第十話 朝

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第十話 朝

 朝焼けにまぶしそうに目を細める順平を真向かいに、同じ窓の外の向こうを眺めながら、きっと聞こえなくてもいいと思っているくらいの小さな声で、小松七海は言う。 「……青野君は、死んだんだね」    それは悲しみというよりももっと、穏やかな表情だった。そうやって、精一杯今ここにいる存在の、ちっぽけな会話の、かすかな声を発する目の前の女は、確かに未来だった。小松七海ではなく、やっぱり順平にとっては、未来なのだ。 「ああ」 「もう朝だね」 「……帰ろうか」 「……うん」    あとをついてくる未来は、眠いのか足取りがおぼつかなく、まるでうなだれた子供のようだった。ファミレスを出ると、もうすぐ始発が走る頃のようで駅前には朝帰りの不届きものがたむろしている。全く、まだ朝だというのにもう空気は水分を多く含み、体の周りを鈍く泳いでいるようで暑い。  一晩あのファミレスという狭い空間で過ごし、まるで通夜に行ったのが遠い過去のようなのにまだ一日も経っていない。しかも、青野が死んだという事実は何も変わらない。一晩経っても、どこまで行っても他人のままの順平と未来の行く先はもう二度と、交じり合うことはないかもしれない。そう思うと順平は、その儚さを抱きしめたくなる。  ファミレスで一夜を明かすなんて思わなかった。  さっきまでは眠気なんてなかった様子の未来が、ふいをつかれたように油断したのか、改札の手前の広告柱に寄りかかりながら小さなあくびをしている。さっきまでカプチーノのカップを握っていたその力のない薄い掌で口を覆うが、ほとんど隠れていない。あくびでちょっと涙目になった未来は、手首のとこで目を軽くこすると、バッグを持ち直して言った。 「ねえ、青野君ってどんな人だった?」  順平は少し考え込んだ後、 「……憎めない、やつ」  その答えは変わらないんだね、と未来は笑う。 「かっこいいのになんか抜けてるし。つかみどころなくて、ふわっふわしたやつだったな」 「そっか。ありがとうね、昨日は。あ、もう今日か」 「ううん」 「私さ、青野君のこと……青野君についてを、ただ誰かと話したかったんだよね」  そうだ。もう未来の家族は、いないのだ。  未来は、黒い革のヒールの少し剥げた爪先を、反対側の靴でこするように足をもつれさせながら、不安定な恰好で順平の横に立っている。 「ねえ」 「ん?」 「そういえば、どうしてあの時ってさっき聞いたけど……」  あの、未来の部屋で過ごした夜のことだ。  順平は言葉を待った。 「……あの夜、普通にお互い、いいなって思って、そういうことになって。すごくシンプルなことだったんだね、私たち」 「……ああ」  未来は小さく笑って続ける。 「なんか……もっと違ってたのかな。もしさ、別の形で会っていたら。私たち」  きっと、違ってた。  そう言いたかった。でも青野がいなければ、順平と未来が会うこともなかっただろう。順平は未来の問いには答えずに、優しく朝の時間が流れるのを待った。  駅のアナウンスと同時に、電車がまもなく到着することを伝える音楽が、朝のわりに静かでもない駅構内に響き渡る。スマホに視線を落とし始発の時間を確認する未来の横顔を、順平は気づかれないようにそっと覗き込んだ。 「じゃあ、変な奴に絡まれないように、気を付けて」 「もう朝だから、大丈夫」 「ほら、朝は夜の続き、っていうでしょ」  順平のその言葉に未来は微笑むと「そうだね」と赤いパスケースを握りしめた右手を振り上げて、改札の中へ消えていく。  下のホームで、未来を乗せた電車がプシューとわざとらしい発車音をたてて離れていくのを聞いた。始発のホームは大体酔いつぶれているやつか、寝ているやつか、早朝出勤の機嫌の悪そうな人間で溢れている。反対ホームの電車到着まではあと五分以上あるが、誰一人まっすぐ前を向いて電車を待っているやつなんていないであろうホームという空間に、順平は駆けて行った。  青野のいない世界――。  湿った静寂の中で今日が始まる。 《了》
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