね」 「……ん」  ダメだ。  だんまりになってしまった。  一体この子は私にどうしてほしいんだろう。  初対面でいきなり『どろぼう』呼ばわりしてぶつかってきたかと思えばコロッと手のひらを返して『きりねえちゃん』と懐いてくる。逃げないように繋いだ小さな手は思いの外強い力で私を握ってくるから、手を離すに離せない。 「じゃあ、幾名ちゃん」 「のどかわいた」  そりゃ、あれだけ走ればのども渇くだろう。私だって渇いた。だけど私は真面目な中学生の身。クラスメイトの中にはこっそり学校にお金を持ってきて帰りにコンビニに寄ったりする子もいるけれど、私はそれをしない。  だからその、つまり無一文なのだ。 「そこに水があるよ」  仕方なく、公園の水飲み場を指さす。  さっきまではしゃいでいた子ども達の姿は大分少なくなっていた。もう夕暮れ時だ。良い子はおうちに帰る時間。それなのに、どうして私は見ず知らずの子どもと公園になんているんだろう。あと五分も歩けば家にたどり着くというのに。  いや、家に帰ったところで母のご機嫌取りと父の身の回りの世話をしなければならないのだから熱烈に帰りたいわけじゃないんだけど。  それでも、あそこは。  あの縁野家は、唯一無二の私の帰る家だ。  それ以上のことは、今は考えられない。 「ぷはぁ」  木陰のベンチに座って、背伸びをして美味しそうに公園の水を飲む幾名ちゃんをぼんやり見守る。 「きりねえちゃんも、飲む?」 「いいよ」  本当は喉がカラカラだったけど、公園の水は苦手なのだ。潔癖性、というわけでもないけれどなんとなく独特の金属臭がイヤだ。渇いた喉に微かにたまる唾液を頻繁に飲み込むことでなんとか渇きをやり過ごす。 「おいしいのに」 「喉、渇いてないから」  嘘だ。  当たり前のように私の隣に座る彼女にあまり抵抗を覚えなくなったのは、段々と情が移ってきたからだろうか。それとも、ただの諦めか。私の得意な。 「きりねえちゃん、おうちどこ?」  まさか迷子の彼女にそんなことを言われるとは思っていなかった。 「幾名ちゃんこそ、おうちは何処なの?」 「だから、アッチだってば」  何度も言わせないでよね、と幾名ちゃんは上空を指さした。  うん、だからそれは分かったから。 「きりねえちゃんは?」  自分はもう言ったのだから今度はそちらが教えてくれるでしょ、とでも言いたげに私の目をのぞき込む。短く切り揃えられた前髪に、露わになった丸いおでこ。走ったせいかほんのりと頬は赤らんで、短パンからのぞく膝小僧も少しだけ赤くなっていた。そしてそんな彼女の瞳の中にうつりこむ私は、ひどく生気のない目に青白い肌。ぱさぱさの長い髪を適当に三つ編みにしている。現実は、残酷だ。 「私の家は、ここから近いよ」 「どこ?」 「ほら、あの赤い屋根の家」  しきりに幾名ちゃんが聞きたがるので仕方なく公園から微かに見える我が家を指差す。 「ふぅん」 「私、そろそろ帰らないといけないんだけど」  公園の時計で時刻を確認する。  今日は買い出しの予定がなくてよかった。でも買い出しに行かなくていいとしてもそろそろ帰らないと怒られてしまう。私の時間割は両親の知るところでも、あるのだから。 「うん!」 「いや、だから私はもう帰るね、って」 「うん、わかった」  わかった、と言葉では言いつつも幾名ちゃんは私の腕にぴったりと張り付いて離れようとしてくれない。  いや、普通こういう時はにっこり笑って『ばいばい』と手をふるだとか『遊んでくれてありがとう』と可愛らしくお辞儀をしてみせるだとか、あると思う。  でも見知らぬ人にいきなり『どろぼう』と言ってしまうこの子のことだ。そんな『当たり前』はもう期待していない。 「じゃあ、ばいばい」  最初から、こうしておけばよかった。  ヘンなボランティア精神で迷子を交番に連れて行かなきゃ、なんて考えなければよかった。  私は腕に寄りかかる幾名ちゃんに気がつかないふりをして立ち上がって、そのままさっさと歩みを進めて公園の出口まで進む。 「……」  でも、私にかかる温もりは消えなかった。 「きりねえちゃん」  まるで当然のように私に付いてきて手を繋ごうとする幾名ちゃんの手を、ほんの少しの罪悪感を飲み込んで振り払う。 「あのね、幾名ちゃん。私は家に帰るの。帰らなきゃいけないの」 「うん、しってるよ?」 「ほんとに?」 「うん! だって」  元気良く頷いた幾名ちゃんは短パンのポケットをごそごそと探る。  なんだろう、まだ何かあるのだろうか。 「きりねえちゃんが帰るおうちが、あたしの帰るおうちだもん」  幾名ちゃんが取り出したのは、折り目のたくさん入った一枚の写真だった。  誰かが一度捨てた写真なんじゃないかと思うほどぐしゃぐしゃにされたその一枚は丁寧に皺が伸ばされていたけれど、どうしても所々色が剥げている。でも、それでも。  その写真が、何を意味しているのかは私にもわかった。  だって、その写真の中でぎこちない笑みを浮かべているのは、間違いなく私だったから。 「え……」  すぐには事態が飲み込めない。  くしゃくしゃの写真と幾名ちゃんの顔を交互に見比べる。そして再び写真に目を戻す。  それは、私が中学校に入学したときの写真だった。  例に漏れず桜の木を背景に、真新しい制服を着て、というよりも制服に着られている私。この時は母が髪を整えてくれたから、きれいな編み込みのハーフアップだった。懐かしい。母は機嫌の良いとき稀に私の髪を触ってくれる。私は髪を触って貰うのが好きだった。まあ、それも機嫌の良いとき限定だから滅多にそんなことはないけれど、私はそれでもその『滅多』を諦めきれないからこうして広がりやすくて扱いにくい髪を切ることができないのだ。  自分に眼を向け終えると、両側には両親の姿。着飾った母と父。二人とも、私よりも良い笑顔だ。  でも私は知っている。  この笑顔は、私の成長を喜ぶ気持ちからきているものではない。  ただ、場の雰囲気に呑まれているだけ、それだけ。  問題は、その写真をなぜ知らない子どもが持っているかということ。  でもその答えは。 「きりねえちゃん?」  の一言に詰まっているような気がした。  ああ、父よ。  アナタという人は、どこまで最低なんだ。  今度という今度は、もう庇いきれない。  でもきっと、私は父を庇ってしまうんだろう。  今だって、きっと目の前の女の子の母親が悪いに決まっている、なんて。  薄汚れたことを、考えてしまっているんだから。
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