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なぜ生涯の伴侶にその人を選んだか――これは、答えのない問いだろう。人が人を好きになることに理由はないとも言えるし、その人のすべてに惚れているとも言える。結婚を目前に控え、友人や知人と飲むたびに、僕はこの質問を投げかけられた。どうせ最後は冷やかされて終わる、座持ちのための話題の一つに過ぎないが、この問いを浴びせられるたびに、気が利いていたりオチがあったりする答えができず、僕は若干の居心地の悪さを感じていた。
顔も性格も好きだし、酒の席の盛り上げ方や子供やお年寄りへの接し方も好きだ。彼女が書く丸っこい文字の安定した感じも好きだし、淹れてくれるハーブティの深みのある味も好きだ。どれも彼女の一面に過ぎないようでもあり、普遍的な本質の象徴のようでもある。
だが、彼女が我が家に挨拶に来た日、この質問の答えを集約するような一点の理由を、僕の尊敬する祖父から指摘され、納得した。
彼曰く、「花に詳しかったからかなあ…」。
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仲が複雑だった両親に代わり僕の面倒を見てくれたのは、祖父だった。祖父は祖母が大好きで、見事な花を育てる愛妻を自分の孫にも誇った。祖母が作り上げた庭は、数多の花が咲き、果物が実り、季節が移り変わるごとに新たな美しさを表現した。
祖母が亡くなる少し前、僕がまだ小学生だった時分、祖父から祖母への思いを聞いた記憶がある。夏の夕方、庭に面する縁側に二人で座っていた。
「アキラ、おばあちゃんが、菊を育てているのは知っているだろ?」
「皇室に献上されたってやつ?」
「そう、名人なんだよ。菊の名人。おばあちゃんの手にかかると、自然の力だけでは育たない立派な菊に育つんだよ。菊のことをよく知っていないといけないし、少しの変化にも気づかないといけない。毎日根気よく世話しないといけない。逆立ちしたってできないよ、そんなこと、おじいちゃんには」
「自分にできないことができるから、好きになったの?」
「最初はそうかな」
祖母が手入れしていた庭に涼風が吹いて、ビールの空き缶を切った手作りの風車がくるくると回った。エンジニアだった祖父は、この風車をつくるのが好きだった。
「最初は大事なんだよ。なにかきっかけがないと。きっかけがあって、気になりだすと、いいところがたくさん目に入ってくる。料理も裁縫も上手だってことに、そのあと気づいたよ」
大正生まれのくせに、自分の妻の「いいところ」を臆面もなく語る祖父が、眩しかった。
「アキラ、花に興味はないか?」
「ないねー。動物とか昆虫とか、生き物は好きだけど」
「おじいちゃんも花はよく知らない。人生のなかで、よく知ろうと思う機会がなかったんだ。戦争の時代だからという訳でもないだろうが、花に見とれるきっかけがなかった」
祖父はきっかけという言葉を好んだ。何かが優しく祖父の背中を押す、それに従って彼は物事を動かし、目の前の世界が意味を帯び始める。祖父の世界観を構成する、キーとなる概念。
「でも、花は綺麗なんだよ。三十歳を過ぎて気づいた。大切なものとか、うまいものとか、きれいなものって、子供でもわかるような気がするけど、あとになって気づくってことがあるんだよ。おじいちゃんはおばあちゃんから教えてもらった。アキラが好きになるのも、そんな人なのかもな。朗のまだ知らない、いいものを知っている人。教えてくれる人」
「そんな人いるのかな」
「いるよ、どこかに。アキラ、そんな人と出会えたらいいな」
祖父は目を細めた。祖父の言葉の意味はよく解らなかったが、彼が僕を思ってくれていることが嬉しかった。
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ユリと出会ったのは、学生時代の友人からの誘いで参加した合コンだった。自分でも、その頃の自分のことは好きになれない。社会人二年目になったばかりで、希望していた業界に入れなかったことを引きずり、また、碌でもない上司の下で働くことになり、焦りと悔しさで心が荒れていた。
ユリとは一次会でいくらか言葉を交わしたが、物言いに曖昧なところがなく、気が強そうだなという印象で、僕はやや構えていた。次の飲み屋に移動する途中、道路の脇に茂る雑草の花が目に入った。僕は、ユリが花屋で働いているという話を思い出し、あまり考えず、会話を繋ぐために言葉を口に出した。
「コンクリートの隙間からよく生えているナガミヒナゲシって、気持ち悪くない?」
「ナガミヒナゲシ? なんで?」
「花が散ったあとに残って、にょきって出ている芥子坊主が、繁殖力の象徴みたいで生々しいんだよ。可愛くない。花が妙に可憐な感じだから、ギャップがあって余計に嫌だ。本性を隠しているみたいで」
このコメントは、以前にネットで見かけたブログの記事の内容、そのままだった。
ナガミヒナゲシはケシ科の一年草で、4枚の花弁のくすんだオレンジ色の花を春に咲かせる。根と葉から、周辺の植物の生育を邪魔する物質を分泌し、特定外来生物並みに有害という研究もある。果実である「芥子坊主」からは、約2000個の種子がばらまかれ、繁殖力は強い。
ナガミヒナゲシは外来種として悪評が高い。ネットで「ナガミヒナゲシ」で検索してみたところ、この植物への風当たりの冷たさは結構なものだとわかった。
無難な見解、と思って僕は口に出してみたが、彼女は同調しなかった。
「そんなことないでしょ。きれいな花だよ」
予想外の反応を受け、曖昧に笑う僕に、間髪を置かず続ける。
「日本の気候とか環境に適応しただけでしょ、外来種って。増え過ぎたら在来種は減ったり絶滅したりすることもあるだろうけど、そんなこと自然界では人間が知らないだけでたくさん起こっているんじゃない? 元々日本の土地にいた種類の生き物だから人間が守ってやるべきだとか、外来種は生命力が強くて野蛮とか、品がないとか、そんなことないと思うけどな」
ぐうの音もでなかった。自分から持ち出した話題で、底の浅いところを披歴してしまった。しかも一次会で、農学部で研究をしていたという話をしたばかり。タイミングも悪過ぎる。
「ごめんなさい、大学院卒の先生に向かって偉そうなこと言って。」
ユリは少し笑った。でもあざけるような感じはない。自分の遠慮のなさが時に人を怒らせたり、傷つけたりしてきたことへの反省から出た素直な言葉だと思った。
「私、いちおう、花が専門だから。実家が花屋さんしているから。許して」
「いや、ごめん。こちらこそごめん」
会話のキャッチボールとしておかしいが、反射的に謝ってしまった。
自分の心理を分析すれば、こんな短い会話だけで女の子に好意をもってしまった、その軽薄さへの謝罪だったのかもしれない。僕はこのとき、まだ彼女への恋心をはっきり自覚していなかった。二次会でユリと連絡先を交換しなければ、いまの僕はいない。
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祖父は今年で九十九歳になる。健康には気を遣っており、気持ちも若いが、さすがに耳も遠くなり、全身の機能は低下している。
そ れでも祖父は、一生懸命にユリに何かを話そうとしている。僕の両親は、老人の相手を無理にしないでもいいですよと言いたげだったが、ユリもゆっくりと大きな声で喋って、祖父の声に必死に耳を傾けている。
祖母の庭は、今は母が手入れをしているが、かつてのような美しさはない。花々が咲き乱れ、祖父の手製の空き缶風車が飄々と回っていたあの時代の美しさは。
祖父が何かを伝えようとしている。僕は祖父の口元に耳を近づける。「ユリさんは、とっても素敵な人だね」という言葉が聞き取れた。
「おばあちゃんと一緒だね。花を愛する人」という言葉が聞き取れた。
「アキラが好きになったの…」そして、「ユリさんが花に詳しかったからかなあ…」と、聞き取れた。
さすがおじいちゃん。僕も、そうだと思う。僕がユリを選んだのは、花に詳しかったからだ。そして三年間の交際で分かったことは、ユリは僕の知らない、この世のいろんないいことを教えてくれるということ。おじいちゃんにとっての、おばあちゃんと同じように。
あのあとユリは、母を手伝って実家の庭づくりをしたいと言ってくれた。明日の結婚式で、そのことを、祖父に伝えようと思う。
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