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第四話 どろぼうのどろぼう
「どうしたの? きりねえちゃん」
写真を見せたとたん固まってしまった私を気遣うように幾名ちゃんが声をかける。
呆然としていた私は彼女が手を繋ぐことを許してしまった。でも、その温もりのおかげで意識が戻ってくる。どうするべきか、どうしたらいいのか。ぐるぐると考え出す。
幾名ちゃんが私の中学校入学時の写真を持っているという事は、間違いなく父と関係している。加えて、父は見ず知らずの子どもに家族写真を渡すような意味不明なことはしないだろう。現実的に考えて、一番筋の通る仮説は……。
「幾名ちゃん」
「なぁに?」
「お母さんの名前、言える?」
「ななこ!」
「じゃあ……お父さんの名前は?」
「まさなえ!」
終わった、と思った。
私の父の名前も正苗(まさなえ)と言う。縁野正苗、父の名前。
良くある名前ではないから、きっと本人なんだろう。
できれば偶然であってほしかったのに、これでほぼ確定してしまった。
幾名ちゃんの『きりねえちゃん』という呼び方が、決して間違いではないことが。
きっと彼女は、父の隠し子だ。
でも彼女側から見たら、私の方が隠し子、という扱いになるんだろう。納得いかないけど。
……納得は、いかないけれど。それなら、最初に『どろぼう!』と言われたことには納得してしまう。ああ、そういう事だったのか。
きっと純粋な彼女は母親に毎日聞かされているんだろう。あの子は私たちからお父さんを奪ったどろぼうだ、とでも。厳密に言うと私はどろぼうのこども、ということになるんだろうけど。まあ細かいところにまで頭が回ってないんだろう。
確か幾名ちゃんは五歳ぐらいだったはず。記憶を辿ると、ウチがごたついて時期と悲しいまでも一致してしまう。
ああ、いやだいやだ。
終わった、私の比較的平穏な日々が。
明日からはきっと修羅場なんだろう。
せっかく母も安定してきたというのに、あんまりだと思う。
……いっそ、この子と出会わなかったことにしてしまおうか。
いっそ、この子のことをなかったことにしてしまおうか。
母だって、浮気相手との愛の結晶なんて見たくないだろう。
浮気相手だって、子どもという最大の証拠がなくなれば勢いがなくなるかもしれない。第一、大事な娘を一人で出歩かせる方が悪いのだ。ここで凶悪な事件のひとつやふたつに巻き込まれたところでなんの不思議も……。
「きり、ねえちゃん?」
再び空中の一点を見つめて動かなくなってしまった私を、幾名ちゃんは呼ぶ。
私はハッとして彼女の顔を見た。見れば見るほど、父に似ているような、そうでもないような……。
いや、それより私は一体なにを考えていた?
私は一体、なんて恐ろしいことを考えていた?
こんな汚いことを思いつくあたり、私はどうしようもなく最低な父親から血を分けられた子どもなんだということをイヤでも感じ取ってしまう。
ダメだ。
やめよう、そんな考えは。
父と同じような汚い思考を持ててうれしいだなんて考えるな。汚らわしい。
負の部分を受け継いでどうする、私!
父の良いところはよくよく眼を凝らさないと見えないけれど、幼い実の娘の頭を撫でるくらいのやさしさはあるのだ。実の娘を愛でる気持ちなんて当たり前だと言うような人間の言うことは、私は聞かない。ほんのヒトカケラの愛情をかき集めないと立っていられない人間がこの世に存在するなんて、きっとその人達は思いもしないだろうから。
「いく、な、ちゃん」
ズキズキと頭痛のする頭を軽く押さえながら、私は幾名ちゃんに言う。
「お父さんに、会いたい?」
「うん!」
「普段は、会えないから?」
「ううん。まだ会ったことがないから」
「え?」
「あたしには、ずっとママしかいないんだと思ってた。でもほんとはパパもいるってママが教えてくれてね、だから」
会いに来たの!と幾名ちゃんは笑う。その表情が、あまりにも無邪気で。私は可愛い、と思うのと同時にかわいそうに、と思ってしまった。
でも、かわいそうなのはどっちなんだろう。
「あたしもね」
この子を連れていけば、父はこの子を取るかもしれない。
どこからきたの?と聞けば上空を指さすあたり飛行機に乗らないと行けない距離なんだろう。そんな遠くに、父が行くことになるかもしれないなんて。
私と母は、どうなるんだろう。
「きりねえちゃんみたいな写真がほしいの!」
私の自分本位な悩みとは裏腹に、邪気のない声で幾名ちゃんは言う。
私みたいな写真、とはおそらく桜の前で撮った家族写真のことだ。
そうだね、確かに、そりゃあ欲しいだろう。でもその家族写真に重複して存在することになる男についてはどう説明をするつもりなんだろう。いや、こんな小さな子には分からないか。
「そう、だね」
説明なんて、できやしないのだ。
きっと当人同士でも説明なんてできないだろう。愛だの恋だのはそういうものだというくだらない言い訳で、いつも私たち子どもを振り回す。私はもう何度も振り回されて疲れ切っているけれど、この子はまだ何も知らない。
いつか知ることになるとしても、私のクチからは言いたくない。
ずるいのかも、しれない。
時間が経つごとにこの子の傷は深くなるだろう。それを私は知っているのにわざと放っておいて、深く傷つけば良いとさえ思っているのだから。
だけどそれぐらい、思ってもいいんじゃないのかな。
私はこれまで父のことでたくさん傷ついた。この子だって、傷ついてもいいはずだ。
私ばっかり誰にでも気を使うなんて、そんなのはおかしい。
だからわざと無責任に、やさしい声で言う。
「撮れたら、いいね」
私の歪んだやさしさを外見のまま受け取った幾名ちゃんは、うれしそうに頷いた。
「その時は、きりねえちゃんも一緒に写ってね」
「え?」
「だって、きりねえちゃんはあたしのお姉ちゃんでしょ?」
「そういうことに……なるのかな」
「じゃあ、ママと、あたしと、パパと、そんできりおねえちゃんとが、新しい家族だね!」
幾名ちゃんと、顔も知らない幾名ちゃんのお母さんと、私の父と、私が……家族?
いや、いや。
いやいや、いやいやいや!
それはおかしいだろう。
その家族像は非常におかしい。
だって、母は?
私の母は一体どうなるの?
煙のように消えてしまったの?
私が今日まで必死で機嫌をとって尽くしてきた愛すべき母は、この子のなかで息さえしていない。
私はその事実を理解したとたん、唐突に吐き気を催してしまった。
「うえっ……」
「どしたの?」
幾名ちゃんが『きりねえちゃん』と呼びかけるよりも早く、私はこれまで自分自身にタブーとしていたことをしてしまった。
自分より小さい女の子を、力の限り突き飛ばす。
「きゃっ」
年頃の女の子らしい叫び声をあげて彼女は倒れ込む。
私はその姿を横目でチラリと確認してその場から逃げ出した。
「えっ? どうして? 待ってよぉ!」
そんな声と、あの子の鳴き声が後ろから聞こえたけれど聞こえなかったふりをする。
無視だ、無視。
私の母をまるでいないもののように扱うあの子のことなんて、無視だ。
もう知らない。優しくして損をした。
もう知らない。お世話をして損をした。あんな子なんて、あんな子なんて……。
「はぁっ、はあ……」
大げさに息を切らしながら歩いて五分の自宅へ急ぐ。
ほんとは、あの子が悪意をもって私の母の存在を外したわけじゃないということぐらいはわかっている。そんな嫌がらせやイヤミが言える年齢じゃない。
それに私のことはなぜか家族認定していた。
きっと、あの子の母親がそういうふうに教え込んでいるんだろう。
きっと、あの子の母親が私の母の存在を消してしまったんだろう。
お前なんかいらないと、お前なんか死んでしまえと、裏表なく真実にそう願って、自分の子どもにそう教え込んだ。
その事実が、とても気持ち悪い。
自分の学校生活の充実を捨ててまで母に尽くしているのに、それほど私は母のことが大事なのに。守りたいのに。
あんなに簡単に、他人に存在を消されてしまうんだ。
「もう……意味わかんない」
やっと自宅の玄関にたどり着く。中古だけど、一軒家だ。私が小学校に入る時に合わせて引っ越した、思い出のある家。
そんなに長い距離でもないのに切れてしまった息を整えると、少しだけ自分が涙ぐんでいることに気が付いた。汗を拭うふりをして涙もこっそり処理をする。誰に見られているわけでもないのだからそんな小芝居を打たなくてもいいのだけれど、長年染みついた癖はなかなか変えられない。
「よし」
ひとつ、深呼吸をしてドアノブを握る。軽い手応え。できる限り明るい声を出す。たとえば、友達もたくさんいて部活に打ち込む健全な中学生みたいな。
「ただいま」
すんなりと開いた玄関には、見慣れぬ靴があった。真っ黒なヒールの低い靴。母はパステルカラーを好むから、こんな黒い靴なんて履くわけがない。ヒールがあるから、もちろん父のものでもない。
お客さんが来るなんて聞いていないんだけどな、と思いつつも靴を脱いで家に上がる。
足音を忍ばせて廊下を歩くと、リビングで話し声がしている。母の体調はいまそんなによくないはずだけど、客人の相手ぐらいはできるのだろうか。
そっと扉を開けて中をのぞくと、そこには見慣れた母の後ろ姿と黒いスーツ姿の女性がいた。
「なんだろう、保険の勧誘かな」
だとしたら玄関先で追い払うはずなのに、この状況はおかしい。
母の友人、という線もあるけれど残念ながら平日に訪ねてくるような友人は母もいなかったはずだ。それどころか、私は『母の友人』という存在を見たことがない。でも、それでいい。むしろそれがいいと思っている。母は母でさえ居てくれればいいのだから。母が友達の多い人だったらきっと私の傍にいる時間も減っただろう。それは、イヤだ。依存しているだろうか。でもこれは私がこの家で生きていくための依存なのだから、それぐらいは世間様からも許されると思う。誰にも迷惑をかけているわけでは、ないのだから。
そもそも、母が友人の多い社交的な人物だったら父の不貞や不義にこんなにもため込んで思い悩むこともなかっただろうから、根本からこの仮定はおかしいのだけど。
「どうしよう、挨拶するべきかな」
理想的な娘としてはここで礼儀正しく『こんにちは、ごゆっくり』と言うべきなんだろうけど、さっき玄関で発した『ただいま』の声を無視されたことを考えるとこれはこっそり前を通り過ぎて自室に引っ込んだ方がいいかもしれない。
うん、そうしよう。
今日は色々あって、疲れてしまった。幾名ちゃんは結局なんだったんだろう。
写真の真実を聞くのが怖くて、確認しないまま立ち去ってしまったけどあの子は本当に父の子どもなんだろうか。もしかしたら、なにか事情があってたまたま持っていただけかもしれない。でも、そんな都合の良い『事情』が、どれだけ頭を捻って考えてみても思いつかない。
ため息を押し殺しながらゆっくりと扉を閉める。
誰だか知らないけど、さっさと帰ってくれたらいいのになぁ、と思って踵を返した時だった。
「私たちは泥棒じゃありません!」
母の声だった。
『どろぼう』
今日はやけに、その単語を耳にする。
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