9人が本棚に入れています
本棚に追加
第七話 これからのあそび
母の鏡の前で、ぼさぼさになってしまった髪をほどく。
髪ゴムによる封印から解放された私の髪の毛が、好き勝手な方向へと飛び散っている。本当、量も多いしまとまらないしで厄介な髪の毛だと思う。いっそ切ってしまおうかとも思うけれど、今の私にそれはできない。
なぜなら、いつ母が気まぐれを起こして私の髪を結ってくれるか分からないから。
私は母に髪を触って貰うことが好きだ。
私自身の言うことは全くもって聞いてはくれないのに、母の指先の言うことならすんなりと聞き入れる。それがまるで魔法みたいに優しくて、私はとても気に入っている。
だから、母が『髪を結いたい』と思ったときに結えるぶんの髪がないと困るのだ。そんなこと考えながら私は髪ゴムを使って簡単なハーフアップに纏めた。私が出来るのはあとポニーテイルと三つ編みぐらいだ。人を待たせている今、三つ編みをしている余裕はない。かといってポニーテイルをするためには整髪料が必須だ。だから一番お手軽でそれらしく見える髪型に変えて、寝室の扉を閉めた。
「おやすみ、お母さん」
トントン、と一段ずつ確かめるように階段を降りて階下へと向かう。ちょっと躊躇ってから扉を開けると、幾名ちゃんとお母さんとが並んで椅子に座っていた。
さっき私がぶちまけたピンク系統の名刺も全部きちんといちご型の箱の中にしまわれて、まるで自分たちはそれらとは無関係です、とでも言いたげだった。
一緒だよ、と言う代わりに口先だけで「ありがとうございます」と言う。
「喜理ちゃん、お母さんの具合大丈夫でしたか?」
「ええ、まぁ」
「え? お母さんって? きりねえちゃんのお母さんって、ママのことでしょ?」
また無邪気な声で人の神経を逆なでするようなことを言う子どもだ。
「違うわよ。幾名ちゃん。私のお母さんと幾名ちゃんのお母さんは違う人なの」
「へんなの」
そうだね、私もそう思う。
「お茶でも出しますね」
「ええ、お願いします」
お構いなく、と返ってくるかと思ったらこれだ。社交辞令で言ったつもりなのに、私は渋々台所に引っ込んだ。お湯を薬缶に入れて火にかける。その間に青い急須に茶葉を入れて湯飲みの準備をする。
「幾名ちゃんは、ジュースがいい?」
「うん! あたしオレンジジュースがすき!」
「そう」
冷蔵庫にあった明日の朝食用のパックジュースを開けて、中身をコップに注ぐ。余りは冷蔵庫に戻した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、きりねえちゃん!」
ことあるごとに私に『姉』であることを印象付けたいのかそういう躾なのか、幾名ちゃんは毎回わざとらしいまでに『ねえちゃん』を強調する。
「阿知良さんはもう少し待ってて下さいね」
「急がなくてもいいですよ」
別に急いでいるわけじゃない。ただ、アンタらに早く帰って欲しいだけだ、という言葉をお腹の中で叩きつける。お湯はあともう少し時間がかかりそうだったけれど、あまり熱湯にしてしまっても今度は出すまでに時間がかかってしまうから、私は適当な所で火を止めてお湯を注いだ。少し待ってから、阿知良さんに湯飲みを持って行く。
「どうぞ」
「ありがとう。喜理ちゃんは気が利くのね」
「母に躾られましたから」
私個人へのお世辞を母へと結びつけたくてそんなことを言ったけれど、阿知良さんは完全に無視して湯飲みにクチをつけた。
「おいしい」
「よかったです」
これで三人が席に着いた。ところで、と話を切り出す。
「どうして、幾名ちゃんにあんなことを言ったんですか?」
「あんなこと、って?」
「だから」
「あっあのね、ママ! あたし迷子になっちゃんだけど、きりねえちゃんに道を教えてもらったの!」
「そう、よかったわね」
「いや」
道案内をした覚えはないんだけど。と、いうか話の腰を折らないでほしい。
「きりねえちゃんとは、もうなかよしなんだよ!」
「ありがとう、喜理ちゃん」
二人して笑顔でこちらを見ている。
なんだろう。
この親子の人の話を聞かない姿勢はあまりにも強すぎる。自分のペースで話さないと死んでしまう病でも煩っているんだろうか。
「だからきりねえちゃんとは、かぞくだよね!」
「そうなれたら、いいわねぇ」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
だから、と必死で流れを変えようとしたところで私はあることに気が付いた。
さっきから、阿知良さんは私を見ているのに幾名ちゃんは私を見ていない。ずっと、お母さんの方ばかり見ている。子どもが母親の方ばかり見るのは当たり前のことなのかもしれないけど、その視線がなんだか異常な熱を帯びていた。「こっちみて!」「ほめてほめて!」というものすごいオーラを出しているのに、その受け取り先である阿知良さんは全くの知らんぷり。さっき、あんなに強く娘を抱きしめていた人と同一人物であるとは信じられないほどだった。
あれ、これはもしかして。
幾名ちゃんも、私と同じなんじゃないだろうか。
阿知良さんも、母と同じなんじゃないだろうか。
母親に嫌われないようにするために、何が何でも好きでいて欲しくて求められることはなんでもやる。例えばそれは家事だったり、父親の代わりだったり母親の代わりだったり、または夫をつなぎ止めるための手段だったり。それを厭わない子ども。むしろそうであることを望む子ども。
自分の気分や感情が全てで、子どもが産まれてもそれを変えようともしないオンナ。気分の赴くままに子どもを愛し、慈しみ、そして無視する。そんな、気が付きたくない共通点に気が付いてしまった。こんなのは、私の家だけの特別なことだと今まで思っていたけど案外どこにでもあることなのかもしれない。だからといって、二人の存在をはいそうですかと認めて父を差し出すことなんてできないけど。
「どうして……どうして私のことを姉だって幾名ちゃんに言ったんですか?」
「それは、本当のことですから」
「ほんとうのことですから」
お母さんの口調を真似るように幾名ちゃんが言う。
「腹違いの姉、という意味ですか?」
「はらちがい?」
「いいのよ、幾名は気にしなくて。ちょっと黙っててね。そうね、喜理ちゃん。そういうことになりますね。腹違いなんて、難しい言葉を知っているんですね」
「そうですか? 父みたいな男性を親に持つと、そういった単語を聞くことも多いもので」
「喜理ちゃんは本当、しっかりしているんですね」
「しっかりというか、そうじゃないとやっていけないというか」
「家事もろくにしないお母さんの代わりにお家のこと全部しているんでしょう? 小さい頃から」
「え?」
「自分の娘がお手伝い程度に家事をするのは微笑ましいけど、家事の全てをてきぱきとこなされるのは家庭の歪さを見せつけられるようで気が重くなるんですって」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
「確かに正苗さんみたいな男性が父親だと、しっかりした性格になるしかなかったんでしょうね。でも、それって本当に喜理ちゃんが望んだことなんですか?」
「えっ」
「もしも、喜理ちゃんのお母さんがもっと強い人だったら。せめて、人並みに精神力のある人だったら、今だってこうやって喜理ちゃんひとりで私たち二人の対応をすることもなかったのかもしれませんね」
「なにを言って……」
それに、なにを知っていると言うんだろう。たかだが不倫相手の分際で、私の家のこれまでをしたり顔で話し出すなんて。苛々する。
苛々するけど、私は動けなかった。いつものように気の利いた反撃のひとつでもお見舞いしてやりたいところだけど、私がしたこといえば動揺したときの母と同じく座ったまま似たような台詞を何度も繰り返すだけ。
きっとそれが、図星だから。
本当のことを言われると、人は動けなくなる。歩くのに大切なアキレス腱を撃ち抜かれたような気分になる。
「正苗さんから、聞きました」
「父から?」
「喜理ちゃんはきっと、お母さんの自慢の娘なんだと思います。きっと喜理ちゃんもそうなりたくて、今まで頑張ってきたんですよね。その姿、正苗さんはずっと見ていましたよ。あの人、あんまりクチには出さないけどいつも貴女のことばかり、私には話すんです。あの子は良い子だ、って。自分たちが良い子であることを押しつけてしまったって。自分の失敗を見せつけられているようで、家に帰りにくいって」
「良い子……」
良い子でいたかった。良い子であるべきだと思っていた。良い子でありさえすればすべての事態は良い方向へ転がっていくと思っていたのに。それが、こんな形で裏目にでるなんて。
でも、じゃあ。
じゃあ父は一体どんな私だったら満足だったんだろう。今までこんなに自分を押しつぶして良い子で生きてきたのに、それが『見せつけられている』と思われるのならどんな私だったら負担にならなかったんだろう。よくあるグレた、非行少女にでもなったほうが父は安心したんだろうか。夜遊び常習、ミニスカ・茶髪でピアスをあけて十代で未婚の母にでもなった方が、父は喜んだんだろうか。
いいや、違う。きっとそうなったらなったで、父はアレコレ文句を言っただろう。そういう男なんだ、彼は。
「喜理ちゃんのおかげでこのお家はまわっていると言ってもいいぐらいですって。でも、喜理ちゃんは喜理ちゃんの人生がありますよね。本当は……お母さんのこと、嫌いなんじゃないですか?」
「は?」
阿知良さんは伏せていた眼を上げてものすごいドヤ顔でまるでトドメだ!とでも言わんばかりに的外れにもほどがある台詞を言い放った。
「私はあなたを、助けてあげたいんです。正苗さんから喜理ちゃんのことは聞いていて、あなたが良い子であるということは知っていましたから。このままこの家で、お母さんの代わりをすることなんてないんですよ」
「はぁ、まぁ、でも、私が好きでやっていることですし」
「そう、思いこんでいるだけですよね」
「ん?」
「きっとそうです。喜理ちゃん、あなたはもう自分では考えられないぐらいにお母さんに依存しているんです。あ、イゾンって言葉の意味、わかりますか?」
「はい、まぁ」
「それなら、話は早いですね。このままお母さんに依存しっぱなしじゃよくないですよ!はやく、お母さんから逃げましょう」
「逃げるって」
「もちろん、私のところですよ。もう幾名とは仲良くなったみたいですから、心配していた姉妹の仲もこれで大丈夫ですね」
阿知良さんはよかったー、と呑気に語尾を伸ばす。最初に一度口をつけたきり手つかずの湯飲みはもうすっかり湯気を失っていた。公園の水ではないオレンジジュースがお気に召したのか幾名ちゃんは早々に空になったコップの前で退屈そうにしている。母親の「黙ってろ」を忠実に守りながら。
「学校は転校してしまうことになりますけど、私たちが住んでいる地域の中学校にはもう話をしてありますから半端な時期の転校でも大丈夫です。このあたりみたいなマンモス校じゃなくて一学年一クラスぐらいですから、きっとすぐ仲良くなれると思います」
「ええ?」
「喜理ちゃんみたいな良い子は、もっと自由に生きるべきなんです。あんな母親とは一緒にいるべきじゃ」
ない、という言葉を聞きたく無かった私は、感情的になった方が負けだと分かってはいたけれども我慢できずにつ机を思いっきりバンと叩いた。幾名ちゃんの肩がビクリと跳ねたけれど、彼女は律儀に一言も発しなかった。
「やめて下さい!」
「どうしてですか?」
「わ、私の気持ちを無視して勝手なことばかり言わないで下さい!」
「でも、本当のことじゃないですか。喜理ちゃんはまだ中学生なのに、お家の用事をするために部活にも委員会にも塾にも通わずに学校が終わったらまっすぐ帰ってきて、はやりにも疎いからろくに友達もいないみたいだって」
友達がいない、という一言に思わず顔が赤くなる。確かにその通りだけれど、私自身はその件について納得済みのはずだった。同級生に話を合わせるほどの心の余裕が今の私には、ないのだ。だけどそれを他人にズバリと指摘されると案外心が疼く。まるで、悪いことをしているような気分になってしまう。
「正苗さんが、言っていました」
そしてさらに追い打ちをかけるように、阿知良さんは言う。
「喜理のこと、よろしくって」
最初のコメントを投稿しよう!