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第八話 あそびじゃないよ
父に取り入るために、外堀から埋めようとする女性はたくさんいた。
私へのお世辞や、母への見ていて不快になるほどの遜り。そういう経験をきっと、同年代の女子よりかは重ねているであろう私だけど、ここまでする女性はハジメテだった。
「ね? 喜理ちゃん。私、正苗さんから頼まれているの」
私と母とのある種の依存関係を調べ上げて、そこから『私を助ける』という建前で父との暮らしを手に入れようとするなんて。しかも、自分にはすでに父との間に隠し子がいてすくすく育っている。
ここまで、するなんて。
それほどまでに父と一緒に居たいのだろうか。そりゃあ確かに二度と見たくないと言うほどの醜さではないけれど、それでもやっぱり父は年相応のおじさんだ。何が彼女を、ここまでかき立てるのか。
「あのお母さんから、喜理ちゃんを自由にしてあげてって」
でもその策略に乗るわけにはいかない。まず第一にたとえ依存だ不健全な関係だと言われようが、それでも母を置いていくわけには行かない。血のつながりがあるぶん、まだ依存としてはまともなほうじゃないだろうか。血のつながりもないくせに他人に執着できる人間の気が知れない。
そして第二に、阿知良さんから出てくる言葉がやさしいのは今だけであると、私が知っているということ。今はまるで聖女の如き笑みを浮かべている阿知良さんだけど、裏では私のことを『どろぼう』だと娘に漏らしている。その証拠は、幾名ちゃんが教えてくれた。彼女の第一声があるから、私はまだどこか冷静でいられる。そう思うと、幾名ちゃんとの出会いはあのタイミングでよかったのかもしれない。
「……お気遣い、ありがとうございます」
口汚く罵りたい気持ちを、必死で押し殺す。ここで我を失ってしまうと、私の負けだ。大丈夫、こんなことぐらいじゃ私の執念は揺るがない。
「でも、阿知良さんにとって私は『どろぼう』なんですよね」
「え?」
「私のことを『どろぼう』だと、周りに言っているんでしょう?」
「な、なぁに、それ。一体誰から聞いたんですか?」
「幾名ちゃんです」
いきなり名前を出されたことで幾名ちゃんは驚いた様子だったけど、もっとびっくりしたのはお母さんに食いちぎらんばかりの勢いで睨まれたことだろう。
「ひっ」
「幾名!」
「怒らないであげて下さい。子どもは正直ですから。きっと幾名ちゃんには、悪気なんてなかったんです」
「ち、違うのよ。きっと何かの勘違いで」
「勘違いでも、他人のことを『どろぼう』と教えることはどうかと思います」
「う……」
「だから、私は思ってしまうんです。阿知良さんの申し出は有り難いのですがそれは一時的なやさしさではないのかと。時間がたてば、目的を果たせば。きっと阿知良さんは私を、父を貴女たちから奪った『どろぼう』の私を邪魔に思うんじゃないかと」
「そんなこと」
「ない、ですか? でも私がいまそう感じている以上、私は阿知良さんを信用できません。それに、私と母は依存関係であるとさっき言っていましたけれど、親子ならばそれぐらいは当たり前なんじゃないでしょうか」
当たり前、と言う言葉は敵に回すと厄介だけど味方につけるとこんなに便利な言葉はないと思う。
「逆に、全く依存関係のない親子もそれはそれで問題があると思います。そしてなにより、阿知良さんには依存に見えて不自然に感じるかもしれませんが私にとっては」
ここで、一呼吸置く。この分からず屋にはハッキリと言ったほうが良い。
「今の暮らしに、なんの不満もありません」
そりゃ、自分の時間が少しあればもっと本が読めるのに、と思うけれどもそれだけだ。私は彼女の言うように自分の学校生活を充実させるために母を置いていくなんていう選択肢はそもそも頭にないのだ。交渉の前提として、話をする前に彼女の負けは決まっているということは理解してもらえないのだろうか。
「そう、思いこもうとしているだけじゃないんですか?」
「ちょっと、しつこいです。ごめんなさい。そうですね、もしも阿知良さんが父を連れてきてくれたら、考えてもいいです」
「正苗さんを?」
「はい。父と阿知良さんの二人に説得されたら、特に父の口からさっきの阿知良さんの言葉を聞けたら、私は本気で考えてみてもいいと思います」
「正苗さんと、ですか」
立て板に水を流すような彼女の口調がやっと止まった。そりゃそうだろう、だって。
「まあ、父はもうここ二週間ほど帰宅していませんが」
未来の再婚相手候補なら、もちろん父の居場所を知っていますよね?と表情に書いて聞いてみる。すると案の定、阿知良さんの顔色が曇った。
「そうですね、じゃあ……正苗さんに……聞いています」
「阿知良さんは父の居場所、知っているんですか?」
「えっ! え、ええ……もちろん」
嘘だ。
本当に父の居場所を知っているのならばきっとこんな場所に来ない。『喜理ちゃんのため』という理由がそもそも嘘っぽい。捨てられ寸前の不倫オンナの最後の悪足掻き、といったところだろうか。くだらない。そんな目的で私たちの暮らしを乱さないでほしい。気まぐれで帰ってくる父を待つだけの、母と二人の暮らしを。
「じゃあ、父に伝えておいて下さい。私たちは、いつでも待っていますと」
あのエロ親父死んじまえ、と言えることができればどんなに良かっただろう。そんな恐ろしい台詞、私は心の中で思うだけで精一杯だ。
「いいんですか? 喜理ちゃんは、このままで」
「そうですね。少なくとも、私のことをどろぼう呼ばわりする他人より私に依存している身内と暮らすほうがまだ、マシでしょうから」
ちょっと言い過ぎかな?と思いつつも言ってしまった。幾名ちゃんもそうだけど、どうもこの阿知良家とは波長が合わない。割と他人と波長を合わせることのできる私でも、大量の違和感を抱えてしまっている。これは遠すぎて掴めないというよりも近すぎて見えないような、そんな感覚。
「ねえ、ママ、まだ?」
黙ってろ、の言いつけを守れるタイムリミットがきてしまったらしい幾名ちゃんがしびれを切らしたように母親を呼ぶ。阿知良さんはそれを制して話を続けようか、それともこのあたりで切り上げようか迷っているようだった。仕方がないから、背中を押してあげる。
「今日はこれ以上お話しても、私の気持ちは変わりません」
「そう言わずに……」
「自分の母親を貶されて喜ぶ子供が、どこにいますか? 阿知良さんは自分の母親を貶されて、うれしいですか? それこそ歪んだ親子関係だと、思いませんか?」
「……そうですね、わかりました」
やっと分かってくれたのか。
「終わったぁ?」
「ええ、今日は失礼しましょうね」
今日は、どころか永遠に失礼しておいてほしい。
「じゃあ、きりねえちゃんあそぼ!」
「ごめんね、今日はお母さんと帰ってね」
「そうよ、来なさい。幾名」
幾名ちゃんはいそいそと帰り支度をはじめた母親と、不機嫌な顔をしている私とを交互に見て、言った。
「どうして?」
「えっ」
この「えっ」は、私と阿知良さんとが同時だった。
「だって、ここがこれからのあたしの家なんでしょ?ママ、そう言ってたよね」
この家まで乗っ取るつもりだったのか。なんて恐ろしいオンナなんだ。私は目線で阿知良さんに「そっちから説明して下さいよ」という合図を送る。
「そうね、でも、今日は違うの」
「今日は違うの?」
「ええ」
「じゃあ、いつからなの?」
出た、子供特有の『何時何分何十秒』せびり。
「いつになるかは、分からないわ」
そうだ、もっと言ってやれ。
「えー。なんでなんで!」
「さぁ、どうしてかしらねえ」
「むー! じゃあ、きりねえちゃん知ってる?」
「私にも分からないなぁ」
幾名ちゃんはまだ納得がいかないらしくその場で地団駄を踏んでいたけれど、やがて諦めたのかお母さんの手を取った。
「きりねえちゃん、また遊ぼうね!」
私は玄関先でのそんな問いかけに、ただ曖昧に笑うだけだった。そんな未来は来て欲しくないと思いながらも、はっきりと断言する勇気がないばかりに。
「喜理ちゃん、ひとつだけ良いですか?」
一足先に家を出てしまった幾名ちゃんを特に呼び止めることもなく、阿知良さんが私に耳打ちした。
「この子……幾名は、あなたの妹なの。それだけは、信じてね」
「……それなら、阿知良さんは幾名ちゃんのために悪い関係をどうにかしてあげてください」
「えっ?」
「幾名ちゃんが言っていました。その、背が低くて小太りのおじさんがいつもお母さんを叩くんだって。幾名ちゃんは言わなかったんですけど、きっとあの態度だと幾名ちゃんも叩かれたりしているんじゃないかと思います」
おせっかいかもしれないけれど、あのときの怯え方は普通じゃなかった。
「父が、いるんでしょ? どうして別の男性と関係を持っているんですか」
「それって」
「勘違いはしないで下さいね。父を渡す気はありません。ただ、あの子の為にもちゃんとした男性を選んで欲しいだけです。それと迷子札には、ちゃんと住所も書いてあげて下さい」
「そう……ありがとう。また、来ますね」
もう来ないで欲しい。
そう伝わるように返事はしないまま、扉を閉めた。私はそのまま、その場にずるずるとへたり込む。
「はぁ……」
疲れた。
その一言に尽きる。
太股に直接触れる床の冷たさが心地よい。これがお話の世界なら、いま私が見つめているドアノブがガチャリと開いて、父が顔をのぞかせることだろう。でも、これは現実だから。
私は動くはずのないドアノブに向ける期待を、時計の秒針が進む音で長い時間をかけてなんとか切り刻んだ。
今日も、父は帰ってこない。
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