墓前小用奇譚

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 最悪の二日酔いの朝だった。意識を遮断したくなる程の頭痛。アルコールを含まない水分への餓え。自身の口臭への強烈な不快感。  尿意も切迫していた。苦しみながら便所で下着を下したとき、想定していない景色が目に入り、頭脳が停止した。ボクサーパンツの下の肌が、黒い。下腹部全体が青黒く変色しており、特に性器は黒炭のようで、鼠径部や尻もところどころ墨汁を塗ったかのようだった。  得体の知れない異常を脳が理解し、この恐怖と二日酔いによる不快とが綯い交ぜになった俺は、便器に向けて盛大に嘔吐した。  蒲団の中で昨日のことを思い出す。  俺は泥酔していた。ニュースサイトの記者だという女の客とカウンター越しに飲み、度を越してしまった。帰路の記憶は曖昧だが、乗り換えは帰巣本能でなんとかなったのだろう。駅前の商店街から、自室のある住宅エリアに向かう途中、尿意が我慢できなくなり、寺で用を足した。  俺は、墓に小便をかけた。  なぜそんなことをしたのか。酔客の痴態をよく見る俺は、アルコールで前後不覚になった者ほど惨めな生物はないと考えており、飲んでも常に頭の一隅は醒めている。魔が差したとしか思えない。墓石に向かって前のチャックを下げ、下腹の力を抜いて尿意を解放した。バシャバシャといい音が鳴り、墓石の濡れた部分が黒くなった場面を思い出す。  帰宅した俺は蒲団に倒れこみ、今に至る。 +++++++++++++++++++++++  医者に診せるべきかという問題があったが、あまりの頭痛のため、一旦その現実から逃避した。休日に読むつもりのビジネス書を2、3ページ繰って諦めて閉じ、寝ようとしても眠れず、スマホでのネットサーフィンとゲームアプリという無為に日を費やした。夕日が沈むのを眺め、自分の莫迦さ加減に呆れながら風呂を沸かす。  湯船に浸かり、下腹部を見て、あらためて気持ちが沈む。ネットで調べても、似た症例は見当たらない。真偽不明のネット情報では、病気について調べれば調べるほど不安が膨らみ、ネットで調べ切れないことがあるという当然のことに苛立つ。  目を閉じる。すると、瞼の裏に、女の姿が浮かびあがった。頭に白い布を被った、裸の女。ふふふふふふ…と、まともではない笑い声が聞こえてくる。  気付くと、俺は浴槽の中に沈んで水を飲んでいた。  夢を、見たのか。  溺れ死ぬところだった。  女の姿を思い出す。頭は白い布で覆われていて顔は見えない。身体もはっきりとは見えなかったが、真っ白い肌で、張りのある肉感的な姿態は、若い女のようだ。そして、理由はないが、俺は確信した。あの、小便をかけた墓の中に眠っていた女だろう。 +++++++++++++++++++++++  翌朝の寝覚めも、最悪だった。というより、ほとんど一睡もできなかった。  寝床に入って意識が溶けかけると、何者かが覆い被さってくる重みと、触られる感触があった。そのような夢も、これまで見たことはある。しかし、これまで見たどの夢とも違うのは、腐臭だ。大量の肉など、生き物の生体組織が腐敗した臭い。子供の頃、飼っていた大型犬が病死した時に嗅いだ臭いを思い出した。  女の息が頬に触れる感覚もある。女は俺にのしかかり、腐臭のする息を吹きかけてくる。そして、ふふふふふふ…という笑い声が聞こえる。  朝日を見ながら、絶望的な疲労を感じる。  これは、呪われている、というものかもしれない。  呪いや天罰などという非科学的なことは、俺の人生に一切関係ないことだった。これっぽっちも信じてこなかった。初詣すら、女とのデートでしか行ったことはない。  しかし、この腐臭の女に俺は心当たりがある。あの墓のあった寺に行かねばならない。病院にはそのあとだ。  俺は店の従業員に連絡し、今日の出勤が遅くなることを知らせた。 +++++++++++++++++++++++  寺の住職に会った。頭を剃り上げ袈裟を着ているだけの、ごく普通の中年男だった。俺から水商売の雰囲気を感じ取ったのか、初め露骨に好奇の目で見てきたが、こちらが困って助けを乞うていることがわかると、優位にある者特有の妙な馴れ馴れしさを発散し出した。碌な坊主ではない。  件の墓には、明治・大正期に生きた尼僧が入っていた。墓地の入口に位置し、大きく目立った墓だったのは、この寺の運営に深くかかわった身内の墓だからかもしれない。貧民救済などの善行で知られ、地域の住民からも篤く慕われたらしく、寺にとっては中興の祖とも言うべき人物なのだそうだ。俺が小便をかけた墓も、生前尼僧を慕っていた者から集められた浄財で建立されている。 「それは、呪いなどというものではないですよ」  坊主が言う。現世で功徳を積んだ尼僧が、いかに悪戯をしたからといって、人を呪うなどということはあり得ない。自分自身の深層心理、罪悪感のようなものが見せている幻なのかもしれませんよ、と。  俺のしたことは法的にも軽犯罪の範疇に違いなく、表層であろうと深層であろうと俺の心理に罪悪感などない。人を殺せば、枕元に霊が立つこともあるだろう。小便をしたくらいで自責の念で頭がおかしくなるほど、俺はお人よしではない。 「お祓いは、是非お願いしたいです」  坊主は信用できないが、この仏教の作法に基づいた「処理」は必要だと思った。坊主にはある程度のお布施を包んだ。お祓いをいい加減にされては堪らない。  坊主が何かを焚き上げ、読経する。この火が、きっと、あの腐臭の女を俺から遠ざけてくれる。  そう願っていた夜中、やはり夢の中にあの女は現れた。 +++++++++++++++++++++++  白い布で顔を隠し、白く美しい乳房も尻も露わなあの女に、俺は手を引かれていた。坑道のような暗く湿った場所から抜けた先には、小さい頃、絵本や漫画で見たような、深紅の世界が広がっていた。  おそらくこれが、地獄と呼ばれる場所。炎が高く燃え盛る山がある。無数の人間が突き刺さった剣山のような丘がある。ぼこぼこと沸騰している血の池がある。鬼が人間の髪を掴んで棍棒で打擲し、舌をペンチのような器具で引きちぎっている。腹だけが病的に膨れた餓鬼たちがいる。苦悶の表情を浮かべた死者の魂がそれらの上を漂っている。  女は、まるで地獄という遊園地の見所を案内するかのように、俺の手を引いて連れ回した。頭巾で顔は見えないが、しかし常にこの女は笑っている。 +++++++++++++++++++++++  皮膚の青黒い変色は、下腹部から胸のあたりにまで広がっていた。 朝方、俺は例の墓の前に跪き、土下座した。 「許してください。お願いします…」 俺の人生に、誠実なものはなにもなかった。客に対しても、バーテンの仕事という以上の感情をサービスの中で持ったことはない。学校や職場が変わるたびに交友関係はころころ変わり、親しい友人など一人もいない。仕事も人間関係もこの程度で、人生に大切なものや信じるものなど、何もなかった。でもいまは、命が惜しい。生きたい。心の底から詫びる。誠心誠意、許しを乞う。 「これまでの生き方も間違っていました。悔いています」  犯罪とされる行為に手を染めたことはない。だが、言い寄ってくる女の心を弄び、金銭的に搾取したことは何度かあった。俺は友人もいないが、まともに女を好きになったこともない。女が特別な目で自分を見るようになった思春期の頃から、徐々に女の好意を自分のために利用することに躊躇いがなくなっていった。人倫を外れていた。もしかしたら、尼僧はそれを戒めているのかもしれない。女を傷つけるようなことはしない。誠実に人と向き合う。だから、お願いだから、許してほしい。 +++++++++++++++++++++++  その夜、寝床で仰向けになった俺の胸の上に、頭巾があった。尼僧は俺の胸と首に頬ずりをしてくる。俺の心には諦めとともに、微かな怒りが湧いた。  なんでだ。なんで俺なんだ! なんで俺が選ばれた! 確かに死者の墓に無礼はした。でも、それは死に値することなのか。世の中には、腐った政治家とか独裁者とか、連続殺人鬼とか、もっと死ぬべき奴らはいくらでもいるだろう!  胸元を見ると皮膚の黒ずみが、顎にまで届いた。いまも明らかに広がっているのを見て、皮膚の黒ずみの理由がわかったような気がする。女が、舐めた部分が、青黒くなっているのではないか。  腐臭の女の顔を初めてまじまじと見た。尼僧の若かりし頃の姿なのか、単なる幻影なのか、その美しさにぞっとする。  そして、目。他者に焦がれ、求め、慕う、これ以上ない熱い眼差し。俺はこの眼差しの意味を知っている。 「恋か…」  恋心なのか。俺がいままで利用してきた、女たちの弱さ。これと同じ目をした女たちから、俺はどれだけの大金を引っ張り、女たちを足蹴にしてきたことか。  俺は墓に放尿して神罰を受けたのではなかった。人の心を弄ぶような生き方を咎められたわけでもなかった。  ただ、見初められたのだ。尼僧によって、その伴侶に選ばれた、それだけだ。おそらくは永久の。この前見た「地獄」は、二人の婚前旅行か何かだったのかもしれない。  なんで俺が選ばれた、という俺の心中の問いを察したのか、尼僧は初めて、笑い声ではなく、人語を聴かせてくれた。 「好きになりました。あなたのものがあまりにも立派で…」  彼女の舌が頬から瞼に達した。眼球が舐められている。視界が外側から黒ずんでくる。俺の、人としての、意識が、終わる…。
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