プロローグ

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「―――桔帆(きほ)」 それでも、後ろから私を呼ぶこの声にどうしても立ち止まってしまう自分に気づいてやるせない気持ちになるのも、もういつものことだ。振り返ると、男はやはり怠そうに腕を組んで立ったまま、私を真っ直ぐに見つめている。 緩くパーマの当たった色素の薄い茶色の髪が、朝のなでやかな風に誘われてふわりと揺れる。私を簡単に見下ろせてしまう高身長に一重の切れ長の瞳、日本人離れしたような高い鼻。珍しくスーツ姿の男は、袖をまくったシャツをインしているからか、その腰の位置の高さまで際立っていてなんだか腹立たしい。この男が醸す雰囲気は、いつまで経ってもこの趣きのある、情緒無く伝えるのならば、古びた日本家屋には似合わない。 「……なに」 「俺今日、研究会の後に懇親会もあるから晩飯要らない」 「あ、そう」 「お前は?バイト後どーすんの」 「……りおの家に行く」 「あ、そう。ちゃんと親御さんに挨拶しろよ」 「そんなこと言われなくても分かってるし」 ふいとそっぽを向いての返事はあまりに可愛げが感じられ無くて、男からも「可愛くねえ」と同じ感想を漏らされ、苛立ちに後悔が混ざるのが分かって顔を顰めた。 「じゃあ俺出るから。ちゃんと鍵閉めろよ」 「分かってる」 「あ。コンロ使うなら絶対目離すなよ」 「分かってるってば!さっさと行きなよ」 「普通に見送りの言葉も言えねーんかお前は」 なんて煩い男なんだ。睨みを利かせあった後、くしゃくしゃと私の髪をぶっきら棒に乱した男は「夜、迎えに行くからちゃんとあいつの家に居ろよ」と念押しして私の横を通り過ぎていく。それからすぐに引き戸特有の滑らかではない開閉音がして、男が出て行ったことが分かる。 セットが乱れる、と別にまだ何もヘアスタイルの定まっていない筈の髪を整えながら、先ほど触れられた熱を無意識のうちに確かめてしまった。
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