孤雨

3/7
前へ
/7ページ
次へ
目が覚めた瞬間に、彼は苦渋に満ちた顔で跳ね起きた。 雨、いや、大雨。 「ど、どうしましたか?」 既に起床していたらしい少女に、軽く手で応じる。 雨が降っているからと、落胆する程のことではない。昨日に比べ、精神的なショックも大分抑えられている。問題なのは、幾らか安心したことだった。 さて、溜息でも吐こうかと彼が考えたその時に、少女が2度、3度と続けて咳をする。 かくも雨が降り続くのは、やはり珍しいのだろうか? 風邪でも引いたのかもしれない。 「寒いか?」 「あっ、いえ……はい、寒い、です」 どっちだよ、と言いたくなるのを堪え、青年は小さく頷いた少女にコートを放った。突然のことで受け止められず、少女の頭にコートが被さる。 「着れば、まだましになる」 「え、でもっ」 「暑がりなんだよ、僕は」 頬の辺りをかきながら、青年がボソッと素っ気無く言った。 「あ、ありがとうございます……変ですよね、こんなの」 「何が?」 「……いえ」 しおらしく頭を下げて、少女はコートをえっちらほっちら身に纏った。その隙にちらと見ると、彼女は表情こそ明るくとも、顔面はますます白っぽくなっていた。墓場にでも出現しそうなくらいに。 いや、しかし、と彼は考える。今まで1人で、誰の助けも借りずに生き延びてきたのだから、態々心配してやることはないのだ。それに、体調が急に悪化するようなことがあれば、背負ってでも山を降りればいいだけのこと。 「天パがちーぢむ、天パがちーぢむ……」 素知らぬ振りで、いつぞやか聞いた歌を口ずさんでいると、少女がまたも咳をした。先程よりは、ずっと小さな所作で。 その姿には気品すら感じられて、青年はぼんやりと、少女のことだけを見つめていた。あぁ、まだ寝ぼけているんだなと、酷く冷静な自分が心中で呟く。 「……大丈夫です」 と彼女は言う。どこかの国の姫様が、臣下に「心配するな」と言い添えるように。 「気にしないで下さい。ホントに……」 「何を?」 反射的に返答し、彼は至って自然に口角を吊り上げた。 「僕はそんなことを聞いたつもりはない」 彼はそこで言葉を途切って「しかし、だ」と付け加えると、少女が身に着けたブカブカのコートに、正確にはその袖に手をかけた。少女がビクリとするのも構わず、余剰分の袖をまくっていく。やはり、少女は幼子のように無抵抗だった。 やがて、青年は作業を終えて、 「これが気になってな」 と嘘でも真実でもないことを平然と口走った。 少女は僅かに紅潮させた頬をぺたぺたと触り、殆ど呆然としている。本音を葬ってしまう分には、慌てて否定するよりも、ずっと有効な手段だったらしい。 「……目、悪いのかと思ってました」 少女が心ここにあらずといった調子で、ようやくそんなことを呟いた。 「てっきり、全然見えてないのかと」 これは驚くべきことだ。青年は「よく分かったな」と素直に称賛し、以って肯定とする。少女が混乱したように「え?」と声を漏らした。 「確かに僕の視覚は異常だが、君の姿はちゃんと。まぁ、説明は省かせて貰うがな」 「……はぁ」 「目は悪いが、見えてる」 「……何だか、腑に落ちませんけど、分かりました」 気弱な少女にしては珍しく、不満を堂々と口にしてから言葉を締めた。恐らく、無意識のことだろう。それ程に、青年の目のことが気になっているらしかった。 しかし何にせよ、青年は自分の目について、誤解を与えないように話せる自信がなかった。至極単純に「人の心が外見として見える」と言っても、よもや信じてはくれないだろう。 まぁ、そんなことはどうでもいい。よくあることだ。 「……多分、貴方は色々なことを隠してますよね」 「当然ですけど」と付け足して、少女が小さな手をきゅっと握る。 「君もだろ?」 「だから言っているんです」 「へぇ、なるほどな」 青年がククッと意図的に笑い、ひっそりと溜息を吐く。考えてみれば、少女は青年にアレコレ尋ねるばかりで、自分の事情は殆ど話していなかった。 否、実際のところ、青年が興味を持っていないだけなのだ。彼女はそういう醒めた態度を指摘したくて、妙に遠回しに、あんなことを言ったに過ぎない。そういう確信というか、自負みたいなものが青年にはあった。 「悪い。なるべく、改める」 「だったら……ここから、どこへ行くんですか?」 少女の語調は、実に真剣だった。まるで、その問いの答え次第で、何もかもが決まってしまうみたいに。 「抽象的な質問だけど」 そう彼は前置きし、頭を捻る振りをした。結局のところ、答えは1つしかなかった。 「ここではないどこかへ、だな」 それだけのことだった。 少女は酷く穏やかに「そう」と返し、それから、降りしきる雨を眺めた。雨音は一層強まって、木々が揺すぶられる音を伴って大絶叫している。 灯滅せんとして光を増す。そんな言葉が、頭を過ぎる。 「……でも」 哀しい微笑を浮かべ、少女が独り言のように漏らした。その声は信じられないくらい透き通っている。 「雨が降っている間は、ここにいてくれる。そうでしょう?」 少女の表情は読めなかった。何と言って欲しいのかも、分からなかった。 それでも、初めて青年は、雨を美しく思っていた。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加