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第6話 舞踏会の夜。 後
バルコニーに佇むその姿を目にして、ザイルは足早にそちらへと向かった。月明りは彼女の銀の髪を、そしてその白い肌を神秘的に輝かせる。
「おい」と、ザイルは彼女の背に声をかけた。
「何してんだ。こんなところで」
「え? あ、ザイル殿下。ご機嫌麗しく……」
月明りに輝く銀色の髪を両側から緩く結い上げ、落ち着いた藍色のドレスに身を包んだラテルティアは、ザイルの姿を目にするとすぐに慣れた様子で礼の形をとる。きらきらと、ドレスの刺繍やビーズが輝き、ザイルは思わず目を細めた。
胸元は過剰な露出を避けるように首元まで襟があり、反対に鎖骨の半分あたりから肩にかけて肌があらわになっている。彼女の華奢な体格が際立つ、膨らみの少ないスカート。今の彼女の姿を一言で現すならば、清楚という言葉が一番的確だろう。華美になりすぎず、それでいて華やかなその装いは、穏やかな雰囲気を持つ彼女によく似合っていた。よく似合っているのだけど。
……気に食わねぇな。ドレスも宝石も、あいつから贈られたものだと思えば。
女性の夜会用のドレスや宝石を贈るのは、婚約者ならば当然のこと。
我知らず、眉根を寄せながら彼女の姿を眺めていたザイルに、ラテルティアは困ったような顔で「殿下?」と問いかけてくる。その戸惑いを含んだ声にはっと目を瞠ると、ザイルはいつもの調子で「質問に答えろ」と呟いた。
「王太子ならさっき広間を出て行った。それなのに何故、お前はここに一人でいる」
取り繕うように早口で言えば、ラテルティアはぱちぱちと瞬きをして、苦笑交じりに口を開いた。「お分かりでしょうに」と、言いながら。
「先程、貴方様がレナリア様と一緒におられたでしょう? ランドル殿下は気が気じゃなかったようですわ。ザイル殿下に取られるとでも思ったのかしら。今頃、お二人でどこかの控室にでもいらっしゃるのでは?」
どこか投げやりなラテルティアの言葉に驚く。おそらくは、彼女の言う通りなのだろうけれど。
「お前はそれで良いのか」と呟けば、彼女は困ったように笑って、「いつものことですから」と答えた。
「あの方は貴族でも裕福な家庭の方でもありませんから、ドレスを贈って着飾らせて、必要な挨拶だけわたくしを連れて行き、それが終えたら二人でさっさと消えてしまいますの。……困ったものですわ。婚約している立場なのですから、もう少し節度を持って頂けないかしら。お父様の目を誤魔化すのに苦労しているというのに……」
疲れたように言い、ラテルティアはバルコニーの手摺へと近づいていく。夜空を見上げるように顔を上げた彼女は、何かを諦めたような笑みを浮かべていた。
「わたくしもやっと、現実を見ることが出来るようになったということでしょうね。彼がわたくしではない誰かと姿を消しても、今までならばこんな風に思うこともなかった。何か理由があるんだと思い込もうとしてましたもの。……どのみち、王家とレンナイト公爵家の間で結ばれた婚約ですから、破棄されることなんてありえませんし。全てを理解した上で、彼の言う『王冠』として嫁いだ方が、気は楽ですわね」
ふふと、笑ったラテルティアの横顔からは、全てを悟ったとでもいうような諦念が滲み出ていて。思い切り、舌打ちしたくなった。本当に、ただただ気に食わないのだ。自分には関係のない話だと思えば、それまでだというのに。
今すぐここを立ち去った彼女の婚約者を追いかけて、言ってやりたい。これが、心無い『王冠』の姿かと。こんなにもか弱く、苦しそうに笑うのに。
……そんな顔で、笑うな。
思いきり顔を顰め、がしがしと整えていた髪を乱すように頭を掻くと、荒く足音を立てながらザイルは彼女の方へと歩み寄った。「レンナイト公爵令嬢」と、格式ばった名で呼びかければ、彼女は驚いたような顔でこちらを振り返った。
「私に、貴女とダンスを踊る栄誉を、どうか」
遠くで流れていた曲が終わり、新たな一曲へと空気が動く。願い出るような口調で、しかし有無を言わせない声音で、すと手を差し出せば、ラテルティアは少し困ったような表情になった後、ふっと笑った。
「喜んで」と言って、白い手袋に包まれた手を差し出す。自分の物よりも一回り以上小さな掌。優しくその手を掴んで、自分の方へと引き寄せた。広間はあまりに人が多く、先程ダンスは踊らないと断った手前、戻るのも気が引ける。広いバルコニーで、遠く聞こえる音に乗って身体を動かした。ゆっくり、ゆっくりと。
彼女を攫う方法が、全くないわけじゃない。
甘い香り、穏やかな笑み、細い腰。こちらを見上げてくる青い瞳が室内の灯りを溶かしてきらきらと光る。がらにもなく、綺麗だ、なんて思いながら、ゆるゆると頭を巡らせる。簡単には、二つほど。
例えば真っ正直に、彼女を気に入ったから寄越せと告げる方法。フィフラル帝国の怒りを買いたい者などこの大陸にはいないから、出来ない話ではないだろう。もちろん、国同士の火種になるので、全く推奨できないが。
もしくは、既成事実を作ってしまう方法。その身体を暴き、無理矢理自分の物にしてしまえば、王太子の婚約者には相応しくないと言う者が出てくるだろう。これもまた、国家間の火種になるうえ、彼女の名誉にも関わるので絶対に有り得ないが。
自分は、彼女を悲しませたいわけでも、無理矢理自分の物にしたいわけでもない。合法的に、周囲を納得させた上で、自らの意志で自分の元に来てくれないだろうかと願っているだけで。
自分の腕の中で、くるくると踊る少女を眺めながら思う。ああ、そうだ、と。
……俺は、欲しい。彼女が、ラテルティアが。このままこの手を離したくないと、そんな馬鹿げたことを思うぐらいには。
「ザイル殿下?」
あまりにじっと見つめるものだから、ラテルティアは戸惑うようにこちらを覗う。上目遣いに、上気した頬、ことりと傾げたその様子。ああ、そうかと、ザイルは知らず苦笑した。今更分かってしまった。解放したい、救いたい。それが知らない内に、自分の傍に彼女を置きたいと願うようになっている。彼女の意志でと、『傲慢』な第二皇子らしくもなく。
どうやら、自分は。
彼女を、愛してしまったらしい。
「ザイル殿下? どうされましたの?」
急にくつくつと笑い出したザイルに、ラテルティアはまたも不思議そうに問いかけてくる。心配そうな表情で。
ああ、なんて、愛らしい。
「いいや。何でもねぇよ」
どうりで、彼女の傍にいない時も、彼女のことを考えていたりしたわけだ。今はどこにいるのだろうか。またあの王太子と別の女との逢瀬を目にして傷ついているのだろうかと。恋に溺れた乙女でもあるまいに。
まあ、乙女の方がもっと、甘い願いを持っているだろうけれど。
ああ、俺らしくねぇ。だが、……悪い気もしねぇのな。不思議と。
ここでこうして二人でダンスを踊る、それだけで、案外と幸せな気分になっているのだから。
まあ、あわよくばこのか細い身体を掻き抱いて、柔らかそうな唇を貪って、そのドレスを剥ぎ取ってしまいたいと思う自分がいるのもまた、事実ではあるけれど。そうしてしまえば、彼女の心は一層離れてしまうと思えば、そんな欲望も沈めることが出来る自分が心底可笑しかった。
「なあ、ラテルティア。教えてくれ」
ぽつりとそう、口を開く。彼女はこちらを見上げて、ぱちぱちと瞬きをした。
「あの時の問いの答えを。……お前は、今でもあの男を愛してるのか。婚約者でいたいと思うのか」
いつもの、押し付けるような口調ではない、僅かに怯えの混じった問いかけ。自分らしくもないと思いながらも、静かに問いかければ、ラテルティアは少しだけその目を瞠って俯く。諦めたような笑みを浮かべて、その首を横に振りながら。
「ランドル殿下を愛しいと思う気持ちは、確かにあります。けれどそれは、あの言葉を聞く前の焦がれるような気持ちではなく、胸の奥に居座るしこりのような冷めた物。幼馴染がゆえの情、と言う方が近いでしょうね。わたくしたちの婚約は、決してなかったことにはなりません。何の感情も伴わない者同士の方が、政略結婚には都合が良いですから、ある意味では良かったのかもしれません」
王家と公爵家の間で決まった婚約。それが覆ることなど、基本的に有り得ない。それを理解した上での、彼女の言い分は大いに理解できる。王冠と言われ、焦がれるような想いを失ったとしても、幼い頃から共にいたという親愛の情があれば、彼女の言う通り政略結婚の後も上手くいくのかもしれない。けれど。
自分が欲しかったのは、そういう答えじゃない。
「もし、お前にも、あの王太子にも大した影響がない状態で婚約を解消できるなら、したいと思うか?」
自由が欲しいと、望むか。
驚くように顔を上げた彼女を真っ直ぐに見つめる。普通に考えれば、有り得ないだろう。レンナイト公爵家はともかくとして、王家は彼女を、公爵家との繋がりを失うわけにはいかないのだから。
それでも、もし、があるならば。
ラテルティアは周囲を覗うように視線を動かした後、小さく息を吐いた。
「出来ることならば。次の婚約が決まるまでの一時だとしても」
真っ直ぐにこちらを見上げて呟かれた言葉。公爵家の令嬢として、政略結婚は免れないと、彼女は理解している。その上で。
彼女の答えに、ふっと、ザイルは笑った。それだけ聞ければ、十分だった。
彼女が、ラテルティアがそれを、望むならば。望んでくれるならば。
「毎日、心地良い寝床を提供してくれるお前にプレゼントだ。……待ってろ。自由にしてやるから」
「え? それは……」
どういうことかと聞きたげな表情でこちらを見るラテルティアにザイルはただ笑みを浮かべた。傲慢とも傍若無人とも違う、自信に満ちた笑みを。
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