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突然もたらした触れ合いに動揺するのも隠すように、じ、とあまりにこちらの反応を窺って一心に見つめてくるから最後は思わず破顔した。
「や、やっぱり笑う。」
「お前は接客、向いてるだろ。」
「…え?」
風呂に先に入ったのか、今朝方と違って下ろしたままの髪に指をゆっくり通すと、自分のいつもの香りをこの女から仄かに感じて、それにひどく満たされる。
「向いてるから変な大学教授に気に入られて、
熱烈なアプローチ受けてたんだろ。」
桔帆が可愛くて仕方ないと、飽きることなく俺に伝えてきていたあの男を思い出したら、どうしても厳しい表情なんか、つくれない。情けなく表情は緩む。
視線の先で、女が驚いたように目を見開いて、そこからまた頬に涙を滑らせるまでのどの瞬間も、目を離せなかった。
「…向いて、無かったから。
シノさん、私のこと見つけてくれたのかもしれない。」
「まあそれも一理ある。」
『…は?マホ、先生は?』
『なんか用事あるって。後は綾瀬に任せるって言って帰ったよ。』
『はあ?』
同居が始まるまでの間、あの人は時々、研究室を勝手に抜け出して(俺に雑務を押し付けて)居なくなることがあった。
多分きっと、この女に会いに行っていたんだろう。
「……私、いつも愛想は無いけど、」
「ほんとな。」
またぎゅう、と抱きついてくる女が鼻声で伝えてきた言葉にただ同意したら、理不尽にも背中を軽く叩かれた。
「でも、バイトしてなかったら、シノさんにも、綾瀬にも、会えてないから。
雇ってくれた仁美さんにも感謝しないとだし、
そういう出会いをこれからも大事にしたいと思って、」
「それ、城山さんに言った?」
「…言った、泣いてた。」
華奢な身体を強く抱き締めながら尋ねたら、想像通りの答えが返ってきて笑う。
「…久遠君にも言ってあげたら?って言われたけど、馬鹿にされると思ったし、」
「お前は俺をなんだと思ってんだよ。」
「……か、彼氏にそんなこと
改めて言うの恥ずかしかったから、」
「……」
まだまだ、こいつは俺を"彼氏"だと言うことにさえ慣れていないらしい。
そのなんともゆっくりな歩みを側で見守っていたい気持ちと、痺れを切らして強引に手を引いてしまいたい気持ちの狭間でいつも、揺れている。
『たとえば就職できなくても、春からここに来れば良いだろ。
お前1人増えるくらいなんでもないわ。』
こいつがあの言葉に隠した本音を、どこまで理解してんのか微妙だけど。
「お前を養うくらいの覚悟とっくにある」とかそういうことを告げるのは、まだ流石に早いと結論づけた。
「桔帆。」
「なに?」
「全然話ちげーけど、ビビンバも味薄く出来るのは、もはや感動した。」
「…健康思考だから。」
「物は言い様だな。」
笑いを隠すことなく素直に答えたら、また背中を殴られた。
「…でも全部、食べてあった。」
「先生が化けて出てきて、食ったんじゃね。」
「シノさんだと、全然ホラーに聞こえないよ。」
まあそれは確かに。
「何びっくりしてんの?」って戯けて話しかけてきそうだ。
俺の苦しい話の逸らし方に、ふと笑いながら「オバケでも良いから、会いたいなあ」とぽつり告げる声と細い肩が、少しだけ揺れていた。
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