第5話 王冠の気持ち。

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第5話 王冠の気持ち。

 くわりと、あくびを漏らす。足先が勝手にいつもの部屋へと向かおうとして、くるりと方向を変える。ここ一週間ほど、あの空き部屋には行っていないというのに、習慣というのは簡単には抜けないらしい。あの部屋に行けば、彼女がいるだろうから。  ……いや、もう来なくなったかもしれねぇな。  ラテルティアをあの講義室に招き入れた日に、翌日からも部屋を訪れるように頼んだのは自分だった。どうせすぐ窓の外でランドルたちの様子を眺めるぐらいならば、椅子に座って眺めれば良い、と。その間自分は丁度良い枕を使うことが出来るから、一石二鳥だと、そう思って。  フィフラル帝国の第二皇子の言葉を無視するわけにもいかなかったのだろう。ラテルティアは翌日から、毎日部屋を訪れるようになったのだ。ランドルたちがあの場所を訪れる日も、訪れない日も。けれど。  自分がいなければ、そんな話もないようなもの。  気まぐれな第二皇子は、また別の昼寝場所を見つけたと思っているかもしれない。そうして彼女はまた、窓の外で自分の婚約者と見知らぬ少女の逢瀬を目にして悲しむのだろう。いやむしろ、自分がいないことで、人目を気にせずにあの部屋を使っているかもしれない。  どちらにしろ、これ以上は自分が気にする必要のない話である。  そろそろ本気で別の昼寝場所を探さねばと思い、誰もいない講義棟を珍しく一人歩いている時だった。  「ザイル殿」と、声をかけられたのは。 「二か月半ぶりですね。同じ学園内といえど、学年が違えば会わないものだ」 「……ランドル殿」  金のさらりとした髪に、青い瞳。少なくとも、ここ一週間ほどは目にしていないその姿。ザイルはくっと片頬を持ち上げて、笑みの形を作った。「本当だな」と、皮肉気に呟きながら。 「面と向かって会うのは、あんたが俺に挨拶に来た時ぶり、か? 今日は女連れじゃねぇんだな」 「女連れ……? ああ、ラテルティア嬢のことですか。ええ。婚約者といえど、いつもいつも彼女を連れ回すわけにはいきませんから」  ザイルの放った言葉を都合良く解釈したようで、ランドルは柔らかく微笑んでそう返してくる。  さて、どうしようかとザイルは首を捻った。彼の解釈を受け入れるか、それとも。  ふ、と笑ってザイルは僅かに目を細める。「そうそう。その婚約者殿だ」と、続けた。 「ほら、黒い髪に青い目の。……いや、金髪に緑の目だったか? 赤い髪だった事もあったな」  にやにやと品の悪い笑みを浮かべて言えば、ランドルは一度ぴたりと動きを止めた後、ザイルの言いたいことを理解したらしく、その優しい笑みを消し去る。  「何が仰りたいんです?」と問い掛けてくる彼に、ザイルは笑みを乗せたまま「いや、別に?」と返した。 「随分早くから、側妃候補を漁っているようだと思ってな。俺の記憶が正しければ、この国じゃあ、国王は正妃を迎えて五年間は側妃を迎えられないはずじゃなかったか? 本来ならば、正妃から生まれた王子こそが、次代の王たりえるらしいからな」  その血筋に重きを置くゆえの決まり事。側妃が先に子を産んだとしても、正妃から生まれた子こそが正しい跡継ぎとなる。しかし、余計な争いの種を撒く必要もないため、五年間、正妃との間に子が生まれない場合のみ側妃を娶ることになるらしい。  フィフラルがラティティリスと同じ考えを持つ国でなくて良かったと、ザイルは心の底から思っていた。 「俺の見たところ、レンナイト公爵家の令嬢は正妃に相応しい知性と品格を持ってるようだが。ラティティリス国王も、国民も、あんたが彼女との間に子を持つことを願っているんじゃねぇか?」  国王はランドル自身の後ろ盾のために。国民は古くから続く王家の血筋を思うために。模範的な説教をするザイルに、ランドルはふ、と笑った。いつものお綺麗な笑みの中、ほんの少しの嘲りを溶かしたような、奇妙な笑みだった。 「他国の皇子殿下が口出しするような話ではないのでは? 私には私の考えがあります。国王の考えも、国民の願いも、きちんと分かっておりますから。……それにしても、随分とラテルティア嬢の肩を持つのですね。あのような女性がお好みでしたか?」  鼻で嗤うように言うランドルに、僅かに目を細めるも、「はっ」と笑い飛ばす。「随分な言いようだな」と、嘲り返すように。 「あんたみたいに、美々しいだけの女に惹かれる気がないだけだ。聞いたところによると、あんたのお相手の中には、貴族位ですらない庶民もいるみたいじゃねぇか。貴族が思い通りに動かないから、国民の支持を得ようというところか? レンナイト公爵家の令嬢は、あんたには荷が重すぎたわけだ」  くつくつと、人の神経を逆撫でするように笑い続けるザイルに、ランドルはぴくりとその瞼を揺らす。「荷が重いも何もない」と、彼はぼそりと呟いた。 「彼女は、王冠です。私を王であると周囲に示すための完璧な王冠。王家の血筋が大事だというが、私が生まれたのがそもそも奇跡だったと皆が言う。子を為すという役目を負わせることの方が、彼女には荷が重いはずですよ」  だから先に、子を為す相手を見繕っているのだと、ランドルは自分の正当性を主張する。当然のように。  「馬鹿じゃねぇか?」と、ザイルは知らず、呆れたように呟いていた。 「あんたが言っているのは、彼女という人格を無視した詭弁だ。荷が重いはずというならば、そもそも彼女を正妃に迎えなければ良い。古い考えの奴らは反対するかもしれねぇが、貴族の中には、王家の血筋じゃなくとも自らの娘を王妃にと望む者も多いだろう。本当に彼女を想っての行動なら、そのくらい考えろ。その権限が、あんたにはあるだろう」  彼を想い、苦し気な瞳で見つめる彼女が脳裏に浮かぶ。ランドル自身に彼女を顧みる気持ちがないのならば、婚約者としての縛りから解放するべきだろう。正妃という辛い立場だけを押し付けるべきではないはずだ。  彼女自身がそれを、望まないとしても。  けれどランドルが頷くことはなかった。それどころか、「他国の方は、気楽で良いですね」と、嗤った。 「王族だからと言って、彼らが私の言うことを聞くはずがない。この国はもう、王を中心とした国ではないのだから。国民にはそう見せかけていても、その実権はレンナイト公爵を始めとする貴族たちが握っています。……私が王として認められるには、ラティと結婚するしかないんですよ」  筆頭貴族の令嬢を迎えることにより、王と認められる。まさしく、彼女は王冠なのだろう。ラテルティアという一人の人間ではなく、王を王たらしめるための王冠。  めんどくせぇと、思った。 「……そこまで分かってんなら、悲しませるようなことすんなよ」  ぼそりと、ザイルは呟く。ランドルの言い分では、ラテルティアが彼から離れることは決して本意ではないだろうから。  ランドルは一つ息を吐くと、いつも通りの柔らかい笑みを浮かべた。「大丈夫ですよ」と、言いながら。 「彼女は私のことを愛していますから。彼女から婚約を破棄することはあり得ません」  自信に満ちた声音。彼女の好意を知っていながら、それを踏みにじることをしておきながら、その好意ゆえに許されると信じている。  なんて、胸糞悪い考えなのか。  「そうか」と言いながら、深く、ザイルは息を吐いた。これ以上、何を言っても無駄だと思ったから。  ランドルはその笑みを消さぬまま頷き、「それでは、また」と言って去って行った。後ろ暗いことなど何もないというような、綺麗な笑みで。 「……胸糞わりぃ」  ザイルからすれば、彼もまた、ただのお飾りの王太子。自分の意思を都合よく解釈する、我儘なお坊ちゃんに過ぎない。  だからこそ、このラティティリスの王族はその力を失いつつあるのだろうけれど。  ……いや、人のことばかり言えねぇか。  祖国でザイルのことを心配しているであろう、兄を思う。次期皇帝たるに相応しい人。彼に比べれば、自分もまた我儘で、傲慢な考えの持ち主でしかないだろう。  彼の邪魔になることを避けるためだけに、自分を心配する彼に何も言わずに、こうして隣国に逃げ出したのだから。  自分が逃げ出したことによって生じる、国内の、王宮内の問題も、投げ出したまま。  だが、ここまですれば、皆分かるだろう。エリル兄上こそが、次代の皇帝に相応しいと。  決して無意味ではなかったはずだと、ザイルは背後を振り返った。気を取り直して、新たな昼寝場所でも見つけようかと顔を上げて。  廊下の先の角を曲がる、銀色の髪の後ろ姿を、見つけた。きらきらと、陽の光を反射する美しい銀。そんな珍しい髪を持つ者は、この学園に一人しかいない。 「……! まさか……」  はっと目を見開き、ザイルは走り出した。嫌な予感がした。  いや、確かにこの先にはあの講義室があって。彼女がそこにいるかもしれないことには気づいていたけれど。  何でこんな所に。こんな時に。  真っ直ぐな廊下を進み、角を曲がる。視線の先には、制服のスカートを翻して走る一人の少女。 「おいっ! ……っ。ラテルティアっ!」  声を張り上げれば、彼女はその速度を緩め、立ち止まった。とぼとぼと、力なく。  あと数歩の所まで走り寄ったザイルは、何も言えずにその場に立ち尽くす。彼女は一体、どこから聞いていたんだろう。自分と、ランドルの会話を。彼の言葉を聞いていたならば、彼女はきっと悲しんでしまう。どうか聞こえていないでくれと祈りながら、「ラテルティア?」とザイルは再度、彼女の名を呼ぶ。  くるりと、彼女は振り返った。いつも通りの、淑女の笑みを浮かべながら。 「ザイル殿下に名前を呼ばれるのは、初めてですわね。ふふ、新鮮な感じですわ」  いつも通りの声音。仮面のような笑み。  なぜだろうか、いつもの彼女と、寸分変わらぬ姿だというのに。  ザイルはその端正な顔を思いきり顰めた。 「……どこから聞いていた」  静かに問いかける。嫌な予感がしていた。ずっと。彼女の後ろ姿を見た時から、ずっと。  「何も」と言って微笑む彼女に、一歩近づく。びくりと、彼女の肩が揺れた。 「見え透いた嘘はやめろ。さっさと言え。……どこから、聞いていた」  一歩、また一歩。近づくたびに、彼女は僅かに後ろに下がる。少しずつ、その顔から笑みを消しながら。 「何も。……何も、聞いておりませんわ」 「……そんな顔してんのにか」  笑みが消え去った彼女の顔に浮かぶのは、いつもと同じ、いや、それ以上に深い、悲しみの色。胸の前でぎゅっと手を握り、銀色の長い睫毛に縁取られた瞳はゆらゆらと揺れる。  誰もいない廊下は、しんとただ静まり返っていた。ザイルはじっと、口を噤むラテルティアを見据える。  永遠にも似た無音の時を破り、「わたくしは……」と、彼女はぽつりと呟いた。 「わたくしは、……人間ですわ。物じゃない。……王冠なんかじゃ、ない」  俯いた彼女の声は、震えていた。 「子供だって、出来ないかもしれませんわ。殿下が生まれたのが奇跡だと言われていたことも、知っています。でも、一人の人間として、尊重してくれているのだと。……あんな風に、ただの飾りのように、思われていたなんて……」  ぽと、と音がした。ぽと、ぽとと。床に落ちるのは、透明な。  それを目にした瞬間、ざっと頭に血が昇った。思いきり一つ舌打ちをして、乱暴に頭を掻き乱し、ラテルティアの方へと歩み寄った。小刻みに揺れる肩を掴み、自らの腕の内に閉じ込める。細い体。柔らかい髪。  こんな風に触れるつもりはなかったのに。こんな形で触れたかったわけじゃないのに。  誰よりも自分が、許せなかった。 「……悪かった」  銀色の髪に息を吹き込むように、ザイルは静かに、そう告げた。「俺のせいだ」、と。 「俺が煽ったから、ランドルはあんなことを言っただけだ。本心じゃない。だから……」  泣くな。  ただそれだけを思い、ぎゅっとか細い身体を抱き締める。彼女に泣いて欲しくなかったから。彼女に声をかけたあの日も、今も。なぜそんな風に思うのか、自分でもよく分からなかったけれど。 「……いいえ、ザイル殿下」  言い募るザイルに、ラテルティアは小さく呟いた。涙で濡れた、震える声で。ぎゅうとザイルの制服を握りしめながら。 「うすうす、分かっていましたから。……分かって、いたの。だから、ザイル殿下のせいじゃないの。……ただわたくしが、弱いだけなの。気付かないふりをしてただけなの……」  ぽろぽろ、ぽろぽろ、ラテルティアの目から零れ落ちる涙は、ザイルの制服のシャツに吸い込まれていく。甘い香り。温かな体温。彼女は確かに、ここにいた。心のある、人間として。  王冠だなんて。飾りだなんて。嘘だ。  彼女は生きているのに。意志を持って、生きているのに。  愛していたのに。 「何で……」  あんな男のことを。  口に出そうとして、閉じる。その言葉に、意味などないから。彼女とあの男の間に、自分が入り込むことは出来ないから。  ……せめて、フィフラル帝国の、貴族同士の婚約だったなら。  自分が口を挟む隙もあったかもしれないのに。  隣国の王太子と、筆頭公爵家の令嬢の婚約。いくらフィフラル帝国がラティティリス王国よりも力のある国で、優位に立っているとしても、して良いことと悪いことがある。これは、どうしようも出来ないことだ。  ……本当に? 「……今でも、あの男を……、ランドルを、愛していると言えるか」  くぐもった声で問いかける。あのような話を聞いても、なお、彼女の気持ちは変わらないのだろうか。  ラテルティアは少しだけ躊躇うような間を開けた後、「分かりません」と小さく呟いた。 「今はただ、悔しくて、悲しい……。それがランドル殿下に向けた気持ちなのか、自分自身に対する気持ちなのかも、よく分からない……」  肩を落としたまま、彼女はぽそぽそとそう続ける。自分の感情に戸惑うように深く息を吐いて。  はっと、ラテルティアは顔を上げた。 「……っ、ご、ごめんなさい、わたくし、ザイル殿下に……! シャツも汚してしまって……」  目元を赤くしたラテルティアは、慌てて後ろに下がる。涙を吸い込んだシャツに触れ、申し訳なさそうな顔でこちらを見上げる彼女に、ザイルは軽く息を吐いて、その銀色の頭を撫でた。  「気にすんじゃねぇ」と、言い聞かせながら。 「俺が勝手にやっただけだ。……行くぞ。昼寝の時間がなくなる」  がしがしと頭を掻いて、彼女の傍らを通り過ぎ、ここ一週間ほど近付かなかった空き部屋へと足を進める。「は、はい」と言うラテルティアの声が背後から聞こえ、それと共に彼女の軽い足音が響き始めた。廊下には、二人分の足音だけが満ちる。  彼女が遅れないよう、いつも以上に緩慢な動きで足を進めながら、ザイルはその目だけを俯かせる。  先程まで、ほんの少しの温もりを感じていた腕は、夏も近づく陽気の中、やけに寒々しく感じた。
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