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東京郊外にある住宅街の一角。
そこに、どこにでもあるような3人家族の姿があった。
「沙耶。ビール」
「はいはい。・・・一本だけにしときなさいよ」
・・・一言多いは女の性。
私は気に留めるわけでもなく、グラスに小麦色の揚水を傾け一杯やり始めた。
「あぁー!うまい!」
火照った体に冷たいビールが染みわたるのこの瞬間こそ至福と呼ぶに相応しい。
私は自分の口元に泡でできた口ひげが生えるいることに気にも止めず、冷えた枝豆を肴にぐいぐい杯を進めていくと、夕飯時のいい匂いにつられたのか、二階の自室から娘がパタパタと駆けつけてきた。
「あっ!パパ~!おかえりー!」
「ただいま!おおっーと!」
もうすぐ小学生に上がるというのに、娘はまだまだ甘えたがりだ。
私の帰りを聞きつけると、あいさつ代わりに抱きついてなかなか離さない。
同い年の子供を持つ職場の同僚の話では、既にキモイだのウザイだの言ってくるそうだが、わが子に限ってはそれはまだまだ先のことになりそうだ。
娘はテーブルに広げられた酒席に気付いたかと思えば「私がお酌してあげるね」とかわいく微笑んだ。
「おっとっとっと」
娘の小さな手ではビール瓶は重過ぎるらしい。
大きなビンを小脇に抱えて一生懸命にお酒を注ごうとする姿は、なんだか目尻を熱くする。
「よいしょ、よいしょ」と掛け声を入れながら注がれたビールは7:3の黄金比をはるかに下回る泡だらけのビールとなったが、私の味覚はそれをこの世のものとは思えぬほどの美酒として受け取ったらしい。
グビッと飲み干した後、「よくできました!」と乱雑に頭をなでてやると、娘は「えへへ」と得意顔だった。
『ほんとに・・・いい子に育ったものだ・・・』
私は細い眼をしてわが子の成長を顧みた。
わがままひとつ言わず、素直でいて、だれにも分け隔てなく優しい娘。
自分の娘という親バカフィルターを外しても、どこに出しても恥ずかしくない、まさに自慢の娘と言えるだろう。
私はふとカレンダーに目を止めた。
春の日差しが夏色に変化を始める5月の末、そこには赤丸で囲われた娘の誕生日がある。
「そういえば、来月には寧々の誕生日だね」
「うん!もうすぐ7歳!」
子供の成長は速い。
昔からよく聞く言葉だが、実際に体験してみるとその言葉の真意がよく分かる。
子供の成長を見るのは楽しいが、この子もいずれは誰かと添い遂げ、私の元からいなくなってしまうという事実が怖いのだ。
願わくば一生そのままで居てくれと神棚にでも額をこすりつけたいところだが、そんな邪な願いを神様が叶えるわけもない。
ともすれば、無邪気に自分の誕生日を楽しみにする娘の為にせめて盛大に祝ってやろうというのが親心というものだ。
「誕生日プレゼントは決まったかい?」
「・・・うん」
「おお!本当かい!?」
私は思わず感嘆の声を上げていた。
普段から親の懐事情を心配したりと子供らしからぬ一面を見せる娘のこと、誕生日プレゼントすら要らないと言い出しかねないと私は気が気でなかったのだ。
「なんだい?何が欲しいんだい?」
娘を膝の上に乗せ、改めて私が尋ねると、物をねだるという行為そのものに強い抵抗を受けるのか、
煮え切らずにもじもじとしている娘に『言ってごらん』と優しく声を掛けると、娘はおずおずと口を開いた。
「猫ちゃん・・・飼いたい・・・」
『あなたを選んだ理由』
隣でかわいい寝息を立てる娘に憂い気な表情を浮かべながら、私は項垂れた。
「はぁ・・・」
愛する娘のためなら何でもしてやれる自信が私にはある。
それでもこと動物に限ってはおいそれと首を縦に振ることはできなく、結局うやむやな返事をしてしまった。
脳内では何かを察した娘が言った健気な「うそだよーん」という言葉が何度もフラッシュバックする。
「よりにもよって猫か・・・」
動物の一匹や二匹、飼ってあげればいいじゃないか?
そんな風に物事を簡単にものを考えられたのはずいぶん昔の話だ。
森林伐採と大気汚染が繰り返された現代では、数多の動植物が絶滅の危機を迎え、今や動物を飼うという行為そのものに資格が必要となった。
それも競争率の高い犬猫にあっては司法試験よりも合格率が低いと比喩されるほどで、超が付くほど難しい筆記試験はもちろんのこと、いかに猫を飼いたいかをまとめたエッセーの執筆、猫語と言われる奇天烈言語の習得が必要となる。
「沙耶起きてるか?」
「ええ」
娘を起こさぬよう隣で寝ていた妻に声を掛けると、静かに返答があった。
「寧々の誕生日プレゼントだけど・・・」
「受けるんでしょう?試験・・・」
妻は時々エスパーになる。
私は自分の胸中を当てられたことで、開いた口が塞がらない。
「言わなくてもわかるわよ。あなたのことだもの。参考書と問題集なら三軒隣の山口さんが譲ってくれるそうよ、あそこの家はもうあきらめちゃったらしいわ」
昨日今日のことなのに根回しがいいのは、娘が天使に見えるのは私だけではないということだろう。
「助かるよ。ただ、寧々にはこのことは言わないでくれ。ダメでもともとなんだ、ガッカリさせたくない」
「そうね・・・」
明日から忙しくなりそうだ・・・。
心地よさそうにむにゃむにゃと寝ている娘の頬をなでながら、私は一大決心をしたのだった。
・・・
・・
・
「・・・わからん!!」
それから数日たった私の挑戦はすでに大きな岩礁に乗り上げていた。
「こんなの出題者の匙加減じゃないのか?」
問題集とにらめっこを続ける私の疑問ももっともだろう。
猫の種類や体の仕組みなど、とにかく覚えるだけの問題は間髪いれずに答えられるだけの知識は身につけたものの、実際に幾多の挑戦者を叩きのめしてきたとされる通称猫語とやらは、文法もなければルールもない。
ただただ「ニャーン」とか「ニャー」とか、いわるゆ猫っぽい言葉に「これ本当にあってるの?」と突っ込みたくなるような和訳が乗っている。
「『ニャーン、ニャニャニャー』の意味は『今日のごはんは何ですか?』です・・・」
いや、なぜそうなる??
何をどおしたら疑問文になるんだ?
というか、根本的にどこが『今日』で、どこが『ごはん』なんだ?
幾度と問題集を見直してみたが、解説らしい解説は得られない。
もちろん別の出版社から出ている問題集もいくつか試してみたが、すべて結果は同じだった。
「くそっ!とにかくできることをしよう。」
頭を抱えていても時間は待ってくれない。
私はとにかく問題集に向かうこと数日、ついにその日は来てしまった。
5月31日。そう。試験当日にして娘の誕生日である。
「とうとう。来てしまったか・・・」
試験会場はすでに多くの人だかりができており、私は掲示板を確かめて指示された空き教室へと訪れた。
そこから先はよくある奴だった。
席に着いた受験者に対して問題用紙と答案用紙が配られると、カセットテープを持参した試験官が口頭で注意事項を再確認する。
唯一違いがあるとすれば、教卓に居座るふてぶてしい一匹の猫。
品定めをするかのように受験生ひとしきり眺めた後、興味をなくしたかのようにあくび交じりに昼寝を始めた。
なぜこんな奴のために私は苦労をしているんだろう?
せめて犬にできないか娘に確認にしておけばよかったと、あきれ顔になったのも束の間。
チャイムを合図に試験官の「始め!」と声を張り上げたところで、私は一気に問題集に取り掛かった。
Q.現存する猫の種類はおよそ何種類?
A.40種
Q.1982年アメリカのオレゴン州で突然変異で生まれたとされるクルクルした巻き髪が特徴の猫の品種は?
A.ラパーマ
Q.猫の瞳は光受容器を通過した光を反射させ、再び光受容器に戻して、少ない光量を増幅させているが、これによって増加される明暗情報は何パーセント?
A.40パーセント
私はすらすらと鉛筆を進め、確かな手ごたえを感じていた。
おそらく自分の為であれば、筆記試験ですら挫折していただろうが、ほかならぬ愛する娘の為であれば、私はここまでできるらしい。
しかし、浮かれてばかりは居られない。
なぜなら、本当の難所はまだこの後だからだ・・・。
私が決意新たに解答用紙を裏返すと、頃合いを見た試験官が口を開いた。
「ここからはリスニング問題です。次の猫の鳴き声を聞いてその内容を和訳して記入しなさい」
試験官がカセットテープのスイッチを押すと、ニャーンニャーンと楽しそうな猫の鳴き声が聞こえてきた。
私は必死に耳をそばだてたが、やはり聞こえてくるのはニャーンという鳴き声だけで、どうあっても日本語には変換できない。
『ぐぅぅ。このままではぁぁ・・・』
猫語のリスニングテストは2回の傾聴が許される。
私は血走った眼をさらに見開き、全神経を集中させた。
ニャーンニャーン・・・
私の中の時が止まった。
何十、何百という積みあがったブロックが崩れ落ち、その向こうには涙を流す娘の姿。
私はがっくりと項垂れ、せめてもの手向けにブランクになった回答欄に娘への謝罪の言葉を書こうとすると、私の耳にはっきりと声が聞こえた。
『そこの答えは、さっさとエサを寄越せこのボケが!だ。』
え?
耳元でささやかれるかのような声に、私はあたりを見回して見てみたが、他の受験者たちは皆一様に頭を抱えながら問題に没頭している。
これはきっと現実を直視できない私の精神が生み出した幻聴なのだろう。
そう思って声の主のことなど忘れようとした時、私は誰かの視線を感じた。
私は結ばれた糸を手繰りよせるように、視線の先をたどって行くと、そこにはさっきまで教卓であくびをしていた猫が私をじっと見ているのだった。
私はごくりと唾を飲み込み、すべての回答をその声の主に託した。
・・・
・・
・
試験の結果は当日中に張り出され、結果を見て泣き崩れる多くの受験者を尻目に、私は途方に暮れていた。
『どうやって伝えればいいんだろう?』
私の頭にはそのことばかりが浮かんでは消え、ナビの指示に従って進んでいたはずのコンクリート道も、いつしか勝手知ったる我が家のすぐそばまで来ていた。
私は外から娘の部屋の様子を伺うと、そこはまだ煌々と明かりがともっており、父の帰りを待ち遠しくしている娘が易々と想像できた。
娘には受験のことは伝えてはいないかったが、あの子はとても賢い。
朝四時からリビングでカリカリメモを取る私を不信に思わないはずがないし、事実を知ったうえで親の意をくんで知らんぷりできる優しい子だ。
私は意を決したように玄関の扉を開けた。
「ただいま」
いつもならすぐさま駆け寄ってくるはずの娘が、今日に限ってはおずおずと様子を伺うようにリビングから顔を覗かせる。
私は心苦しさを覚えながらも、娘を手招きしてから抱き寄せた。
「寧々。ごめんな」
賢い娘はその言葉ですべてを察しようだった。
ヒックヒックと涙を流しながら、「んーん、ほんとは全然飼いたくないもん」と虚勢を張る。
この子は本当に優しい子だ。
私は改めてそれを実感した。
リビングで見ていた妻は優しい顔をしていた。
「疲れたでしょう?夕飯温めなおすわね」
「ああ。ありがとう」
私は娘の手を握ってダイニングルームへと連れて行くと、娘はそれをすり抜けパタパタと冷蔵庫からビールを持ってきた。
つくづくいい子だ。
私は胸の奥がチリチリと痛むのを感じた。
「そういえばケージは?」
「ああ。ごめん。車の中だ・・・」
「いいわ。私がとってくるからテーブルに付いてて」
妻は私からキーを受け取ると、駐車場へと向かったようだ。
私は頃合いを見計らった。
「寧々。もし猫を飼えたら何がしたかったんだい?」
「飼いたくないもん・・・」
「本当に・・・?」
娘は口をきゅっと結んだまま黙っていたが、並々注がれたビールが泡と共に零れ落ちるように、今までずっと我慢していた波が崩壊したのかぽつぽつとしゃべり始めた。
「エサをあげたり・・・」
「うん」
「ぎゅってしたり・・・」
「うん」
「あとね、あとお洋服も作ったの」
「猫のお洋服かい?」
「そう!」
娘はポケットから小さな布切れを取り出すと、開いて見せてくれた。
「ママがね。手伝ってくれたんだよ」
猫用にしては少し小さすぎるそれは、本物を見たことがない娘のイメージによって補われたものだ。
妻は車からゲージをとってきたようで、玄関からガチャリと音がしたところで、私は娘に言った。
「寧々。たぶんこれは小さすぎるかもしれないぞ」
「そうなの!?」
目を丸くする娘はまるで小動物のようだ。
私はリビングに戻ってきた妻に聞いてみた。
「どうかな?ママ?これ着させられそうかな?」
「さぁ?試してみないことにはわからないんじゃない?」
妻の腕には小さな子猫が抱かれている。
娘は突然素っ頓狂な声を上げ、私たち夫婦は声を揃えた。
「寧々。ハッピーバースデー!!」
私たちの声と共につられたように子猫は一声鳴き上げたのだった。
・・・
・・
・
我が家が4人家族となって暫くした頃。
猫に夢中で私の相手がおろそかになった娘に口をとがらせながら、私は時々考える。
あの声は一体何だったのか?
そして、なぜ私を選んでくれたのか?
でも、きっとそれは神のみぞ、いや、猫のみぞ知ることだろう。
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