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風のこだま
こわれもののように美しい風の音が吹き抜けて、私は眼をひらいた。
その眼の前には細い道が一直線に伸びていて、遠くの逃げ水が地平線と溶け合うあたりに、白く濁った海が果てもないと思われるほど広がっていた。
海から風はらせんを巻いて、天を求めるように駆け上がり、登っていった。すると、緑みを帯びた鮮やかな青色の空へ、白く濁った海の色が注ぎ込まれていくのだった。天と地とが混じり合うような呼吸を見せる中に、やがて雲のようなかたまりが一つ二つとできた。だが、そのかたまりは雲とはならずに、今度はお互いを引き寄せあって身を結び、ふくらんでいくのだった。そしてとうとう天と地とが白く濁った色に一意となった時、私は闇に包まれたかと思って、急に恐ろしくなった。
白い闇はすべてを覆い尽くした後で、今度は幕を引いたように通り過ぎ、そしてまた眼の前には細い道が一直線に伸びている。
私はどこかで、風の音を待っているようだった。
夢かまぼろしかわからないが、私にはよく見る脳裏の影像である。
胸が急いて、目覚めの悪い朝だった。へんなうなされ方をしていなかったかと、隣で寝息をたてている女を見下ろした。女は雷魚のように口をあけて、深い眠りの中にあった。しばらく目覚める気配はなさそうだと確かめると、出どころのわからない虫酸が走った。
この日、私は自分の記憶に深い一人の娘のもとへ、会いにゆこうとしていた。その娘と会うのはこれで三度目になるのだが、彼女の方は私と三度会ったことを知らないだろう。私には忘れることのできない記憶である。
八年前、出張講演で青森を訪れた時が、その娘と私との最初の出会いだった。ホテルで帰り支度を済ませると、私は関係者の計らいで郷土料理を食べさせる料亭へと連れて行かれた。坪庭のある総ヒバ造りの個室で、打ち解けあった打ち上げの席であるから、旅先の情緒もあいまって酒がすすんだ。そして、猪口を重ねるうちに気が大きくなった仲間の一人が、その料亭で出される酒の肴にケチをつけはじめたのだった。
ところで、ここの仲居は美人が多いということで有名なのだった。それで地元の関係者は、男所帯の私たちに気を遣って誘ってくれたというわけだった。だが、その好意に遠慮することなく、ただ美人仲居の気を惹きたいだけの男は口に泡を飛ばして、
「これ、海峡サーモンじゃないの?今が旬でしょうが。なんで出さないのよ?なんで?」と、仲居をいじめるのだ。
「まことにおあいにく様でございます。お出しできる時期でしたらよかったんでございますが……。」
三十路らしい仲居の口ぶりは流石のあしらいで穏やかだが、何かにつけて言いがかりの多いこの客を前に、顔つきには曇りが兆しはじめていた。そうして入れ替わりで、何人かの仲居が個室に膳を運んで来たが、男はことごとくくだらぬ小言を言っていた。男のたわごとが止まないのは、確かに仲居がみな美人であったことは言うまでもないだろう。それに旅先で飲む地酒はうまいもので、卓には徳利が絵に描いたように転がっていた。男は今か今かと獲物を狙う禿鷹のように、貪婪な眼を光らせて呑んでいる。そこへ最後の切り札のように現れたのが、その娘だった。
緋色に桜と麻の葉の柄をあしらった着物は、仲居着物であるはずなのに振袖姿のように見えた。その娘が立ち働いているところへ、
「おまえチビだなァ。年いくつだ。」と男が訊くと、
「十六です。」
その答え方は毅然としていて、まったく素っ気がなかった。しかし冷たく透き通った声の響きには、氷細工のような脆さを思わせる美しさが極まっていた。まるで小さな楽器のように、美しい音符を胸に秘めているかのようだった。およそ客商売とは思われない愛想のなさも、娘の立ち居振る舞いを際立たせていた。彼女とは一回り以上も年の離れた仲居たちの後に来たから、よけいにそう思わせたのかもしれない。とにかく、十代の娘の不思議な幼さに打たれて、男たちの座はしらけきった。
−私はしばらくの間、耳に残るその娘の声を酔いのまわった頭の中で呼び覚ましていた。そして、彼女の思い詰めたようなまっすぐな瞳が心細かった。背筋に冷たい火花が散った。
「ありがとうございました。」
店の門で姉さん仲居たちに囲まれて、その娘は礼を言ってちょこんと頭を下げた。帰り際にはもう悪酔いした仲間の男と三十路の仲居とは、和やかにみだらな軽口を飛ばし合っていた。私にはやはり、その時の娘の美しい声が残り香のように響いていた。
窓の外は雨らしい。カーテンで閉め切った部屋でも、雨が窓を打ちつける音がはげしいのでそれとわかる。私は質の悪い宿酔のせいで、どうやらふたたび眠りに落ちていたようだ。
女の一人住まいの寝室は、白い壁紙を張り巡らせただけの殺風景なものだった。今この暗い部屋にあるものは、風のせいで強くなったり弱くなったりする雨音と女の寝息だけだ。雨音が強く窓を打ちつけると、女の寝息は聞こえなくなる。やがて雨音が弱く打つようになると、今度は女の寝息が静かに聞こえてくる。
私は真暗な白い部屋の中で、繰り返される音の明滅に耳を傾けながら、ただ過ぎていくばかりの時間を情けなく思った。そんなことだから、夢ともまぼろしともつかぬ影像を呼び寄せたのだろうか。ようやく私は、うつつへと帰ってきたらしい。
十六だったあの娘は、二十四になっていた。
二週間ほど前のこと、六本木にある料理屋で私は忘れもしない声を聴いたのだ。高く澄み通って、冷たく冴えるその声は、八年前に聴いたあの娘の声に間違いなかった。
「もしかして君は、青森の料亭で着物を着ていた?お店の名前はたしか、なんていうんだったかな……。」
「明月楼ですね。」
私の思案より早く、彼女は美しい声で答えた。青森の郷土料理を食べさせるこの居酒屋は、料亭の系列店であるらしかった。彼女は五年前に東京へと出て来て、今はここで働いているのだそうだ。緋色の着物ではなくて、枯草色の地味な作務衣に身を包んでいる。料亭では髪を夜会巻きにまとめて、赤い玉かんざしを挿していたはずだ。ここでは高く結んだポニーテールを揺らすだけの田舎風だった。
その娘の名は、彩乃といった。八年前に見た時よりも、眉間にきつい陰があって、こわれもののようだった。もちろん彼女はそんな昔のことなど覚えてはいなかったが、私は三たび、彼女に会いに来た。
雨はまだ降り続いていた。だが風はもう止んでいて、雨は天から糸を垂らすように滴っていた。夕方の早い時間だったからか、六本木の料理屋は私以外に客は誰もいなかった。
作務衣を着た店の娘が、男の店員にあれやこれやと教えられて準備に忙しいらしい。金曜の夜ともなれば、新入りをあてがわなければならないほど立て込むのだろう。女将があいさつに来たので、私は彩乃はいるかと尋ねた。
女将の顔がすこし陰った。
「あの子は月曜日から長いお暇をいただいておりまして、しばらくはお目にかかることはございません。おあいにく様でございます。」
私は拍子抜けに、いつ帰って来るのかと聞きたくて身を乗り出したが、やはり、ためらわれた。
「あの子はずっと働きづめでしたから、すこしは休ませないといけませんね。」と、女将はそんなことを言った。
遠くから娘の声がこだまして来そうだった。
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