第3話 見て見ぬふり。

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第3話 見て見ぬふり。

 空き部屋同然となった講義室を見つけて、すでに三週間程が経っていた。春の日差しは随分と暖かくなっており、昼寝には申し分ない気候である。  講義を終え、昼食を取り終えたザイルは、日課となった昼寝のためにいつもの空き部屋を訪れた。ちなみに、ジェイルはとっくに姿を消している。彼はザイルの乳兄弟であり、将来は父、キール伯爵の跡を継ぎ、伯爵位につくことが決まっている。そのため、少しでも多くのことを学ぼうと、ザイルよりも勉強熱心だと言って良い。今もおそらく、図書館辺りで調べ物をしていることだろう。講義の前にはここに立ち寄るよう言ってあるので、問題はないはずである。  寝床として定着しつつある窓際の長椅子へと歩み寄り、大きなあくびをしながら席につく。身体を伸ばして寝ることが出来るのは良いが、頭が低くなり、寝にくく感じることが少し残念だった。質の良い枕でもあれば良いのだが。  ……また来たか。  身体を横たえようとしたところ、視界に入ったその姿に、恒例になりつつある感想を覚える。あの日から何度となく、それこそ二日から三日に一度は見る後ろ姿と、その視線の先の一組の男女。  王太子も飽きねぇな。  横たえようとしていた身体を座るに留め、机に頬杖をついてその様子を眺める。  見るたびに違う少女を伴ってはベンチで楽しそうに語り合う。今日は最初に見たのと同じ、黒髪の少女。ランドルが伴っている女子生徒の中では、彼女が一番ここに来る回数が多い。余程お気に入りなのだろう。  そしてそんな婚約者の姿を飽きもせずに眺める、銀髪の少女。  ……なぜ、何も言わない。  あの黒髪の少女や、他の少女たちは知らないが、どちらにしろランドルの正式な婚約者であり、序列一位のレンナイト公爵家の令嬢の方が、どう足掻いても立場は上。ランドルに直接言わずとも、父であるレンナイト公爵に苦情を漏らせば、すぐにでも対処できるだろうに。  思い、何の表情も浮かべずにランドルたちを見つめる少女を眺めて。  ぎょ、と目を見張った。それは、ここ三週間程で初めての変化。  少女の頬に滑り落ちた、透明の雫。  悲しそうでもなく、憤っているわけでもなく、ただするすると彼女の目からは涙が零れ落ちていて。一見すれば奇妙なその様子に、気づけば目が離せなくなっている自分がいた。  ただ見つめているだけだったなら、見て見ぬふりも出来ていたというのに。  ……めんどくせぇ。  深く息を吐き、がしがしと頭をかく。緩慢な動作で椅子から立ち上がり、こつ、こつと足音を立てて窓の方へと近づいて。  がらりと、滑り出しの窓を開けた。それほど大きな音ではなかったため、少し離れた位置にいるランドルたちは気付かなかったようだが、すぐそこにいた少女は驚いたように目を見開き、さっとこちらを振り返っていた。 「おい、お前」 「……っ!? ざ、ザイル殿下……」  こちらが誰なのか気付いたのであろう、少女はぱっと頬の涙を手の甲で拭う。「ご機嫌麗しく……」と、僅かに怯えた様子で定型的な口上を述べながら礼の形を取ろうとしている彼女に、「挨拶は良い」とザイルは短く言い放った。 「お前、暇だろう。来い」 「……え?」  不躾極まりない言葉に、少女は驚いたような顔で動きを止める。戸惑ったような、困ったような顔でこちらを見ていた。 「いいから、来い。早く」 「は、はい……」  王太子の婚約者といえど、他国の第二皇子よりも立場は下。ザイルの言葉に拒否することが出来るはずもなく、少女は慌てた様子でその場を一度立ち去ると、しばらくして廊下の方から扉が開き、講義室へと入ってきた。余程急いできたのだろう。細い肩が上下しているのが目に入る。  「何か、御用でしょうか?」と、途切れがちに問いかけてくる彼女に、「こっちへ来い」とだけ答える。不思議そうな様子で、おずおずと彼女はザイルが座っている長椅子の端まで歩み寄ってきた。  ぽんと、ザイルは椅子の座面を叩いた。 「座れ」 「……はい?」  端的な言葉に、少女はますます訳が分からないというように首を傾げる。「いいから、座れ」とザイルが再度言えば、不思議そうな表情をそのままに、「失礼いたします」と言って行儀良く長椅子の端に腰かけた。  その様子を見届け、ザイルはごろりと長椅子に横になる。「ざ、ザイル殿下?」と、少女はぎょっとした様子で声を上げた。 「な、何を……」 「膝枕。枕がなくて寝にくかったから、丁度良いと思っただけだ。気にするな」  下から見上げる形で淡々と返せば、少女は声を失ったかのようにぱくぱくと口を開閉させる。「わ、わたくしは一応、ランドル殿下の婚約者なのですが……」と苦し紛れに言う彼女にくつりと笑った。 「良いじゃねぇか。あっちもあっちで楽しそうだしな。膝くらい貸せ」 「…………」  途端、また表情を失う少女に、さすがに自分の失言に気付いて眉を顰める。慰めようとまでは思わなかったものの、気の毒に思ったのは本心だったというのに。  少女はザイルの方から、丁度この席から見えるランドルたちの方へと顔を向けた。「ええ、そうですわね」と呟く彼女の声は、どこか諦めのようなものが混じっていた。 「……いつからだ?」  問いかけたのは、単なる気まぐれ。眠るつもりで横になったというのに、気付けばぼんやりと彼女の顔を見上げていた。何の表情もない、いつもの彼女の顔を。  少女は僅かに目を伏せると、「……覚えておりませんわ」と答えた。 「なぜ、何も言わない。お前が言えば、王太子も下手なことは出来ねぇだろ」 「……そうでもないですわ。あれは、わたくしのために行っていることらしいですから」 「お前のため? 何だそれは」  彼女の言葉の意味が分からずに問い直す。彼女はちらりとこちらに視線をやると、「フィフラル帝国の皇家では、あまり馴染みのないことかもしれませんね」と呟いた。 「この国、ラティティリスの王家は、ラティティリス王国が出来た時からずっと、近親婚を繰り返しております。王家の血を第一に考える国なのです。例外は、他国の王族を伴侶に迎えた場合くらいでしょうか。ランドル殿下など、王家の血を完璧に受け継いだお姿と言えるでしょう。……ですが、近親婚を繰り返すということは、……ザイル殿下であれば、どういうことかお判りでしょう?」  ラティティリス王国の歴史については一通り目を通していた。もちろん、その王家の在り方についても。  近親婚。血の近い者同士を娶せる、その血筋のみに重きを置く考え方。今よりも昔、親類はおろか、兄妹間での結婚もあったという。  そして、血が近い者同士が婚姻し、その血がより近くなったとするならば。 「……弊害として、子が出来にくくなるだろうな」 「その通りですわ」  ……だからこそ、正妃の子はランドルのみ、か。他に二人いる王子も、二人いる王女も、皆側妃の子だったはず。  ランドルは二人の王子よりも後に生まれた子であり、第三王子と聞いている。しかしその血の濃さにより、王太子となったということだろう。  そして、ランドルが今ああして他の女子生徒と会っていることが、この少女のためである、というのはおそらく。 「……子を為すという務めをお前が果たさずとも問題ないよう、今から側妃を見繕っている、というところか」 「ご名答ですわ。ザイル殿下」  切なげな笑みを浮かべて言う少女に、思わず眉根を寄せる。フィフラルでは考えにくい話だったからだ。  血筋に重きを置くラティティリス王国と違い、フィフラル帝国では国益と感情に重きを置く。皇帝は必ず他国や自国の貴族の娘と婚姻し、皇家との仲を深める正妃を置き、他に自らが望む者がいた場合はその者を側妃として娶るのだ。 「わたくしの父は、現国王陛下の従兄弟に当たりますの。姉妹の中でもっとも王家の者と姿が違うわたくしが婚約者として選ばれましたが、わたくしもランドル殿下も、子は難しいと理解しております。ですから、わたくしがランドル殿下に何を申し上げようと、意味はありません。あの方はあの方なりに、未来のことを、わたくしのことを考えておられますから」  「決してわたくしのことを蔑ろにしているわけではないのです」と、彼女は続ける。聞き分けの良い淑女であろうとするように。  全く、くだらない。 「そうして自分が泣くほど悲しんでいても、国のため、将来のため、自分のためと我慢するのか? くだらねぇな。さっさと結婚して、やることやって、子が出来なければその時また新たな妃を娶れば良いだけだろ。俺からすれば、王太子が言い訳作って女と遊んでるだけに見えるがな」  はっ、と鼻で嗤いながら言えば、少女は驚いたように目を瞠り、こちらを見た。当たり前だが、王太子のことについて、そのような物言いをする者などいなかったのだろう。吸い込まれるような空色の目が大きく見開かれ、じっとこちらを見ていて。  「ふふっ」と、彼女は初めて、楽しそうに笑った。 「そうですわね。確かに、そうだわ。現にランドル殿下が伴っているのは、いつも見目が良くて華やかな方々ばかりですもの。……わたくしのような地味な見た目の女は、好みではないというだけなのかもしれませんね」  自虐的なことを言いながらも、彼女はくすくすと笑う。その度に、銀色の髪が揺れて。日の光がきらきらと輝いているように見えて、思わず目を細めた。  確かに平凡な容貌で、その絹糸のような銀の髪以外、さしたる特徴もないと思っていたが。 「お前、名は?」  ザイルはそう、少女に問いかけた。彼女がレンナイト公爵家の令嬢ということは知っていたが、彼女自身の名前は全く覚えていなかったから。  少女は笑いを治めて、緩く口元に弧を描いた。柔らかく、慈愛に満ちた優しい微笑み。 「申し遅れました。わたくし、ランドル殿下の婚約者でレンナイト公爵の次女、ラテルティア・レンナイトと申します。以後、お見知りおきを。ザイル殿下」  上から降って来た声に頷き、「覚えておく」とザイルは応えた。口の中で小さく、その名を紡ぎながら。
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