雨の日だけ、逢える人

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雨の日だけ、逢える人

真面目に聞いていると眠くなる教授の講義が終わると、友人への挨拶もそこそこに私は駆け出していた。今日は雨の日。気まぐれに夕方ぐらいの時間から開店する喫茶店に、私は夢中だった。 『cafe ロワイヤル』は雨の日にしか存在しない。 雨の日にしか存在しないからといって変な意味ではなく、作家をしているらしい店主が娯楽の為に雨の日だけ開けているから、という理由だ。 作品のファンだったり、近所の方だったりがゆったり時間を過ごしているアットホームな喫茶店。 その店を知ったのは、三か月前の帰宅中、ゲリラ豪雨に遭った時だった。 まだ大学の為に上京したばかりで、最寄り駅からの道もあやふやだった頃。 雨の予報は聞いていたが、傘が意味をなさない程の雷雨に見舞われた。 少し先の視界すらはっきりしない滝の飛沫のような雨に、私はどうすればいいのか分からず、お店らしき建物の軒先に駆け込んだ。 ずぶ濡れの、濡れネズミ。きっとこういう状態を言うんだろう。 着ていたカーディガンの裾を摘まんで少し力を入れたら、ボタボタと水が落下した。頭からもどんどん頬を伝って雨が滴っていく。買ったばかりのカバンとパンプスも水浸しで、無性に泣きたくなってしまった。 やるせない。誰が悪いわけでもないが、 「雨のバカヤロー…っ」 思わず叫んでいた。ほとんど嗚咽だった。 「ほんと、バカヤローな天気だよねぇ。ほら、風邪引くから入っておいで」 急に背後の扉が開いて声が聞こえ、呆気に取られる。 一拍置いて、独り言を聞かれた恥ずかしさで顔が茹りそうになった。 「あ、あの…」 「ん?」 有無を言わさずタオルを渡され、それでもボーっとしていると別のタオルで頭を拭かれた。 「こちらへどうぞ。暖かい紅茶か、カフェオレはどうかな?」 扉に手を掛け、中へと招かれた。 アンティーク調の家具が並んだ可愛らしい店内に、脚が動く。 「カフェオレで、お願いします」 それが三カ月前の出来事。 翌日お礼に店を訪ねたら閉まっていて、近所の方が「雨の日しか開けないお店なのよ」と教えてくれた。その時に色々とお店の話を聞いて、作家をやっている事。喫茶店は近所の会合のようなもの。でも若いお客さんが増えるなら大歓迎よ、と年配の女性は言ってくれた。 『良い男なのに女っ気がなくて。独身だから、安心して通ってちょうだい』 女性のウィンクに、思わず頷いてしまった。 それが三ヵ月前の話。三ヵ月の間の雨の日に通える確率なんてそう高くないわけで、今日がやっと5回目の来店だった。 傘を畳んで入口に立てかける。屋根の下で濡れていなかったアスファルトが滲むように色を変えた。 逸る気持ちを抑えて静かにドアを引くと、ベルが揺れてチリィンと甲高く鳴る。 音に反応した彼が、カウンターでコーヒーを淹れつつひらひらと手を振ってくれた。目の前の席へ目配せされたので、おずおずと腰掛ける。カウンターには近所の常連さんが二人座っていた。「こんにちは」と挨拶すると老夫婦はにこにこと「こんにちは、雨催いのおかげで今日はしーちゃんの美味しいコーヒーが飲めるわね」と言った。 「しーちゃん?」 「そうよぉ、(しずか)くんでしーちゃん。キレイなお顔にぴったりよねぇ」 「長谷川さん、恥ずかしいから名前の話はしないでよ」 淹れた珈琲を夫婦に出しながら、『静さん』はバツが悪そうに言った。 「し、静さん…」 「?」 「私も、静流(しずる)でしーちゃんなんです」 顔を見合わせて笑った。 静さんの手元では、カフェオレが温まりつつある。 店内の暖かい空気と、鼻をくすぐる珈琲の香りにいつしかうとうとしてしまったらしい。 目を開けると店内は間接照明で少し暗くなっていた。当然だが老夫婦の姿も無い。 慌てて顔を上げると、店の奥でパソコンを使っている静さんが目に入った。 気を遣ってくれていたのだろう。パソコンを打つ音がとても優しい。 「すみません、私寝ちゃってたみたいで…!」 「疲れてるんだね、大丈夫だよ。もう少しで一段落つくから、ゆっくりしてて。後で送っていくから」 「そんなの申し訳ないです、一人で帰れます」 慌てて席を立とうとするが、静さんの動きの方が早かった。 カウンターに立って、浅煎りの珈琲を淹れ始めた。 湯気に乗って香ばしい匂いが鼻腔に広がり、思わずその所作を凝視してしまう。 「いつもカフェオレだけど、たまには大人の珈琲はどうかな?」 温めた珈琲をカップに注ぎ、底が平たくなっている変わったスプーンを持ち出すと軽くライターで炙る。 熱くなったスプーンの上に角砂糖を乗せ、ブランデーをその上に垂らした。 「砂糖をよく見ていてね」 静さんが素早くブランデーの染みた角砂糖にライターの火を向けると、角砂糖は青い炎を灯しながら溶けていった。 熱で溶ける砂糖の何とも言えない良い香りが辺りに広がった。 「キレイ…」 「炎が消える前にスプーンで混ぜてみて」 言われた通りにスプーンを混ぜると、珈琲とブランデーが合わさって不思議な匂いになった。ちらりと静さんを見ると「どうぞ」とだけ言った。 おずおずと温かいその珈琲を口に含むと、暖かい幸せな気持ちになった。 「美味しい…!」 「ブランデーを使ったカフェ・ロワイヤルだよ。うちの店名のコーヒー」 「まだ雨降ってるから、お店営業させてね」 悪戯っ子のように笑いながら、静さんはそう言ってパソコン作業をまた始めた。 私はふわふわした気持ちで美味しいカフェ・ロワイヤルを楽しむ。 外はもう、雨の音はしていない。
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