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明朝――なのかも判然としないが、兎に角、彼は叫喚地獄じみた雨音に刺激され、ふと目を覚ました。
極めて残念なことに、雨足は一切弱まっていおらず、寧ろ水を得た魚みたいに、盛んになっているくらいだった――魚というより、水そのものだけど。
「やぁ、お譲さん」
上体を一息に持ち上げて、先とまるで変わらぬ姿勢の少女に挨拶をした。
彼女は1度言い淀んでから「おはようございます」とぎこちなく返答する。それから、自分で自分の言葉が信じきれないように、不安そうな表情を浮かべた。
やはり、ペラペラと喋りかけるのは悪いかもしれない、と青年が思いかけた時
「あの、お腹……空いてませんか?」
と寧ろ彼女の方が尋ねてきた。昨日の様子を踏まえて考えると、少し意外だった。
「そうだな。腹は減ってる」
「あ、良かった。それなら……」
と、彼女はどこから持ってきたのか、足元の木製の小皿を指差して「どうぞ」と言った。皿には野草だの、川魚の刺身、らしきもの――見よう見真似なのか、妙に不恰好だった――だのが盛り付けられている。
「これを君が?」
少女は非難されたように身をすくめ、極小さな所作でそれを肯定した。
この豪雨の中で、採取と釣りに出かける筈もない。ならば、この食料類は備蓄されていたと考えるのが自然だ。青年は思わず失笑する。
つまり、この洞窟は少女のものなのだ。
色々と込み入った事情があるのだろうが、ここに彼女が集めた食料が備えられているのは疑いようがない。そういうことも、たまにはある。
「じゃあ、いただこう」
青年は居候として皿をうやうやしく受け取り、結局、丁寧に全てを平らげてしまった。
「どうでしたか?」
と少女が尋ねる。答えは「美味かった。ありがとう」以外、ありやしないのに。
ところが、返事を聞いた途端、少女はそれが大きな名誉みたいに、パァッと表情を明るくした。人に褒められることが、そんなに嬉しいものなのだろうか。
しかし、だ。ずっと他人と隔絶された環境で生きていれば、幸せの感度が高まってしまうのかもしれない。彼女が自ずから、洞窟を住処にしていないのならば――どうせ、おかしな風習の所為で、山奥での生活を強いられているのだろう。
しかし、それが分かったからと言って、救える訳でもない。だから彼は、再びごろりと寝転んだのだが、
「あ、あの!」
なんて必死な声を少女が出した。青年は少し驚き、少し憐れみ、なるべく柔和そうな表情を作って起き上がる。
少女は面接でも受けるみたいに、背筋をピンと伸ばしている。そういう風に見えるのは、かなり緊張しているからだろう。
「どうした?」
「あ、えぇっと……貴方は、どこから来たんですか?」
自分から聞いた癖に、彼女はとんでもないことを言わされたように、口をつぐんで気不味そうにしている。
「東京。分かる?」
「え? あ、はい。分かり、ますけど」
分かったら不味かったかな、とでも言うように、彼女は不安げに首を傾げる。流石に、それくらいの知識はあるようだ。
「それで……東京から、何しに?」
「別に目的があった訳じゃない。追い出されちまったものだから、何となく来ただけの……」
と、そう言いかけて、彼は咄嗟に口をつぐんだ。しかし、概ね心得てしまったらしく、少女が少しだけ、藍色の目を伏せる。
勝手な同族意識からか、つい気を許してしまったようだ。この失敗は彼の19年の人生の中でも、上位に迫るものだった。
「貴方も、あ、いえ、そうじゃなくて、その……家から縁を切ら、れて?」
どういう顔をすべきか、てんで分からなくなったらしい。楽しいのか悲しいのか、判断のつかないような表情を少女が浮かべる。
やはり、同情されてしまったらしい。そんなに陰鬱な話でもないのだが、そう聞こえてしまうのも仕方がない。
「そんなところだが……君も同じ?」
苦笑気味に問いかけると、彼女も釣られるように苦笑いを返した。彼女の方も、あまり面白い話ではないだろう。
「……分かります?」
「分かります。何せ似通ってるからな」
とは言ったものの、彼は内心、その言葉に違和感を抱いていた。というのも、彼は迫害されて尚、人恋しさだとか、他人への強い興味だとかを抱ける気が、まるでしていなかったからだ。だから、彼女のそういう点について「分かる」とは言えない。
「でも、それでどうしてこんな山の中に?」
少女はそう尋ねて、洞窟の外へ視線をやった。親近感を持ってくれたのか、幾分か、緊張も和らいだように見える。
しかし、それは喜ばしいことなのだろうか? 青年は無造作に転がった猟銃を眺め、やや苦慮した後、
「依頼の遂行」
と酷く大雑把な答えを返した。
少女は天才数学者の話でも聞くように、ぽけーっと目を丸くして「依頼の遂行?」とオウム返しする。
「面倒な話なんだ。気にしないでくれ」
それに、こんな話をするのは馬鹿馬鹿しかった。
青年が山麓の村で受けた依頼は、山に住み付いたとされる、ある妖怪の討伐だった。曰く、その妖怪は雨雪を呼び起こし、以って人間を苦しめるのだという。
たまたま、雨が多い地域に生まれてしまったものだから、皆して下らないホラ話を信じているのだろう。しかし、青年としてはまともに聞くことすらおかしな話だ。飯がたかれれば、それだけで良かった。
「……しかし、君も大変だな」
ふと思いついて、彼はうっかり言葉をこぼしてしまった。瞬時、その呟きが雨音にかき消されたことを期待したが、
「大変、って?」
と少女が純粋そうな視線を向けてくる。どうも口が勝手に動いて、いけない。
しかし、彼はそれらのことをウジウジ反省するよりも、寧ろヤケクソじみた行動力を発揮するタイプだった。だから、彼は極々素直に、以下のようなことを述べた。
「妖怪に捧げられた生贄なんだろう? 君は」
少女は突然のことにキョトンとして、目をぱちくりと瞬かせている。
「幻想の妖怪の気を鎮める為に、君は追放されて、そしてここにいる。違うか?」
少女は「はぁ……」と気の抜けた返事を寄越し、やがて「そうですね……」「そうかも……」「そうだなぁ……」とぶつぶつ呟き出した。
もしかして、本当に違っていただろうか? 青年は今になってその可能性に突き当たり、顔をしかめる。しかし、特別な謂れもなく、少女が村八分になるとは思えない。
「うん、でも、まぁ……」
それから少しどもり、背中の方で手を組む。
「確かに、そうですね」
「確かに、か」
青年が肩をすくめる。どうやら、そんなに簡単簡潔なことではなかったようだが、詳しく詮索する必要もなかった。
「けど……そうですね。大変なのは、本当かも」
そう言いつつ、彼女はコロコロと笑った。その姿は見ているだけで気分も解れたが、少し居た堪れなくもあった。
「喋り方も、忘れちゃうし……けど、だから、貴方が来てくれて、嬉しかったです」
果たして、青年は思わぬセリフに不意を衝かれたこともあり、ちらと目を逸らして「そうか」と返すのが精一杯だった。これだから、純真な人間と話すのは疲れる。
彼女は何の気もなく、素直に青年の目を見ている。態々おべっかを言って、上手く立ち回ろうとしている顔には、決して見えなかった。
「……そうか」
彼らはそれから、特段踏み入った事情は聞かず、軽い話題を幾つか回しながら、夜更けを待った。
時に純真さは、人を傷つける格好の刃になるのだということを、彼は久し振りに思い出していた。
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