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第一話 友
「あー、つれー」
ショットグラスに入ったテキーラを飲み干した青野が叫ぶように言う。
その声の振動がバーカウンターの背面に並ぶブランデーの、まるで茶黒い絵の具みたいな、重量のある液体にわずかに伝わったのか、水面を小魚がはねたようなかすかな波を、順平はそこに見たような気がした。
「はあ? お前この間彼女できたばっかじゃん」
同じようにショットグラスを空けてみせた順平は、ライムを齧る青野に言う。
「いや、そういうんじゃないんだよ。それは関係なくて」
青野は笑ったような、困ったような調子で答える。
「おいおいお前、三年間枯れてる俺の前でよく言うよ」
隣で、まるで砂漠の中心で這いつくばりながら水を求める旅行者みたいに「チェイサーを」と、声を絞り出す青野がおかしくて、言いながら順平は笑った。生まれて初めて一緒に酒を飲んだ瞬間から知っていたが、こいつは酒に強くない。
青野は、この前マッチングアプリで知り合ったという女子大に通う未来と付き合い始めた。二人でいきなり会うのも何だから一緒に来てくれないか、と誘われた順平は仕方なく飲み会に参加した。もう三か月も前のことだ。
待ち合わせ場所であった渋谷の宮益坂にある小洒落たスペインバルに入ると、未来ともう一人、化粧の濃い妙にギスギスに痩せた派手な女が、友達だというのにやけによそよそしい感じで先に席に着いていた。
一目見た時から、正直未来は順平のタイプだった。
まだ四月で少し肌寒いのに、短い黒レザースカートから伸びる脚は白くて細すぎず、オフショルの薄ピンク色のニットは胸の柔らかい膨らみを想起させた。化粧が厚いわけではないのに、素材の良さそうな目鼻立ちのはっきりとした顔立ち。大きな目とぷっくりとした桜色の唇も、完璧だった。右側の鎖骨の上に綺麗に列になった、夏の星座のように並ぶ特徴的な三つのほくろも何ともかわいらしい。
順平は飲み会中、未来に視線の先と持てるだけの神経をすべて集中させていた。だから完全にスルーされ、途中から不機嫌そうな顔をして一人黙ってナチョスをひたすら頬張っていた隣の女のことなど、一ミリも覚えていない。
でも未来は、青野に夢中だった。
その証拠に、その夜順平の視線が未来と交わった瞬間は一ミリだってなかった。
その翌週、今夜と同じように順平の働く居酒屋・春夏で飲んだ帰り、神保町の駅前で「俺、ちょっとこの後用事あるから」とタクシーに乗り込む青野に、「彼女?」とラフに聞くと、青野はちょっと考えた後「まあ、うん」と頷いた。
あの飲み会の雰囲気を見ていれば、未来と付き合ったんだろうと容易に想像できた――。
「いや、あ、思い出した。俺、猫飼いたいんだわ」
青野が思い出したように言う。
「はあ? わっかんねーなー」
酒が入ると頭が回らなくなり会話が成り立たなくなるのはいつものことだ。面倒なモードに突入してきたと順平は察し、店主の吉郎さんに助けを求めて目配せする。吉郎さんは気づいているくせに一瞥もせず、黙って手元のグラスを拭き続ける。
ここ最近さらに上達してきた、吉郎さんお得意のスルースキルだ。
「わかるだろ」青野がめげずに言う。
「わかんねーよ。俺、猫いらねーけど彼女ほしいもん」
「いや、昔さあー……」
そう言って顔を近づけてくる青野を右手で払いながら、昔の女の話でも始めたんだろうと聞き流す。全く、きれいな顔してやがる。青野はいわゆる女にもてるタイプだ。ツンとした高い鼻が特徴的で、パーツは見事に整っているけど、その中にどこか、おそらく女の母性をくすぐるんだろう甘さがある。
「猫はいいぞお」
夢見心地な柔らかな声色で青野はそう言うと、そのまま目を閉じてカウンターに突っ伏した。
「置いて帰っていいすか?」
呆れた声で隣の青野を指さしながら順平が言うと、
「一泊一万円、前払いね」
下手なウインクをしながら、お茶目な中に意地悪さを含んだ声音で吉郎さんが返す。いつものお決まりパターンだ。
「ですよねえ」
小声で呟きながらスマホを取り出すと時刻はもう十二時を回っていたが、青野の住む両国までならまだ終電はあるはずだ。
「ほら、行くぞ」と背中を数回叩きつつ、椅子の背もたれにかかる青野のジャケットを左手でひょいと持ち上げると爽やかなオーデコロンの香りが鼻をつく。洒落たものをつけてやがる。
順平は「お疲れっす」と吉郎さんに頭を軽く垂れながら引きずるようにして青野を連れ出し「またなー」と、力のない目で微笑みながら地下鉄のホームに消えていく青野を見送った。
一万円払ってでも吉郎さんのところに置いて帰ればよかったのかもしれないと思ったのは、翌日の朝だった。猫を飼いたいと言っていた青野が、猫を飼うことはなかった。
青野はマンションの階段から転落し、その夜死んだのだ。
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