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第一話 どろぼうのこども
「どろぼう!」
三月の少し肌寒い夕暮れ時。
通い始めてそろそろ一年になろうかという地元の公立中学校からの帰り道、公園を横切った時に私は背後からそんな言葉をかけられた。
もちろん最初はそれが自分を指しているなんて思いもしないから、私はワザと遠くを見るようにして声の主を視界に入れることを避ける。
だって、他人のことを『泥棒』呼ばわりするなんて大体がまともな人間とは思えないし、声色がやけに幼いことも気になった。
どうせ公園で遊んでいるたくさんの子供の声の中のひとつに過ぎないだろう。
そんなことよりも今日の英語の宿題をどうしよう、いい加減電子辞書が欲しいなぁ……なんて関係のないことをつらつらと考えながら私は歩みを進める。
「どろぼう!」
もう一度、聞こえた。
今度は確信を持って子供の声だと分かった。
『泥棒』なんて、聞いていて気持ちのいいものじゃない。一体どんな悪ガキなんだろう、と好奇心をそそられた私はチラリと後ろを振り返った。
すると、タッタッタッという軽やかな足音と共に腰に衝撃。
「いっ!?」
「どろぼう!」
いや、別にそんなに痛くはないけれど。
不意打ちの衝撃のせいで情けない声が出てしまった。私にぶつかった子供には明らかに悪意があるように思える。友達と遊んでいて思わず、といった調子ではない。
短く眉の上で切り揃えられた前髪にショートカット。カタチの良いおでこが丸見えだ。服装も襟付きブラウスに半ズボンという出で立ちだから、男か女かも分からない。
「……だ、大丈夫?」
そんな台詞を言って欲しいのは私の方だったけれど、仕方がない。私は嫌々声をかけた。
小さい子供は、少し苦手だ。
私自身が一人っ子で近所付き合いもあまりなかった、というもっともらしい理由もあるけれどまあ実際は、純粋に嫌いなのだ。だって子供って自己中心的だし、どこに触れたのか分からない手でベタベタ触ってくるし、よだれとか鼻水とか汚いし……だから、そんな理由で出来るだけ避けたかったのに。
「えーっと」
どうやら私にぶつかった子供はその体勢のまま泣いているらしい。腰の辺りから小さい嗚咽が聞こえてくる。いかにしてこの面倒な状況から抜け出すか、私は必死で考えた。
まず思いつくのは、適当な言葉をかけて近くの交番にでも預けてしまえば良いということ。
或いは全部無かったことにして、私にすがりついて泣く子供を引きはがしてさっさと歩き出せば良いということ。
だけどそれをしないのは……。
「おかあさーん」
「おねえちゃん待ってー」
「きゃー、こっちだよ!」
そう、下校時間の公園は子供や母親たちで賑わっている。ちょっと待っていればこの子供の母親がすぐに『まぁウチの子がすいません』と駆け寄って来ると思ったのに、一向にその気配もない。私はきっと、周囲から見ればこの子の知り合いか姉にでも見えているんだろう。
「もう……」
面倒くさいなあ、という言葉をこっそり飲み込む。
なんだかんだ、私はこういう時他人を切り捨てることができない。
特に女子の世界ではいつも貧乏くじをひいてばかりいたし、どのクラスにも最低一人はいるはみ出しものの世話を任されるのはしょっちゅうだった。つまり私は二人組を作らなければいけない三人グループにおける余り物の一人であり、いわゆる『都合の』良い人というワケ。
それが嫌で、もうイヤでイヤで仕方がなかったから中学生になってからはできるだけ他人と距離を置いて『クールな』キャラを通していたというのに。根っこのところはそうそう変わらないらしい。
「ねえ、どうしたの」
ちょっと優しい声でそう聞くと、子供は少しだけ顔を上げる。よく見ると女の子らしい。年齢は五歳ぐらいに見えた。まあその頃の子供なんて、短髪ならばよっぽどの美男美女でなければ区別がつかないものだ。
「顔、あげてよ」
子供は言葉を多く持たないぶん、他人の顔色を伺う能力に長けている。私も今から五年前くらいは家が荒れていたこともあってそういうチカラが強かったように思うけれど、今はどうだろうか。最近は人との関わりを避けているからよくわからない。
中学生が大人と言えるかどうか分からないけれど、とりあえずもう子供ではないだろう。
「お名前、なんて言うの?」
子供でないなら、子供にはやさしくしないといけない。顔を上げた女の子の目に涙は浮かんでいなかった。
やはりというかなんというか、嘘泣きだったのだ。
嗚咽の演技だけうまい嘘泣き。
気にしてもらいたい時とかワガママを通したい時に、私もよくやった覚えがある。最初はうまくいくけれど、段々バレて相手にもされなくなってしまうけれど。
なんだか、この子供のことが他人事に思えなくなって来た。どういう事情で私を『泥棒』呼ばわりしたのかは分からないけれど、きっとなにか事情があるのだろう。
「……いくな」
「え?」
「あちら、いくな」
「も、もう一回言って?」
「あちら、いくな」
「どんな漢字……って言っても分かんないか」
「はい、コレ」
聞き慣れない名前に戸惑っていると、女の子は首から下げていた名札を服の中から取り出して見せてくれた。
迷子札、というのだろうか。
きっとこれまでも迷子になることが多かったのだろう。親の愛情を感じた。
【阿知良 幾名 (あちら いくな)】
なるほど、そういう漢字だったのか。
近頃は子供に難読漢字をつけるのが流行っているみたいだけど、この子はどうだろうか。読めないこともないけど……馴染みはないかな。あと、珍しい名字だと思う。
「か、かっこいい名字だね」
こんな子供にヘコヘコしたくないのに、変に気を使って引きつった笑みを浮かべる自分がイヤだ。
「阿知良は、いっぱいいるよ? あたしの近所だと」
どこの近所のことを言っているのだろう。
「幾名ちゃんは、どこから来たのかな」
よし、ようやく本題に入れた。これを聞きたかったのだ、私は。
所在さえ聞き出せれば後は交番に連れて行くだけ。迷子札には名前だけじゃなくて住所も書いておいて欲しかったなぁ、と思う。もしもこの子の親に会えたら、教えてあげよう。
「あっち」
そう言って、幾名ちゃんは上空を指差した。
「ん?」
「だから、あっち」
そんな、空からなんて。
ファンタジーじゃあるまいし。
「えっと、じゃあ、何に乗って来たのかな」
「ヒコーキ」
これは予想外だった。
いや、こんな小さな子供が飛行機に乗って家出、ということはまず有り得ないだろう。それなら、保護者か或いは同伴者がいるはず。
「誰と来たのかな」
「おかあさん」
「じゃ、おかあさんはどこにいるの?」
「ほてる」
「んーっと、じゃあ、そのホテルはどこなのかな?」
「あっち」
今度はちゃんと地上を指差してくれた幾名ちゃんの指先を辿ると、確かに『HOTEL』の文字が見えた。
「……え?」
でも、あそこって……。
「あっちからきたの」
住宅地にありながらもまるで遊園地のお城のような外観がアンバランスなホテル。
詳しいことは良く知らないけど、クラスメイトの話でどういうものなのかは知っている。アレだ。うっかり親に『あのホテルに行きたい』と言うと、とんでもなく気まずい雰囲気になるヤツ。
つまりはラブホテルだ。
小学校の時、早熟な男子に『ラブホテルって十回言って』と言われて律儀に十回言った後、どんな謎掛けをされるのかと身構えていたら『今、何回ラブホテルって言った?』ときたから『十回』と返して『えっ!お前十回もラブホ行ったことあんの?』という流れがあったなぁとしみじみ思い出す。当時はクラスの半分もその意味を理解していなかっただろうけど、何人かはその男子の大声に反応していた。懐かしい。
「おねえちゃん?」
おっと、思い出に浸っていたらぼーっとしてしまっていた。
幾名ちゃんは私のことをおねえちゃんと呼ぶ。
そこはさっきの『どろぼう』じゃないんだ。さっきはなんで『どろぼう』呼ばわりしたんだろう。聞いてしまおうかな。
「ねえ幾名ちゃん、さっきは……」
「おねえちゃんの名前、なんて言うの?」
遮られてしまった。
幾名ちゃんは子供らしく純真な瞳で私を見る。
「……縁野喜理(えんの・きり)だよ」
「きり、ねえちゃん」
「そう。それでね、幾名ちゃん……」
「よろしくね、きりねえちゃん!」
「うん……」
まあ、お母さんか警察に引き渡すまでの間だけだろうけど、とりあえず返事をしておく。
「それでね、幾名ちゃんさっき私のこと『どろぼう』って……言ってたよね」
「うん、言ったよ」
「それって……」
「だって、そうでしょ?」
「え?」
「おねえちゃんは……きりねえちゃんはどろぼうだって、お母さんが言ってたもん!」
そう言って、幾名ちゃんはなんの疑いもなく笑う。
それがどんなにおかしいことなのか知らないのだろう。
見ず知らずの人間を『どろぼう』と呼ぶことのおかしさを。
もしかしたら、私が知らないだけで私は本当にこの子から何かを奪ってしまったのかもしれない。だけど本当に心当たりがないのだから、私はただただ戸惑うしかなかった。
……この時、は。
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