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子供の頃、雨が降ると、両親は学校まで車で送ってくれた。
だから雨の日はいつもよりちょっとのんびりすることができて、朝ごはんの後、特別にホットミルクを飲んだりした。お父さんはブラックコーヒー、お母さんはカフェオレ。お揃いのカップを持ち、3人で、テレビ番組の朝の占いなんかを見ながら、一緒に過ごした。そんな朝のひととき。雨音は幸せの音だった。あの頃の私にとっては。
私はもう少しだけでも優秀に生まれてくればよかったと思う。
そうしたら、私はこんなことを親にさせたりはしなかっただろう。「やめて」と一言、そう言えただろう。こんな気味悪い電子の牢獄には入れないでくれと。もしそんな勇気があれば、私にそんな知恵があれば、「何もしなくたっていいからただ生きていて」と、そう言ってもらえたことだろう。あなたがいるだけで幸せだと、そんな、常套句のような言葉を。たとえ嘘でも。
雨音を聞いたら、きっと泣いてしまう。
なんとなくそんな予感があったけれど、その予想は当たらなかった。
スピーカーから流れ出す雨音を聞いていると、これまでになく、私の心は満たされていくようだった。落ち着くというか、しっくりくるというか。この楽園にたどり着いてから……いや、現実世界にいる時からずっと、自分の居場所はどこにもない感じがしていた。でも今、肉体を離れ、拍動さえ聞こえない完璧な静けさの中で、降りしきる雨の音だけを聞いているこの時、私はようやく気が付いた。
私はずっと、雨の中にいたのだ。
一体いつからだろう?
それはわからなかったけれど、それでも今、これだけはわかる。私はずっと、止まない雨の中でひとりぼっちで生きてきた。冷たく、非情に、地面を打ち付ける雫の音。それだけが私の居場所。私の故郷。白く煙る闇の中、何も見えない永遠の雨——そこにほのかに宿る、幸福の幻影。
どうせ晴れようが曇ろうが、ここには何も、本物などない。
すべてが嘘の、まやかしの国だ。いくらもので満たしても、最後にはすべて消えて無くなる。嘘で作ったものなんて、結局紛い物でしかないのだ。
死に安楽なんてない。生に安楽なんてない。
ただ残るのは、己の魂に刻み込まれた何かだけだ。
「全トラック、再生しました。プレイリストを作成してリピートしますか?」
天使気取りのAIが、そんな提案をしてきた。
私は少し気楽な気持ちで、そうするように言う。今日は夜通し、たとえ録音された味気ないものでも、雨の音を聞いていたい気分だった。夜は静かで、外も暗くてよく見えないので、「本当に雨が降っている」と空想するにはうってつけの時間帯だ。それにもし朝や昼に聞いて、誰かに見つかりでもしたら、多数決で雨は要らないというのに賛成した手前ばつが悪い。その上、見つかって勝手に真似されて、みんなが雨音を聞くようになったりなんかしたら、もっと嫌だ。この雨は、私だけが独占していたい。
空想上の、まがい物の。
でもどこか甘美な、本物の雨。
それを味わっていいのは、この楽園では、私だけだ。
「プレイリストを作成しました。それでは再生を開始します」
ソファに寝転がり、目を閉じた。ここでは唐突に死が訪れることはなく、ある一定の時間が過ぎたら、各自が任意で『エンドゲート』と呼ばれる門をくぐることで、意識を完全に無に帰するシステムになっている。突然死ぬことを心配しなくていいのは、この国の唯一いいところと言えた。
私はこれから無数の夜を、雨音を聞いて過ごすだろう。
きっとそれはもう、未来永劫変わることなく。飽きることも、朽ちることもなく。毎日生まれ変わるように、過去を洗い流すように、私は雨と共に眠るだろう。この国の何よりも本物の雨と一緒に。永遠よりも長い永遠を。
だって明日も、どうせ晴れなのだから。
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