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私が何者かを知るものは多い。名の知れた画家だからだ。私が描いた絵はすぐに売れる。それも高値で。
しかし私は私が何者なのかわからない。いつもいつも、絵を描きながら自分が何者なのか探っている。自分が何を表現したいのか時々わからなくなって、それだけがいつも辛い。
それなのに、人々は私が何者なのかを知っている。私の絵を見て素晴らしいという。あなたの気持ちがわかるという。こんな絵を描けるあなたを尊敬する、あなたに憧れて画家を目指しています、という人もいる。
なぜ、自分だけが自分のことを知らないんだろう、こんなにも知りたいと思っているというのに。自分は自分だけに、私が何者なのかを教えてはくれない。そんなことを考えては、いつも涙を流している。流れる涙を、私は止められない。拭いても拭いても、溢れてくる涙を、私は止められない。そうして、そんな目の前の景色を、なすすべもなく、私はキャンバスに塗り付けるのだ。
あるとき、一人の男が私のもとへ訪れた。その男は、黒い山高帽をかぶり、黒いコートを着、そしてよく磨かれた靴を履き、物語の中でしか見たことのないようなステッキを持っていた。
やってきた男は、山高帽を外しお辞儀をした後、おもむろに口を開いた。
「あなたは、自分が何者かわかっていない。それが、あなたの絵から伝わってくる。自分が何者か、常に探っている。しかしあなたはあなたに自分が何者かを教えてやらない」
私の絵を見て、そんなことを言う人には初めて会った。私は驚いた。
「そうです、何故それがわかるのですか? 今までにそれを指摘されたことはなかったのに」
「私もだからです。私も、私が何者であるかがわからない。私が存在している意味が分からない。だからです」
この世に、私と同じような人がいるなんて。
「どうすれば、わかるのでしょうか。私はいつも、それだけが知りたくて、それだけを追いかけているのです」
「私にもわかりません。私も探っているからです。しかし、それが生きる意味なのではないかと最近思うのです。そして、あなたの絵を購入する人も同じように、自分が何者かわからないのです。だからあなたの絵に共感し、あなたの絵を素晴らしいというのです。自分が何者かと問われたとき、それに答えられる人は少ない。みな、わからないのです。自分が何者なのかを。あなたと同じように」
「みな、わからない……。私と同じように……?」
「はい。しかしそれでもなお、人は人生を楽しんでいるように見られます。仕事をして、好きなことをして、おいしいご飯を食べ、好きな人と過ごす。人と関わることで、その関係性で、自分というものを確立しているように見られます。あくまで私見ですが」
男は一枚、私の絵を買って帰っていった。
私は男の言葉を聞いたとき、大きな衝撃を受けた。人と関わりを持たない私には、自分を確立させることはできないと言われたようだったから。小さいころから病弱で、ほとんど外に出なかった私には、友だちといえる人はいなかった。母が亡くなった後、私に家族と呼べる人はいなかった。
あの男の言葉を信じるならば、私には私を自分たらしめるものは何もないということになる。私には、世間が見るように、絵を描く、ということしかないのだ。私はつまり、画家でしかないということだ。それしかないのだ。辛くて、悲しくて、暗い紫のような色が、私の心の中を支配した。雨が降っていた。
私は筆を執った。
お題「絵描きの豪雨」
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