序章

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「イルザが……あのイルザが……!」  ベッドから起き上がって以降、私が何かするたびに周囲の人間はこう言って恐れおののいた。いったい『イルザ』とはどんな少女だったのか?  頭のケガで記憶が曖昧だということにして、訊いてみた。実際以前の事は覚えていないのだけど。    名は『イルザ=リーゼロッテ=フォン・ノイマン』。元は農家の娘だったけれど、とある事情でノイマン子爵家の養女となる。ノイマン子爵はイルザを立派な令嬢に育て上げ、いつか王家やそれに連なる大貴族と縁談を結び、自身の出世を目論んでいたらしい。  だけどこのイルザという少女……かなりのおてんば……というか腕白な少女だったようで、ご令嬢どころか女の子らしい嗜みの一つすら身につけようともしない。  毎日家庭教師の目を盗んでは屋敷を抜け出し、何処へ行っていたのか泥だらけになって帰ってくる始末。少しも大人しくしていないから、いつも走っていて、必ずどこかにぶつかって、物を壊すことも少なくなかった。見張りを付けても必ず撒かれ、もはや手の付けようがなかったようだ。  そんな様子だったものだから、私の一挙手一投足が驚きの連続だったらしい。 「イルザが……イルザが静かに歩いている……!」 「イルザが……ぶつからずに角を曲がった……!」 「イルザが……これだけ長く歩いたのに、何も壊していないなんて……!」  普通に寝室から客間へ歩いて行っただけだ。  24時間この様子だから、さすがの私も辟易していた。いっそのこと、前のイルザのように振舞ってやろうか。そう思った時だった。何か……記憶の隅の何かがひっかかった。  『イルザ』、ノイマン家の娘、ドジでおてんば、おおよそ貴族の娘らしくない。それらのキーワードを最近目にした気がする。  何かの物語の主人公か? いや、主人公というほど目立った存在ではなかった気がする。 モブか? それに近い気がする。だけどはっきりと名前がある。  何かの脇役? そうかもしれない。だけど思い出せない……。  喉の奥に小骨が引っ掛かったような奇妙ですっきりしない嫌な感覚に苛まれる中、意識の外で何やらバタバタと騒がしい音が聞こえてくる。 「イルザ! 我が娘! おお素晴らしき我が娘よ!」  いきなり、今の”父親”がすごい勢いで扉を開けて、抱きつこうと両手を広げてきた。 「お……お養父様、どうなさいましたか?」 「おお、その言葉遣い……ようやく貴族の令嬢らしくなってくれたな。その努力がついに報われるのだ」  ただの敬語だったつもりだが……言葉遣いでも、よほど苦労していたらしい。用件を何も言わないうちから、既に涙目になっていた。 「お、お父様? 落ち着いてください。どう……なさったんですか? 報われるとは何ですか?」  私の問いに、父はニンマリと笑った。そして、さっきから握りしめていた手紙らしき紙束を広げて掲げた。  そこにはこう書いてあった。 『イルザ=リーゼロッテ=フォン・ノイマンを王宮に召し、第二王妃付きとされたし』 「……これはいったい……?」 「王宮に仕える機会を頂いたんだ! こんな辺境の子爵の娘がだぞ! それも第二王妃のお側だ!」  第二王妃とは、皇帝陛下の二番目のお妃様。皇后に次ぐ地位のお方で、幼少の頃より聡明と名高かったと聞く。現在も皇族方が暮らす皇宮の諸事をほぼすべてお一人で取り仕切っておられると聞く。そんな方のお側に、つくのはもっと良い家柄のご息女ばかりと聞いていたのに、私のような下級貴族の養女が、急に召されるとはいったい何事だろうか? —―と、首をかしげる私の前で、養父は小躍りして喜ぶばかり。  本当に、大丈夫だろうか……?
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