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 妻が家中にフライパンを叩き鳴らして、イントロをボイスパーカッションで吹かし始めた。条件反射のように目を覚まし、部屋を出た僕はそれに合わせてベースを刻みだす。秋人が慌てて扉を開けてアルトを歌いだし、千夏が寝ぼけ眼でソプラノに乗じる。  七時の顔は四人四色で歩む道は同じ場所。そのまま四人で階段を降りてダイニングに向かうと、早足でキッチンに立った妻はフライパンに火を通して目玉焼きを作り始める。きりの良いところで僕は曲目を変えて新しいリズムを刻み出す。リズムを切り換えながら秋人がパンをオーブンに入れ、千夏が牛乳をコップに注いでいく。  妻のボイパが切れて、僕たちも伸ばしていた音をフェードアウトさせた。同時に四人揃って両手を拍手のようにぴん、と叩いて目を閉じる。全員が合唱の体勢に入る。  「いただきます」  ほおばる前に大きく欠伸をして、ぼくはパンに齧りついた。秋人も千夏もぼんやりと霞を帯びた眼で各々のパンを手に取っている。妻だけが眼に活力を漲らせて笑っていた。わが家の朝はいつもこんな感じだ。  「そんなんだから、リズムもずれるんだぞ」  妻だけがわかるミリ単位のコーラスの誤差。みんながあるものを持たなければこの修正は不可能だと、妻はよく語り部に入る。  うんうんと聞いている間にも朝食の時間は過ぎていく。素早く背広に着替えると僕は小走りで玄関へと向かう。三人分の靴が横一列に並べられていて、履き終えて振り向いた先にはいつもの妻の笑顔がある。  「寄り道厳禁」 「誘惑、排除」  妻の切り返しを合図に僕の社会への船出が始まる。玄関の扉を開けて太陽の日差しを体いっぱいに授かる。平凡で当たり前な毎日を僕は歩んでいる。  初秋に至ったある日の夜に、前触れもなくその歩みが止まった。いつもの「ただいま」に誰からも「おかえり」が添えられない。  妙な違和感を抱えたまま食卓に行くと、秋人と千夏が椅子も引かずに立っている。うかない二人の顔に疑念を抱きながらテーブルを見ると、一枚の書き置きが残されていた。 『スタートラインを探しに行きます。春奈』  その日を境に、妻は帰って来なくなった。
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