2人が本棚に入れています
本棚に追加
最終話
「それで、人間に戻れたってわけ?」
早紀は高級コーヒーのブルーマウンテンNo.1をすすりながら言った。今週は激務に激務が重なり、それを乗り越えた自分へのご褒美らしい。社会人の処世術なのだろう。
「うん、今はばっちり人間だよ。日の光を浴びても問題なし。体だって変化しないし、もう普通に死ぬよ」
私はかなり元気よく応えたと思う。それだけ嬉しいのだから。
私たちはいつもの喫茶店でいつものように夜の会食を催しているところだった。お互いの前にはコーヒーと季節限定メニューのケーキが並んでいる。
今日は早紀に私の近況を報告しているところだった。
すなわち、全ての問題が解決したのだという報告を。私が影のバケモノから人間に戻れたのだという報告を。
「まだ、二日しか経ってないけどね。人間に戻ってから」
白づくめとの邂逅、その日から二日が過ぎていた。
あの夜私は白づくめと戦った。そして、舌戦を繰り広げた。それから、白づくめに人間に戻されたのだ。
白づくめに手をかざされ、そして私は意識を失った。
そして、目が覚めると夜が明けていたのだ。明るい朝日がビルの向こうから差し込み、川縁で寝転がっていた私を照らした。しかし、私の体は蒸発しなかった。私は日射しを浴びてもどうともならなかった。そして、影に入っても体が溶けることも無かったのである。
私はどれほど嬉しかったことか。
具体的な動作を言えば、日の光を浴びたときに飛び跳ねて悦び、影に入ってもなんとも無かった時は叫びだした。
そして、夜になっても私の体が影に変化出来ることは無く、体も重いままで、そしてひどく腹が減った。そして、私は本当に人間に戻れたのだと確信したのだった。
白づくめは口にした言葉の通りに、私を人間に戻したのだ。
私の苦痛と孤独と絶望のバケモノの生活はようやく終わった。
私はようやく、普通のありふれた日常を取り戻したのである。
「長かった、長かったよぉ.....」
「よしよし、あんたは良く頑張ったよ」
そう言って早紀はヨヨヨ、と泣く私の頭を優しく撫でてくれる。なんと良い友を持ったことだろうか。私の人生のどん底を共に哀しみ、そして幸福を祝ってくれるのである。正直、どこまで本気かは分かったものでは無いが。正直、雰囲気だけ合わせている気がしないでも無いが。
「いやぁ、本当に良かったよ。あんたの哀しそうな顔毎日見るのも辛かったからさ」
「早紀....」
早紀は優しい言葉を次々にかけてくれる。なにか、「毎日泣き面見るのも疲れてきた」と言っているように聞こえなくも無いが気にしないでおこう。
「でも、これで本当に全部解決したってわけだ」
「うん、もうこれでお仕舞いだよ。あれから、白づくめにだって会わないし。もう、あんなことにはならない」
あの夜、白づくめは私を人間に戻してからすぐに去ったらしい。私になにか細工をするとか、その後に大どんでん返しを仕掛けてくるとかそういったことは無かった。後腐れは全くなかった。私は結果的に無傷で人間に戻れたのだ。あの得体の知れない怪人を相手にこの結果は出来過ぎなくらいと言えるだろう。
なにはともあれ、これで私の人生は元通りで、ようやく三ヶ月前の続きを始められるわけである。
永い永い、何年にも感じられるバケモノの三ヶ月は無事に終わったのだ。私はこれから人間として再び生きていける。
もう、泣きながら夜景を眺める必要も無い。深夜の街をぶっ飛び回る必要も無い。缶コーヒーの銘柄にも徐々に疎くなっていくだろう。ようやくだ。
思い返して良いことなどまったく無い。戻りたいとは露ほども思わない。バケモノの日常なんかろくなもんでは無かった。私は今回のことを忘れることなど出来ないだろうが、なるべく頭の片隅にできるだけ小さく押し込めたいと思っている。
私は平和なライフを送るのだ。夢とか自分なりの生き方とかいうのを探しながらしばらくフリーターをして、それを見つけたらそれに従って働くのだ。世の中から見て出来損ないだったとしても良い、自分なりに幸福な毎日というやつを手に入れるのである。そこにバケモノなんてものが入り込む余地は無い。
これから私の人生は良い感じになっていくのである。
私は少なくとも今はひどく満足なわけである。
「でも、意味深だねぇ」
そんな私に早紀がぽつりと漏らした。
「『人間を辞めたがらない人間は怪物的』か。言葉遊びみたいでもあるけど」
早紀が口にしたのは先ほど私が教えた白づくめの言った言葉、その要約だった。
「あいつは狂ってたんだよ。深い意味なんて無い、ただ理屈こねくり回して喜んでただけだよ。要するにナルシストなんだろうねあいつは」
白づくめは自分の言葉に、価値観に酔っていただけだ。それほど、中身のある言葉では無いのだ。今改めて思い返してもそう思う。
しかし、早紀は唸りながら目を閉じて何やら考え込んでいた。
そして言った。
「私はひとつも分からないでも無いけどね」
「あいつの言うことが? 冗談でしょ」
「まぁ、冗談半分ではあるけどね。でも、確かに人間苦しいことや哀しいことから逃げ出したのは普通だし、もしその方法があったならすがりつくのも普通だと思うんだよ。バケモノになるって方法がどれくらいその願望に近い場所にあるのかは分からないけど」
「いやいや、全然全く良いもんじゃないんだから。早紀もなったら分かるよ。前も言ったけど」
そして、この会話の流れもいつかに近いのだとふと思った。早紀が人間を辞めることを肯定して私が否定する流れ。
「まぁ、そうなんだろうけどね。でも、あんな風に飛び回ったり、死ななかったり、自由に姿変えられるのはやっぱり、少しは楽しいような気がしちゃってさぁ」
「冗談じゃ無いよ」
早紀でなかったら雄叫びを上げながらテーブルごと引き倒しているところだが、早紀なのでしない。このバケモノの間も人間の間も変わることの無い薄情さというのが安心したりするのだ。不思議なモノだが。
「ごめんごめん。取り消すよ今の言葉。一番大変な当事者が目の前に居るわけだしね」
「はいはい、心の無い謝罪ありがとう」
私は悪態をつきながらコーヒーをすすった。当たり前だが、缶コーヒーの何倍も美味い。
そして、ふと早紀が不安そうに表情を曇らせた。
「大丈夫だよねぇ。私の前に現れないよね、白づくめ、あんたの関係者ってことで絡んでこないよね」
「あいつはそんな人間くさい思考回路してないと思うけど。大体、早紀は少しはバケモノに憧れてるみたいだし、出くわしてもなにもされないよ」
「なるほどそうか。確かにその通りだね。私は白づくめにとってはどうでも良い存在か」
「どうでも良いっていうか、正しくてなにもする必要が無いんでしょ。あいつの理屈に沿って言えば。まぁ、全然意味分からないんだけど」
白づくめの思考回路について深く考えるつもりは無い。どうせ、どう頑張っても理解出来ない。怪物の考え方なのだから。だから、とっとと忘れた方が良いのである。
「そんなことより、せっかくのケーキだよ。まだ一口も食べてない」
「ああ、本当だ。桃のショートケーキだからね。美味しいやつだから」
そう言って、早紀と私は二人仲良くケーキを口に運んだ。口の中には爽やかな桃の香りと、濃厚な生クリームの食感が広がっていったのだった。
「うーん、美味しい」
「やっぱりここの季節限定はハズレがないね」
恐らく、私の感じているおいしさは早紀のそれの何倍にもなっているだろう。
人間に戻れたとあっては、これがちゃんと血肉になると確信して食べるとあっては、おいしさも格別なのだった。
そして、私は人間に戻って初めての友人との会食を楽しんだのだった。夜は更けていく。しかし、私はこの後活動する必要は無いのだ。もう、帰って風呂に入って寝るだけなのだ。人間の生活リズムに戻ったのだから。
こうして、全ては元通りになって、そして馴染みの日常がどんどん戻ってくるのだった。いずれ、全てはそうした日々に埋もれて、たまにふと思い出す程度になっていくのだろう。
ろくでもない日々は終わった。悪夢は終わった。
私は見事にそれに打ち勝ったわけである。そのおかげで今がある。そう考えると少し、自分に自信が付いたような気もした。
とにかく、これから私の人生は再び自分の思う、探り探りで進んでいく不確かなレールの上に戻ったのだ。私はこの上を少しずつ、周りの景色を確かめながら歩いていくのだ。
それこそが人の営みだ。私の望みのありふれた毎日だった。
夜空には薄い雲がかかっていた。月はぼやけ、星は見えなかった。のっぺりとした黒色で、見る者をどこか不安にさせるようだった。
深夜の街は静かだ。皆寝静まっている。人通りなど無く、車通りさえ無い。明かりは外灯とコンビニのものだけ。景色は完全に停止している。動くものはなにも無い。
ここは人間の街だが人間の世界ではない。人の居ないビルは巨大な岩盤と変わりなく、車の走らない道路はただの石の地面だ。そこに金属の柱が何本も立っている。岩石と金属で出来た無機質な地域は闇と静寂に満ちている。こんなところの主があるとすれば生物では無い何者かだろう。
そう、例えばバケモノであるとか。
まさしく、私のような。
うん。少し気取りすぎたか。
私はいつものように、真っ白なスーツを着込み、真っ白な帽子を被り、真っ白な革靴を履いてこの深夜の街を歩いていた。髪も肌も白。私を『白づくめの男』と呼ぶ者があるのも仕方が無いだろう。紛れも無く頭からつま先まで真っ白なのだから。
こうして、深夜の街を歩くのが私の日課である。こうすることが私の役目だと思っているし、正直な話これ以外にすることが無い。そういったつまらない存在が私である。
まず、私は人間では無い。人間で無いなら何かと言えば怪物である。
なんの怪物かといえば、これといった名前は無いのだと思う。ただ、影の塊という他ない。 体を影として自由自在に変形出来る。主食も影。日光に当たると体は蒸発するが、それ以外では不老不死である。あとは影を通じて他者の思考を読み取れる。そして、こういった同類を増やすことが出来る。
姿形はヒトのそれだが、中身はまったく別物だ。自分で切り分けた限り、脳も心臓も無い。まるっきり人体では無いのだ。そういった、バケモノが私である。
こうなったのはもはや思い出せないほど昔だ。正確な時間などもはや覚えていない。何百年か前だったはずだ。少なくともこんなに建物など無く、こんなにたくさんの人など居なかった。山野の中にぽつりぽつりと集落があるような、そんな時代が私の生まれた頃だ。
何故こうなったのか。それはある日出会った女によるものだった。顔も声も覚えていない。しかし、女はなんのためなのか私をこのバケモノに変えたのだ。気まぐれか、仲間でも欲しかったのか。今となっては知るよしは無い。あれ依頼一度も会っていないのだから。
とにかく、そうやって私はバケモノになった。初めのころこそこの境遇に懊悩したものだが、慣れとは恐ろしいもので確か百年を過ぎた頃にはこの体を、運命を受け入れていた。
そうして、私はバケモノとして数百年を生きてきたのだ。
数百年も生きているとやはり生きる目的と言うやつが必要だ。なにせこの先、恐らく永遠と言って差し支えない時間を生きていくのだ。どうしたってやることが必要なのだ。でなくてはいよいよ、生きている必要性を感じなくなってしまう。
そして、二百年ほどをかけて至った結論が『バケモノになる素晴らしさについて人間に知ってもらう』ということだった。
二百年かかったのは、結論を出すのに時間がかかったというよりは、『他人をバケモノに変える』という能力が発言するのにそれだけかかったという話だ。私はそれが発現したことにより目的を決定したわけである。
そうして、それからずっとこうして夜の街を歩きながら人々をバケモノにして回っているというわけだ。我ながら酔狂な話であるように思う。
人々をバケモノに変えて変えて、もう何人変えたかは分からない。私が変えるのはバケモノになりたがっている人では無く、絶対になりたがらない人だ。そういう人間にこそ、バケモノの生活の開放感は味わってもらいたいのである。そして是非、思考の革命的変革を起こして貰いたいのだ。自分が想像すらしたくなかった事の素晴らしさについて新鮮な実感を得て欲しいわけである。真面目な言い方をすればそんな感じだ。
自分では伝道者を気取っているが、正直安っぽい言い方をすれば胡散臭いセールスマンのようなものかもしれない。しかも押し売りである。その辺はたまに自分でもどうかと思ったりするが、まぁあまり気にしない。嫌がるものは元に戻すことにしているし。嫌がらなかったものも基本戻すことにしている。戻さないのはよほど事情があるだけのものだ。本当に、人間で居るべきでないといったような。人間で居ると恐るべき不幸に見舞われるような、そんな事情のある人間だけだ。なので、自分では一応納得しているやり方である。ある程度倫理観から外れているのは、私自身バケモノなのだから仕方ないだろう。
とにかく、そんな感じで今まで私は日々自分で定めた役割に準じてきたわけである。
そして、そんな感じでつい先日も女性を一人バケモノに変えたのである。
例のごとく、彼女もまたバケモノになんて絶対なりたくないといった、強靱な意志の持ち主だった。なので、お試しでバケモノになってもらったわけだ。
そうして、三ヶ月ほど経ったところで彼女に再び会うこととなった。
バケモノに変えた人間に久々に会う時はいつも少し高揚するものだ。バケモノの素晴らしさについて理解してくれただろうか、という純粋な期待によるものである。
今までの経験では、8割ほどが『人間に戻りたいが、確かにバケモノの生活も悪いことだけでは無い』といった感想を持つ。あとの1割は『もうずっとバケモノで居たい』と言う。そして、残りの1割は『まったく理解出来ない』と言うのだ。
彼女は最後のタイプだった。
はっきり言って、この最後のタイプが一番がっかりするのだ。
なにせ、一切バケモノの素晴らしさについて理解してくれなかったということなのだから。 セールスする側としては残念極まるのである。
そして、彼女は私に実力行使で人間に戻すように言ってきたのであった。覚えたての能力を駆使して私を叩きのめそうとしたのだ。
素直に感動した。彼女は今まで変えてきた人間の中でもかなりの実力を備えていたのだ。三ヶ月でここまでになったものは中々居なかった。バケモノの才能が抜きん出ていたというわけだ。このまま何百年と過ごせば私以上のバケモノになるだろうと思われた。
しかし、そういった才能は関係が無いのだ。とりあえずみんな人間に戻すことにしているのだから。そうそうバケモノになるものでは無いのだ。いかに素晴らしいとはいえ、簡単に人間を辞めたりするものでは無いというのが私の持論である。固定概念を破壊して欲しい程度の、そういった思いしか無いのである。私には。
しかし、彼女はとてもとても必死に私に挑んできた。私は私の能力で応じた。
そして、彼女に私の半分その時の思いつきのような考えを述べた。
それはもう、ミステリアスに言った。私は常々ミステリアスな雰囲気を出すように意識している。これもまた私の策略のひとつである。この白い服装も、好みであると同時にそういった意味合いを含んでいる。バケモノなんていうものに変えるのだ。不気味で得体の知れない存在である方がインパクトは大きいに決まっている。そして、その雰囲気に飲まれてバケモノというものについてより一層真剣に向き合うことが出来ると私は考えているのだ。
なので、本当のところはそこまでくそ真面目にやっているわけでは無いのである。
そして、彼女にはいささかこのミステリアスが効き過ぎたようだった。私を絶対にわかり合えない怪物として見ているようだった。本当のところ、もう少しフランクに接して距離感を近くした方が良かったかもしれない。まぁ、全て後の祭りだ。
とにかく、彼女はバケモノにあることを拒否し、そして人間に戻りたがった。
なので、私は人間に戻したわけである。
バケモノに変えた。しかし、本人はバケモノの素晴らしさにはまったく理解を示さなかった。そして、彼女は人間に戻りたがった。なのでいつも通り戻した。
事はそれだけの話だった。
正直私はそこまで難しく考えてはいなかった。むしろ、彼女が難しく考え、そして深刻だったようだ。人間とバケモノの違い、そしてどちらがより良いか。下手すれば私より深く思考していただろう。影から読んで分かった。私は少し戸惑ったくらいだ。ちゃらんぽらんな私よりよほどバケモノについて考えているようだった。
人間とは難解な生き物だ。
彼女は意思が強く、そして能力もあり、それから、少しだけ思い込みやすい性質だった。
私はバケモノは素晴らしいと思う。気に入っている。
しかし、彼女は人間こそを素晴らしく思い、そして気に入っていたようだ。
彼女の考えは絶対変わらない。彼女は人間を辞めたいとはこの先もずっと思わないだろう。それが彼女の生き方だ。
その意思の強さはやはり異常であると私には思える。いや、そこまで大真面目では無いのだが。
異常な存在こそをバケモノと呼ぶならば、私はもちろんバケモノだ。
しかし、辛く苦しい人間であり続けることにこだわり続けることもやはりバケモノ的であると思う。
本当の『人間』とは、そういった二つのバケモノの狭間を行ったり来たりするどっちつかずの人々なのではあるまいか。と、らしくもなく哲学的なことを考えたりもするのだった。正直、彼女の前で言った時は半分ほどでたらめだったのだ。私はとにかくちゃらんぽらんである。
そんなことを思ったり思わなかったりしながら、なんとなく川を眺めたりしながら私は歩いていた。
夜の街はとても静かだ。誰も居ない。ただ、川が昼と変わらずゆっくりと流れている。
そして、私の視界の先に人影が映った。
青年だった。スマホをいじりながら川縁のベンチに腰かけていた。若者が夜更かしをして外を散歩しているといったところか。
私は彼の影に私の影を伸ばす。そして、思考を読む。
ああ、彼は『望んでいる』ようだ。
まったく、人間という生き物は度しがたい。
彼はバケモノの素晴らしさを理解してくれるだろうか。
私はゆっくりと彼に向かって歩みを進めた。
永い永い私の生に、少しだけの意味を持たせるために。
最初のコメントを投稿しよう!