第五話 よあそびのその

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第五話 よあそびのその

「なんなんですか、アナタ! いきなり押し掛けてきて」 「ですから、先ほど申し上げました通りです」  肩からかけた重たいスクールバックをそっとその場に置いて、私はいつリビングに乗り込もうかとハラハラしていた。母はいま、まともな精神状態じゃない。  ……母がまともな精神状態であったことなんてここ数年ないけれど。長く不安定な状態が続くと、そっちの方がまともに思えてしまうから不思議だ。むしろ私は、安定した状態の母を思い出すことが難しい。でも目の前の母こそが私の愛すべき母親なのだから、私は彼女を守らなければ。  さっきよりも大きく扉を開けて中を見ると、怒りのあまり椅子から立ち上がった母と冷静に座り続けるスーツの女性が見えた。  ああ、これはダメな構図だ。  冷静な方と感情的な方。  もちろん勝つのは冷静な方。だから私はいつだって冷静であろうとしているし、身近に薬缶頭が多いから反面教師としている部分もある。  母はいつも着ている毛玉だらけのくすんだカーディガンではなくてかっちりしたジャケットを来ている。チャイムの音に反応して上着だけでもあわてて着替えたのだろう。後ろの襟が少しだけめくれている。まぁ母の姿はいつも見ているからいいとして、今の問題は座っている女性だ。  年齢は二十代半ばぐらい。肩までの髪を嫌みったらしくすべてひっつめていて、バレエの選手みたいだ、と思った。露わになっているおでこがなんとなくさっきの女の子を思い出させる。節目がちだけど、母に対して全く物怖じしていない。背筋をピンと伸ばして浅く椅子に腰掛けている。  傍目に見ても、いや、傍目に見るからこそ母の負けは明らかだった。  このままだときっと母はどんどんヒートアップしてその結果うまいこと言いくるめられてしまうのだろう。いつものパターンだ。  そしてそれを私がうまいこと慰める、というワケ。 「返していただきにまいりました」  「返すって、返すって……どういうことですか!?」 「先ほど申しました通りです」 「理解できないわっ!」 「では、もう一度申します」  淡々とそう述べる女性にはまるで焦りが感じられない。わかりやすく取り乱している母とは大違いだ。 「正苗(まさなえ)さんを、返してください」 「あの人はウチの人ですよ!」 「ええ、今は縁野さまの人です。けれど以前は、私のものだったんです」 「なっ……」 「事情があって一時的に縁野さまにお貸ししていた、と思っていただければ」 「思っていただければ、ってそんなこと……っ思えるわけがないじゃない!」 「でも、事実ですから」  伏せていた顔を上げてにっこりと女性は微笑む。 「認めていただかないといけません」 「なっ……なっ、なん……」  ああ、もうダメだな。私がなんとかしないと。 「あのぅ」  最初の登場はできる限り無知を装って。 「お客さんですか?」  普通、こういう場面に私みたいな子どもが出てくれば親は『いいからあっちに行ってなさい!』と苛立ち混じりに追い返すだろう。テレビドラマで勉強した。でも、ウチは普通とは違うから。 「はじめまして、縁野正苗の娘で縁野喜理と申します」  こうしてにっこり笑えば、次に来るのは。 「喜理! 今までどこに行っていたの!」 「学校だよ、お母さん」  人目があるというのに私を抱きしめる母。この帰宅後の行動は頭を撫でるだったり完全に無視をするだったり目線をくれるだけだったりと、その日の機嫌によって様々だ。だけど今日は彼女に見せつける意味もあると思う。中学生の自分の娘にすがりつくような勢いで抱きつく姿を見て少しひいているのが分かる。きっと彼女も、娘の登場に母は面倒くさそうな態度をとると想像していたんだろう。「あっちに行ってなさい」とか、「後で話すから」とか。それが予想を裏切ってこんな有様のだから。 「遅かったじゃない!」 「ごめんなさい、ちょっと友達と話してて」 「次は早く帰ってきなさいね」  同じくクチで二度と帰ってくるな、ということもある癖に。  そう頭では分かっていても、私を求める母の言葉はどんなお菓子よりも甘い。この生活を失いたくない。どんな事情があるか知らないけれど、あんな父でも私の父だ。見ず知らずの目の前のオンナに奪われてたまるか。 「母の、お友達ですか?」  そんな想いで、母をやさしく引き離して女性と正面から対峙する。 「それとも、父のお友達ですか?」  馬鹿丁寧に小首を傾げて見せると、女性はやっとクチを開いた。 「喜理ちゃん、はじめまして」  はて子どもにこんな話を聞かせてもいいのかしら、とでも言いたげに彼女は母を見るが、母は『当たり前』にそんな事に気が付かない。まあ当然だろう。ウチにとっては。 「私は阿知良菜々子(あちら・ななこ)です」  そう言って、彼女はやっと立ち上がった。大人にしては小柄らしく、中学生の私と背丈はそう変わらない。  ……アレ。  あちら、ななこ?  今日、どこかで聞いたような気がする。フルネームで聞いたわけではないけれど、断片的に。まるでパズルのピースのような。なんだろう、うまく噛み合わない。  ピンポーン。  ここで、チャイムの音。  取り込み中なのに一体誰だろう、こんな時に新聞の勧誘とかだったらどうしてくれようかと思いながら母の腕をくぐり抜けてインターホンを見る。  でも、そこには誰もいなかった。  こんな時にイタズラなんて、このあたりの治安はどうなっているのだろう。そんな的外れな八つ当たりをこっそり心の中でして、私は二人の女性に向き直る。  片方は、見慣れた母。だけど今は頭に血が上っているらしく正常な状態とは言えないけれど、まぁ私にとってはそれも見慣れた母だ。  もう片方は、見知らぬ女性。黒いスーツを着ていて小柄で可愛らしい。歳だって、きっとまだ二十代だろう。ただ気になるのは、スカートから伸びる黒いストッキングに包まれた脚が毛玉だらけだということ。イヤミなぐらい一本残らず髪の毛をまとめる時の神経質さとは正反対のだらしなさだと思った。でもきっと、そのアンバランスさが今のこの、奇妙な状況をつくりだしているんだろう。まともなバランス感覚を持った人なら、きっとこんな事態にはなっていないはず。  さて一体どうやってこの、ややこしい女性に帰ってもらおうか。まずは事実関係の確認だ。 「阿知良さんは、今日はどちらから来られたんですか?」 「飛行機に乗って、来ました」  まただ。  この、噛み合わない感じ。さっきの幾名ちゃんとの会話の焼き直しだ。ぐるぐると同じところをまわって、まるで進展がない。母は私が来たことにより少し平静を取り戻しているけれど、まだ動揺が続いているらしく椅子に深く腰掛けたままぼんやりしている。私と、阿知良さんとが立ったまま話しているというこの現状。非常に気まずい。  阿知良さんはさっきからしきりにチラチラと母の方を見ている。きっと、さっさと私をどこかに遠ざけて欲しいんだろう。そりゃ、普通の母親ならそうするだろう。親同士のゴタゴタなんて醜くて汚いこと、できるだけ子どもには触れさせたくないんじゃないかと思う。小学校の時の道徳の時間で、そう教わったような気がする。『阿知良さんと大事な話があるから、アンタはちょっと外に出ていなさい『ぐらいのことを母が今にもいうんじゃないかと期待しているんだろう。この、目の前のオンナは。その証拠に、私と向き合っているというのに彼女はまるで私の眼を見ていない。あっそう、そういうことをするのね。自分は不意打ちで本妻の家に押し掛けておいて、いざ自分が不意打ちされたら現実に目を向けようともしないんだ、ふーん。母を傷つけたという一点でもうすでに大分嫌いになっていた彼女のことをさらに嫌いになりそうだった。とりあえず、こちらに眼を向けさせよう。 「阿知良さん」 「なぁに?」 「さっきもお聞きしたんですが、阿知良さんは母のお友達ですか?それとも父の?」 「どちらかと言うと、お父さんですね」 「お友達ですか?」 「お友達よりもっと、仲が良いんです。きっと喜理ちゃんよりも、喜理ちゃんのお母さんよりも」 「そうですか。今まで、父から阿知良さんの名前なんて聞いたことがありませんでした」 「えっ」 「そんなに仲が良いんでしたら、きっと何度も父のクチから名前が出ていたはずですよね。すいません、私、物覚えが悪くって」 「……」 「父は昔から、仲の良い女性の友人がとても多いので」  別に父は特別なイケメンというわけではない。その子どもの私を見れば分かる話だ。どこにでもいる、普通の中年男性。それも、くたびれかけ。でもそういう『どこにでもいそう』な感じを『手が届きそう』と変換してくれちゃう女性も一定数いるらしい。そして、父はそういう変換をしてくれる女性を嗅ぎ分けるのが異常に上手い。好みのタイプは?と聞かれれば父は『自分を好きになってくれる人』と答えるのだから、きっとこれまでもこれからも彼の人生は色恋にまみれていくんだろう。是非ともそういう男性は家庭を持たないでほしい。これは、そんな男の家庭に生まれて遺伝子を分け合った私だから言えることだと思う。 「今までも何回かこうやって、父の留守中に母を訪ねてくる方がいたんです」  まだ中学生の私が理解できないこと。  どうして、不倫をする女性は相手の男性を通り越してソイツが選んだ妻に怒りの矛先を向けるんだろう。出会う順番が違ったら自分が本妻?ばかばかしい。これは不倫をする男性にも言えることだけど、自分が選んだ相手が悪いとは思えないからだろうか。私にはきっと一生、理解できない。もしそういう機会になっても、結婚しているのにも関わらず誘いをかけてくる男性を最大級の軽蔑の眼で見つめるだけだろう。 「そういう時、私たちはいつも言うんです」  私は食卓の脇に寄せられていたイチゴの形をした箱を取り出す。これはもう何年も前に、なにかの気まぐれで父が買ってきたおみやげだった。中身は確かクッキーだったように思う。よくある大量生産の市販品で、美味くもまずくもなかったけれど、パッケージが可愛かったからなんとなく捨てきれずにいた。  それが今では、こんなことに使われているなんて。 「阿知良さんは」  私は蓋を開けるとテーブルに中身をぶちまけた。  そこに広がるのは、ピンクを基調とした色とりどりの名刺の山。キャットウォーク・まばたき・愛姫クラブ・まりえピンク・ふくらみマニア・スイートフォン、等々。私はよく違いが分からないけれど、きっと細かい違いがあるんだろう。母曰く『夜の仕事』をしている人が所属している店の名前と、その下に明らかな偽名。みるくぷりん・うさぎちゃん・くるみぽん・えめらるど・純じゅん・くりおね、あとは読めなかったり、意味が分からないものだったり。 「ココではどんな、名前だったんですか?」  にっこり、笑って。  正直ここまでのことを初対面の女性にするのはかなり緊張する。今だって、脇からはイヤな汗をかいているし膝だって笑っているのだ。規定の丈で止めている長いスカートのおかげで目立っていないだけ。それでも、私は目の前のオンナに立ち向かう。我が儘を言えるのならば、もう涙を浮かべて母の後ろにでも隠れてしまいたいのだけど、それはしない。だって私がそれをしてしまうと父がいなくなってしまうかもしれないから。  父の不貞の証拠を集めて詰め込んだイチゴ型の箱。あれを捨てられないのは、形が可愛いからだということに私と母の間でなっているけれど、本当は違う。  私も母も、父のきまぐれで私たちに与えられた可愛らしいプレゼントに縋っているのだ。たとえ空き箱になっても。たとえ私たちを愛していないという証拠を、詰め込むことになっても。  こんなに好きで好きでたまらなくて、嫌いになることもできない女性がここに二人もいるのに。  父よ、アナタは一体誰に好かれれば気が済むのか、なんて。  一生かかっても聞けそうにないことを考える。 「教えていただけますか? 私たちの方から、父に伝えておきますので」  名刺の量に驚いた様子の阿知良さんの次の動きを待っていると、またチャイムの音がした。どうせまたイタズラだろうと思って横目でインターホンを見ると、やっぱり誰の姿もなかった。少し溜息をついてまた名刺を見つめる彼女へ意識を戻す。  すると、ガチャガチャと激しいドアノブの音。  まるでおもちゃにするように無茶苦茶に回している。 「あらあら、どうしたのかしら。喜理ちゃん、見てきてくれないかしら」  この状況で?と思ったけれど『阿知良さんはゆっくり見ててください』と言っておとなしく母の言うことを聞くことにした。  玄関へと向かう。  もうこれ以上、ややこしい存在が増えませんようにと祈りながら。
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