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台所へ戻れば、2人用の小さなダイニングテーブルに水やりの前に並べた筈のカツ丼は無い。シンクへ視線を移すと、食器は全て洗われて水切りかごの中に几帳面に整列して並べられているのに気付く。
――なんだ。
「…全部、食べてるじゃん」
「だったら文句言うな」と思う一方で嬉しさや安堵からだらしなく顔が緩む私は、何なんだろう。
シンクについた片手でバランスを取りながら、つま先立ちの前傾姿勢のまま台所の窓を開ける。その刹那、直ぐに部屋へ入ってきた髪を撫でる柔い風はやはりまだ雨の匂いを多く含んでいた。どうしようもなく寂しくなって胸が締め付けられる理由は、本当は1つしか無いと分かっている。
『桔帆、行ってきます』
お日様のようなあの人は、きっと寂しい雨の痕跡もいとも容易く「晴れたねえ」って嬉しそうに笑って吹き飛ばしてくれた。
「……シノさん」
名前を音にするだけで、視界が滲んでくる仕組みは自分で作り上げた。慌てて瞬きを増やして、蛇口を捻って勢いよく流れる冷水を両方の手に浴びせる。こんな情けない顔をしていたら、あの男に揶揄われるに決まっている。そして、先程のように躊躇い無く私をあやすように触れるのだろう。
子供扱い、しないで欲しい。
ううん。
子供扱いでも、もう、構わない。
シノさん。ねえ、シノさん。
「私は、いつまで此処に、居てもいい?」
――あの男の傍に。
そんな呟きは、1人にはあまりにも広過ぎる空間で弱々しく響いて、吸い込まれるように消えていった。
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