キレイの秘訣は前世の記憶

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りん、と鈴の音が聞こえる。 朝の白い光の中で、鏡に笑いかけた。 タオル地のヘアバンドで髪を上げて、 まずは丁寧な洗顔から。 様々な形のボトルが並ぶ中から、1つを手に取る。 とろりとした液体を手に垂らし、 肌へと優しく塗り広げていく。 別のボトルも同じように繰り返し、 肌を瑞々しい膜が覆っていった。 やがて、いつものルーティーンを終えると、 珠のような肌をした頬を最後に一撫でする。 「うん、今日もバッチリ」 満足げに呟いて、それから化粧を重ねていく。 花のような、化粧品の少し粉っぽい匂いが好き。 綺麗に仕上がっていく、その姿を見るのも好き。 そして、今日も意気揚々と出かけたはずだったのに。 キキーーーッ!!! 悲鳴のようなブレーキの音と、 迫るトラックのクラクション。 こういう時って不思議だ。 世界がスローモーションのように見えるから。 あ、これ死んだ。 死ぬなら最後にもう一度だけ、 あの人に……会いたかったな…… ◆ ◆ ◆ 「ったく、危ねーだろ!」 身体を突き飛ばす衝撃から、一拍遅れて怒声が響く。 一瞬、自分が今どこにいるのか分からなかった。 先ほどまで見ていた光景は映画のようで、 それにしては、ひどくリアルだった。 トラックが突っ込んでくる様子なんか、特に…… 朧げな記憶を掻き消すように、 倒れ込む瞬間に擦れた膝がじくじくと痛む。 その痛みが、周りの喧噪を徐々に連れ戻した。 死んでない? 私、助かった? 頭が混乱して、そんなことも曖昧だ。 「あのトラックも、スピード出し過ぎだろ……  あんた大丈夫か?」 「膝、が……?」 混乱しすぎて、唯一痛みの実感がある膝のことしか、 口にできなかった。 「膝? あぁ、擦りむいたのか。  悪いな、咄嗟のことだったから」 「あ、いえ、ごめんなさい。動揺してて……」 彼が突き飛ばして、トラックから私を助けてくれた。 おかげで歩道に倒れ込み、こうしてまだ生きている。 それは、段々と分かってきた。 混乱しているのは、 無理に引きずりだされた“何かの記憶”のせいだ。 おもむろに顔を上げると、 目の前にはガラス張りの建物がある。 今、顔を上げてガラス越しに私と見つめ合う女の顔。 それは間違いなく自分のはずだ。 だけど、すぐには自分だと認識できなかった。 何この、ボサボサの髪…… 肌もニキビで荒れ放題のボロボロ…… メイクだって適当で…… こんなの私じゃない! だって、本当の私は珠のような肌に化粧して…… もっと自信に満ちた凛とした恰好をしていて…… 昔の自分を思い出そうとして、頭に痛みが走る。 周りの喧噪と重なるように、遠くで悲鳴がこだまする。 『血を流してる…』『もう助からない…』『可哀想に…』 そんな諦めと絶望が入り乱れた言葉たち。 思い出すのと同時に、すっと胸が冷える感覚があった。 この絶望は、いつかの、どこかの別の場所で、 私がトラックに轢かれた時の記憶。 その時きっと、私は死んでしまったのだ。 今生きている私の体の知識を借りれば、これは……―― “前世の記憶”というものなのかもしれない。 でも、まさかこんな…… こんな不細工に転生したのーーー!!!? 「急に顔捏ねだしてどうした……  って、本宮(もとみや)?」 心配そうに優しい気な視線を向けていた彼は、 切れ長の目を大きく見開いた。 改めて彼の顔を確認して、私もはっとする。 「高峰(たかみね)、先輩……?」 彼は会社の8個上の高峰先輩。 新入社員の研修の時にお世話になったけど、 今は部署が変わり、ほとんど顔を合わせなくなった人 ……のはずだ。 2人分の人生が、1つの体に同居しているような感覚。 おかげで、どちらの記憶なのかの整理が難しい。 パンクしそうになる頭を抱えていると、 彼は私の肩を抱えるように持ち上げた。 「そこのベンチまで歩けるか? ここじゃ目立つだろ」 「あ、ありがとうございます……」 高峰先輩に連れられるまま、ベンチへと腰かける。 社員証のタグを取り出すと、 彼はそこから茶色い絆創膏を1枚取り出した。 「準備いいですね」 「昔からケンカとかで生傷が耐えなくてな。  で、母親に持たされてた」 昔はヤンチャだったのだろうか。 いや、今もたまに目つきの怖い時がある。 「ずっと言いつけ守ってるなんて、律儀ですね」 「昔の話だよ。今はもう……」 言葉を詰まらせた先輩は、ひどく物悲しい。 昔の話、と言い切る先輩の響きが何だか妙に切なくて。 何か、余計なことを聞いてしまっただろうか。 「いや、何度もする話じゃないな」 「え?」 「研修の時にも、ちらっと話したろ?」 「あ、あぁ!そうですね」 記憶が混乱しているせいか、思い出せない。 暗い空気に戻さないためにも、調子を合わせる。 「これでよし、と」 戸惑っているうちに、彼に絆創膏を貼らせていた。 むちっとした膝を彼に晒しているのが、 何だかすごく恥ずかしい。 「さっきからぼーっとしてるけど大丈夫か?  頭打ったんなら、病院に行った方が……」 「だ、大丈夫です!  まだ少しドキドキしてるだけなので……」 前世の記憶が戻って大変なんです! なんて言ったら、余計に心配されるし、 へたしたら精神科行きだ。 「昼休憩も終わるし戻るか」 「私もです」 「そういえば再来週だよな、例の飲み会」 「あ……」 確か、この前携わった案件のメンバーでの飲み会だ。 私は末端の末端だったけど、 一応参加メンバーということで誘われた。 知らない人も多そう、と返事を保留にしていた気がする。 「高峰先輩は行くんですか?」 「しつこく誘われたからな。そっちは?」 胸の奥で、ドクドクと湧き上がるものがある。 感覚は曖昧だけど、 私は彼のことが好きだったのだろうか。 だとしたら、これはチャンスだ。 「行きます!私も楽しみです!」 とは言ったものの…… 「これは、まずい……」 帰宅し、部屋の隅にあった姿見鏡に自分を映し出す。 ぽっちゃり体型に大人ニキビ、そして化粧っ気の無さ。 こんなのが自分の姿だなんて…… 前世の記憶を取り戻した今、 とてもじゃないが耐えられない。 「食生活の改善からだな……」 ぽよんと震えるお腹を突き、 ニキビで凹凸だらけの肌を撫でた。 飲み会にも参加する、と返事をしてしまった。 そして、多分私は高峰先輩のことが好きだ。 助けられた時、心配そうに私を見つめる瞳を思い出す。 あの瞳は以前にも見覚えがある。 少しぶっきら棒な言い方をする人だけど、根は優しい。 そんなところにノックアウトされた……ような気がする。 「今までの私、頑張る気あったのかな……」 高峰先輩は営業部のエース。 仕事もできて、顔もいい。 そして実はちょっと優しい、とかモテる要素しかない。 むしろ、なぜまだフリーなのか不思議なくらいだ。 そんな彼に、 美味しさも分からない野菜が泥付きのまま並んでも、 食べてもらうどころか、 見てすらもらえないかもしれない。 「せめて、飲み会までに泥は払わねば……  でも、前世の私はどうやってあのお肌に……?」 記憶が曖昧なせいで、光景は浮かんでも、 これと言った具体的な情報が思い出せない。 結果、頼ったのはネットの情報と、 同僚から勧められたスキンケア用品たちだった。 「間に合えー…間に合えー…」 もちろん、健康的な食生活と、適度な運動も外せない。 財布に溜まったレシートを見ながら、 過去の偏食ぶりに呆れた。 「変な時間にお腹空くし……絶対、間食してたな」 癖の強い猫っ毛も、トリートメントで艶を取り戻した。 ヘアオイルの香りに包まれながら、買い替えたブラシで、 ブラッシングをする時間が何とも心地良い。 「これで、次に先輩に会う時までには少しマシに……」 ふと鏡で見れば、 数日前よりもさっぱりとした自分の顔があった。 女は髪と肌で変わる、と誰かが言っていたが、 その通りな気がする。 今までとは一変した生活に、 今日もくたくたになりながらベッドへと倒れ込む。 そして私は、夢を見た。 ◆ ◆ ◆ りん、と鈴の音がした。 「×××!」 誰かが、自分を呼ぶ声がする。 楽しそうに、嬉しそうに。 でも私は陽だまりでうとうとしながら、 耳を傾けるだけだった。 焦れた声は近くへとやってきて、同じように隣に寝転ぶ。 頬にはまた、茶色い絆創膏。 じっとこちらを見つめる瞳の、なんと優しいことか。 ◆ ◆ ◆ 目を覚ました私は、目尻から流れる涙に驚いた。 「これも、前世の記憶……?」 ぼんやりし始めた夢の断片を、必死で思い出そうとする。 しかし、呼ばれていたはずの名前も、優しい瞳の輪郭も、 すぐに煙のように消えてしまった。 「まぁ……今は目の前のことだよね」 今日はついに飲み会の日なのだ。 高峰先輩と喋れるかは分からないけれど、準備はした。 「よし!」 鳴る直前だった目覚ましを止め、ジャージに着替える。 軽く体を伸ばして、今日もランニングへと出かけた。 夜、指定された居酒屋に行くと、 すでにメンバーが集まっていた。 遠くに高峰先輩の姿を確認し、足を止める。 大丈夫……だよね? そっとスマホを取り出し、黒い画面を鏡代わりにする。 前髪を整えて、自分に向かって頷き返した。 頑張った分だけ、綺麗になった。 この前の自分よりも、私は今の自分が好きだ。 そんな自信を胸に、先輩の近くへと向かう。 「あ、あの高峰先輩!」 「ん? あぁ、本宮か。膝の傷はどうだ?」 「この前はありがとうございました。  もうピンピンして、それで……隣いいですか?」 「別に、俺に許可取るものでもないだろ?」 先輩は笑いながら、 隣に座れるようスペースを開けてくれる。 そこに小さくなって収まると、彼は瓶ビールを掴んだ。 「ビール、飲めるか?」 「いただきます」 私の手の中のグラスに、彼がビールを注ぐ。 それから、少しして幹事の音頭と共に宴が始まった。 全員がグラスを軽く掲げて、乾杯で沸き立つ。 「気になってたんだけど、お前何かあった?」 「え? なんでですか?」 「この前、会社でちらっと見た時も思ったけど……  最近、キレイになった?よな?」 「!?」 咽そうになって、どうにかビールを飲み下す。 先輩の口から出た言葉が、信じられなかった。 でも、それと同じくらい嬉しさが込み上げてくる。 先輩が自分の頑張りに気付いてくれた。 しかも『キレイ』なんて言葉を添えて。 「化粧品、変えたからですかね?」 もちろん、それ以外もいっぱい変えたけど。 でも、さっきの一言でそれは全部報われたのだ。 なのに、先輩は目元を優しく緩めて言葉を続ける。 「この前より、なんかキラキラしてるっていうか……  なんて、今こんなこと言ったらセクハラか」 「い、いえ……ありがとうございます」 カラッと笑う先輩の顔が、もうまともに見られなかった。 手元で視線を彷徨わせたその時、ふとそれが目に留まる。 「先輩のそのブレスレット、可愛いですね」 「あぁ、これ?」 赤い皮で編まれた華奢なブレスレットだった。 先輩が手首を捻ると、 内側に縫い止められた小さな鈴のようなものが見える。 あれ……? こんな騒がしい中、小さな鈴の音が聞こえるはずはない。 なのに、りんと軽やかな音が耳朶をくすぐる。 「形見なんだ」 先輩の言葉にはっと意識を戻す。 形見と言われ、絆創膏を貼ってくれた時の 先輩の切なげな表情が脳裏を過る。 あの時の『今はもう』って、 先輩のお母さんは亡くなってる、とか? 以前聞いたはずの話は、未だに思い出せない。 沈黙が流れそうになり、慌てて言葉を繋げる。 「縫い付けてあるのは鈴ですか?」 「あぁ、中の玉抜いたから、音は出ないんだけど」 なぜだろう……ひどく心がざわつく。 忘れかけていた何かを無理やり引きずり出されるような、 前世を思い出した時と同じ、妙な居心地の悪さだ。 「俺が8歳の時から着けてるから。もうボロボロだけど」 8年という数字が、さらに鼓動を加速させる。 もし、自分が思い出した記憶が本当に前世のもので、 今こうして転生していたとするのなら…… 例えば、死んですぐに転生したのだとすれば、 私と先輩の年齢差は――ぴったりだった。 「あの、ちなみに死因って聞いても……」 不躾な質問だっただろうか。 しかし、1つの可能性を確認せずにはいられない。 先輩は一瞬怪訝そうな顔をして、 気を取り直したように呟く。 「交通事故だよ。トラックに轢かれて……」 「……!」 「だから、轢かれそうなお前を見て、  勝手に体が動いたんだろうな。  お前、なんとなく雰囲気似てるし」 前世で最後に見た記憶。 あれはトラックに轢かれる瞬間の記憶だった。 だから根拠はないけれど、 似た場面に遭遇し、ショックで思い出したのだと。 もしかして、私の前世って先輩の…… 「あの、先輩……」 「あ、悪い。電話だ」 高峰先輩は席を立つと、少し離れたところで何かを話す。 私は、一体何を言うつもりだったのだろう。 ぐるぐると頭の中で思考が巡る。 何か、伝えた方がいいのだろうか。 最期に、誰かに無性に会いたかった、 という強烈な感情の記憶。 その誰かは、 ひょっとすると先輩のことなのかもしれない。 夢のような記憶で見た女性の顔はおぼろげだけど、 言われてみれば、 目鼻立ちは高峰先輩に似てるかもしれなかった。 もしかして、私が好きだと思っていた気持ちも、 前世の後悔が勘違いさせた 母親の愛情だったりして…… 「本宮」 「あ、はい!」 「話の途中で悪いな。ちょっと急用できたから帰るわ」 「そ、そうですか……」 近くにいた他の先輩たちが、ぶーぶーと引き留める。 先輩は苦笑を零しつつも、そそくさと去っていった。 次、先輩に会えるのはいつだろうか。 会社では部署自体が離れているから、 鉢合わせることさえ少ない。 それに、まだ何か引っかかるような……―― 自分の胸に広がるこの気持ちは、 本当に、ただの母親の子に対する愛情だけなのだろうか。 先輩と喋っていれば、その何かが掴めるかもしれない。 今日まで、綺麗になる努力を続けられたのは、 昔と同じように綺麗な自分でいるためだけど、 きっとそれ以上に、先輩と会うためだったからだ。 だとしたら今、私はここにいるわけにはいかない。 「すみません! 私も急用思い出しました!」 鞄を引っ掴んで先輩の後を追いかける。 店の外へ出て、駅へと向かう一番の近道を走った。 「高峰先輩!」 見つけた後ろ姿に全力で呼びかける。 しかし、よほど急いでいるのか彼は気付かなかった。 そのまま、改札を通ってしまう彼を慌てて追いかける。 電車がちょうどよくやってきて、先輩は乗りこんだ。 「嘘でしょ!?」 負けじと私も飛び乗る。 息を切らせて電車に走り込んだ私に気付き、 先輩は驚いた顔でこちらを見つめた。 「お前、路線こっちだったか!?」 「あの、私まだ先輩に聞きたいことがあって……」 「聞きたいこと……?」 先輩は、前世って信じますか? なんて急に言ったら、危ないやつだと思われるだろうか。 この不安定な記憶をはっきりさせたい気持ちはある。 しかし、一体どう聞けばいいのか…… 「もしかして、告白でもしに来たか?」 「こく…!? ち、違います!  先輩のお母さまについて聞きたくて……!」 ニヤニヤと尋ねる先輩に、半ば勢いで言ってしまった。 すると、高峰先輩はきょとんしながら、 手に持ったスマホに視線を向けた。 「あぁ、そう。さっき連絡来たんだよ」 「え?」 あれ? 「それって、さっきの電話ですか……?」 「そう。今、田舎から出てきてもらって、  俺の家にいるんだけどな」 「え……?」 『昔の話』ってあれは……? 実家から出て、1人暮らししてるから……? だから言われることも少ないとか、そんな感じ……? 「紛らわしい……」 「は? いきなり何なんだよ」 「いえ、こっちの話で……」 え、じゃあ私のこの気持ちは、普通に先輩への恋心? 本当に? いや、それならそれでいいんだけど…… ってことは、この前世の記憶は全く関係ないの? いや、もう1つ気になることがある。 「ちなみに、その形見って何の形見なんですか?」 「え、知ってて聞いたんじゃないのか?」 まさか、お母さんの形見と思っていたとは言い辛い。 口籠ると、先輩は自分の手首を見つめる。 スーツの裾の隙間からキラリ、と銀の鈴が光った。 「これは……って、次降りるけど、お前どうする?」 「え、どうするって?」 じっと見つめられ、緊張からかつい顔を擦ってしまう。 それを見て、先輩はなぜかふっと笑みを零した。 「ま、お前ならいっか。  静かにするなら、俺ん家来るか?」 先輩の家は、オートロック付の大きなマンションだった。 「おじゃまします……」 すっきりとした玄関には女性ものの靴が一足。 母親が来ている、と言っていたからきっと彼女の物だ。 というか、私このまま先輩のお母さんに会っちゃうの? 駅から落ち着かず、もう何度顔を擦ったか分からない。 ふと明日は雨だったな、なんて どうでもいいことまで思い出していた。 「ただいま、ごめん遅くなった」 「おかえり……って、あら?」 彼女の顔を見た瞬間、雷に打たれたような衝撃が走る。 この人だ! 間違いない、私が記憶の中で見た女性はこの人だった! 多少、白髪や顔の皺は増えたものの、 鏡の前で笑みを浮かべる彼女に間違いなかった。 だとしたら、私が思い出した記憶って一体……? そんな疑問とは関係なく。 彼女に飛びついてしまいたいような、 体の中のうずうず感が溢れ出して止まない。 「裕司ったら、彼女連れてくるなら言ってよー。  私ったら、すごい適当な恰好しちゃって」 「いや、会社の後輩だよ。猫好きって言うから」 「猫?」 そういえば、先ほどから鳴き声がする。 しかし、聞いてなかった話に先輩を振り返ると、 高峰先輩は、話を合わせるように目で訴えてくる。 「そ、そうなんです~」 まぁ、嘘ではない。 「あらそうなの。あ、そろそろよ」 声を潜ませて、お母さんは呟く。 音を立てないよう部屋の奥へ歩いていく先輩に、 私も静かに続いた。 部屋の奥には段ボール箱が置かれている。 箱の中を覗き込むように置かれたビデオカメラ。 そして、リビングのテーブルにあるタブレット。 どうやら箱の様子を映し出しているらしい映像を、 先輩と先輩のお母さんと私で覗き込む。 「あ……」 聞こえてくる鳴き声の主は、お腹の大きな猫だった。 そのお尻の辺りに赤いものが転がっていて、 次いで、また小さな丸いものが出てこようとしている。 「俺が飼ってる猫、ルルっていうんだけど。  仕事でずっとは一緒にいてやれないから、  母親に見てもらうよう頼んでたんだ」 「さっきの電話、こういうことだったんですね……」 「最近付き合い悪いって、  飲み会もなかなか断りづらくてな……」 「猫飼ってるって言えば良かったんじゃないですか?」 「それはだな……」 言いごもる先輩に、ふふっとお母さんは笑みを零す。 「前に猫がいること言ったら、女の子から家に来たい、  って言われるようになって面倒だったんだって。  そんな裕司がついに女の子をね~、うふふっ」 「先輩、モテますねぇ」 「2人で茶化すな」 むっとした先輩は、映像へと向き直る。 私も視線を移し、生まれてくる新しい命を見守る。 頑張れ、と胸の中で呟いて、 やがてころりと小さな体が外へ転がり出た。 「!」 隣ではっと息を飲む音が聞こえる。 盗み見た高峰先輩の目は、気のせいか少し潤んでいた。 「頑張ったな、ルル……」 まるで見てはいけないものを見てしまったような、 そんなドキドキを覚えつつ、先輩から目が離せない。 「次の子は20分後くらいね」 「猫の出産も大変ですね」 「落ち着くまで一晩中眠れないかもしれないわよ。  明日が休みで良かったわね」 ふふっと笑うお母さんは、とても見覚えがある。 それに、この花のような匂いも懐かしい。 抑えていた、飛びつきたいような衝動が蘇る。 好きな香りに、そのまま頬を摺り寄せたいような…… 「ぐるるるる……」 思わず喉から、今まで出したことがない音が漏れる。 まるで、猫が甘える時に喉を鳴らすように。 こちらを見つめた先輩とお母さんは、 目をぱちくりとさせている。 「あ、いや、ちょっとモノマネ? みたいな……」 え、いや、まさか……私の前世って…… その時、ぐらりと視界が揺れた。 咄嗟に頭を支えると、目の裏にいつかの光景が蘇る。 ◆ ◆ ◆ 鈴の音が鳴る。 「リリ!」 その鈴の音を私が気に入ったからと、 響きの近い、リリという名前で呼ばれていた。 私を呼んで、こちらを見下ろす少年は、 いつも体のどこかに絆創膏をつけていた。 一緒にいれば、ケンカすることもあるし。 でも、ちゃんと仲直りだってできた。 その少年はみんなに、ゆうじ、と呼ばれていた。 ゆうじがいなくなると、私は洗面所に行く。 そこではお母さんが化粧をしているのだ。 鏡に向かって笑みを浮かべて、頬には白粉、 弧を描く唇には紅を塗って、そして……―― 「あら、リリ。また覗いてるの?」 その日、ゆうじは友達とどこかへ遊びに行った。 私は暇で、ちょうど開いていた窓から抜け出して、 気まぐれにゆうじを探しに町へと出たのだ。 それが、いけなかった。 キキーーーッ!!! 悲鳴のようなブレーキの音と、 迫るトラックのクラクション。 こういう時って不思議だ。 世界がスローモーションのように見えるから。 あ、これ死んだ。 死ぬなら最後にもう一度だけ、 あの人に……ゆうじとお母さんに、会いたかったな…… ◆ ◆ ◆ 「本宮? おい、大丈夫か?」 はっとした時、肩を控えめに揺する先輩と目が合った。 また少し心配そうな、優しげな瞳と。 「酔いでも回ったか?」 「リリ……」 「!」 先輩も、隣にいたお母さんも目を見開いていた。 あぁ、私はまたこの家族に会いたかったんだ。 それが叶った。 それだけでもう、十分幸せだ。 トラックに轢かれそうになった甲斐もある。 綺麗になって、自信が持てて、 がむしゃらに、先輩を追いかけられたのだから。 「今、生まれた子の名前に……どうですかね?」 「お前、なんでその名前……いや、リリは……」 先輩が着けているブレスレットは、 リリが着けていた首輪だろう。 だからきっと、懐かしい感じがした。 そして、彼がリリをどれだけ大事に思っていたのか。 痛いほどに伝わってくる。 今飼っている猫の名前も“ルル”と言っていた。 リリの次に飼った猫だから、おそらくルル。 若く見えるルルは、最近飼い始めたのかもしれない。 それは、先輩の中で何か変化があったから。 リリの死、という過去の荷を 少しずつ解き始めているのかもしれない。 その変化は前を向く良いものであると思うし、 私は、それを後押ししたい。 「先輩が忙しい時は、私もお世話手伝いますよ。  だから、リリを幸せにしてあげませんか?」 「! っは、何だそれ……」 ぎゅっと先輩がブレスレットを掴んだ。 躊躇いつつも、その手に柔らかく触れれば、 握りしめられていた手がわずかに緩む。 「厚かましいかもしれませんけど……  助けてもらった恩返しです」 「本当、厚かましいな……勝手に名付け親かよ」 吐き捨てるように呟くと、 先輩の表情はどこか柔らかくなる。 「名付け親になったからには、最後まで責任取れよ」 「……! はい!」 「あらあら、いいわねぇ。  お母さんもね、お父さんとはリリがきっかけで……」 「母さん! 今その話いいから!」 控えめに、先輩が慌ててお母さんの声を遮る。 そして、再びルルが叫び声のような鳴き声を上げた。 「そうだ。彼女さん、泊まっていくでしょ?」 「「え……?」」 先輩と声がハモった。 私はこんな展開になると思っていなかったし、 先輩は先輩で、そこまで考えてなかったのだろう。 「寝る暇はないかもしれないけど。  何かあった時に人手があると助かるし、ね?」 「それは……そうだな」 「!」 一瞬、タクシーなどと考えていた思考が消し飛んだ。 「じゃあ、お言葉に甘えて……」 控えめに呟くと、お母さんは笑みをさらに輝かせる。 「そうと決まったらメイク落としてらっしゃい!  肌にストレスかかるし、あ、ついでに着替えも。  服は私のでも、裕司のでも貸すから。  あ、裕司はお風呂入ってらっしゃい」 「ったく、分ったよ……」 お母さんお人好し過ぎなんじゃ……いや、昔からだな。 捨て猫の私をせっせと拾って、育ててくれるような。 どうしようもなく、優しい人。 お風呂から上がった先輩は、 リビングに1人の私を見て首を巡らせる。 「うちの母親は?」 「寝室で寝てます。  お疲れのようだったので、仮眠くらい、と勧めて」 「助かるよ。  なんかお前のこと、気に入ったみたいだし」 「え、そうなんですか?」 そう言われると、何だか胸がむずむずする。 また、傍にいてもいい、と言われているようで。 部屋にルルの鳴き声が響いて、 ちらりとモニターに視線を戻した。 その私の隣に、石鹸の匂いを纏った先輩が腰を下ろす。 映像を見るため、とは分かりつつ、 肩が触れ合いそうな距離に緊張してしまう。 「お前、本当に肌キレイになったよな」 「……!」 先輩の視線が頬の辺りに突き刺さるのが分かる。 そんな彼にじりじりと視線を移す。 「あの、なんで私を家に上げてくれたんですか?」 お母さんの話を聞いて、ずっと疑問に思っていた。 先輩はきょとんとすると、顎の辺りを掻く。 「猫っぽいお前のこと、気に入ってるからかな」 「えっ」 気に入ってる? それは先輩、脈アリだと思っていいのですか? ニヤッと笑う彼に、私はただ口をパクパクさせていた。
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