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第1章 春
3月31日。
春の陽気に心浮きたち、いつお花見ができるかなんていうくだらない話で世間が盛り上がっている今日この頃。
でも俺はそんな楽しい気分には全然なれなかった。
だって、いつか来る、そのうち来る、と言われていた『あいつら』が、とうとう現実に目の前へと迫りつつあるんだから……。
「……とりあえず、それくらいはめくっとけよ」
弓道部の部室で、カレンダーに手をかけたまま俺が項垂れていると、五十嵐先輩が声をかけてくれた。
「裕太……お前って奴は往生際の悪い。カレンダーくらいで抵抗したって、地球が回っている限り四月はやって来るぞ」
呆れたような声を上げる先輩は身長190cm、横にも縦にも大きい立派な体格の上に角刈り、というちょっとコワモテな人だけど、その中身は後輩想いで優しくて、我らが弓道部の頼りになる主将だ。
今もカレンダー一つめくることができない俺に対し、出来の悪い弟を見守るような温かい目を向けてくれている。
「お前はまだ女子が入学するのを嫌がってんのか?」
ちょっと話でも聞いてやろうとでも言うように、先輩は椅子にどかっと座った。その重みに耐えかねた椅子の軋む音が狭い部屋の中に響く。
「そりゃ嫌に決まってますよ。男子校だからこそ中学受験してまで立共に入ったのに、それが突然共学になるなんてありえません」
俺はここぞとばかりに口を尖らせた。
俺たちの通う山手立共学院は、港町横浜の閑静な丘の上にある中高一貫のプロテスタントの男子校だ。明治時代、アメリカから渡って来た三人の宣教師によって創設され、しかも横浜―新橋間に鉄道が走ったのよりも早かったというからとにかく古い。しかも進学校としても有名で、卒業生の多くは毎年、難関大学に進学している。
そんな立共学院が共学化を宣言したのが三年前。俺が中学へ入学したすぐ後の事だった。
「少子化で受験生が減るから共学なんて、安易過ぎません? これまで掲げてきた男子校としての教育理念ってのはどこ行っちゃったんですか」
「まあ、そこはOB会でも理事会でも反対が多かったみたいだな」
「なのに校長先生が押し切っちゃって……おかしくないですか? 俺たちの入学説明会の時なんて、あの先生が男子校の良さをアピールしてたんですよ。男女の頭のつくりは違うから、それぞれに似合った教育をするべきだって。それが手の平を返して『共学の方が良いところだって沢山ありますから』なんて、あの嘘つきハゲ親父め、恥ずかしげも無くよくも同じ口でぬけぬけと……」
「まぁ、それくらいにしとけ」
先輩は俺の怒りっぷりに苦笑しながら、顎で部屋の隅を指した。
そこには弓道部顧問の阿部先生、通称あべっちがいた。ちょうど朝飯の焼きそばパンをかじっているところ。
あべっちはみんなの兄貴的存在。本来は物理の先生なのに弓道の指導もしてくれるし、試合の時には審判も務めてくれる、とってもいい先生だ。それだけに、校長先生の悪口を聞かせて困らせるわけにはいかない。
俺は「すみません。口が過ぎました」と素直に謝った。
「いや、いいさ」
あべっちは俺の暴言を気にした風もなく、口の周りに着いたマヨネーズをぺろりと舐めながら言った。
「俺もここの卒業生だからさ、男子校がいいっていう裕太の気持ちは分かるんだ。男子だけだとどんな事も全力でできて、自由で楽しくて……そうだよな、不安なのは当たり前だ。でも俺ら教職員もちゃんと女子の応対についての研修をやったり、しっかり準備はしてるからさ」
「研修くらいでなんとかなる話じゃないですよね」
「お前は難しく考え過ぎなんだろ」
先輩が慰めるように言った。
「単純にさ、可愛い女の子が校内にいると思っただけでも心がこう、弾んでこねぇか?」
「可愛い子なんてどうせ入ってきませんよ。うちの偏差値考えたら、入学できるのなんて瓶底眼鏡のガリ勉女だけでしょ」
「夢も希望もねぇ事を……じゃあお前は女子と相合傘とか、屋上で女子の手作り弁当を食うとか、体育館の裏で壁ドンとか、そーいうのを想像しねぇのか」
「……屋上は立ち入り禁止です」
ツッコミたいところは他にもたくさんあったけど、控えめにそれだけを指摘したら、五十嵐先輩よりも傍らで聞いていたあべっちの方が凹んだ顔をしてしまった。
「そうか。じゃあ屋上から愛を叫ぶとか無理なんだな」
「ええ?! 先生が落ちこまないでくださいよ」
「いやぁ、そういうの憧れててさ」
あべっちは照れ臭そうに笑っていた。
ダメだ。6年間も男子校に通って、大学も物理工学なんていう男ばっかりの分野に進んでいるおかげで、この先生、43歳にもなってまだ甘い青春に夢を見てる。
あべっちが未だ独身であることも踏まえると、俺だって早めに女子慣れしておく方がいいような気もしないでもないんだけどさ。
でも、女子かぁ……。
「まぁ編入してくる連中とは同じクラスにならないんで、これだけ騒いだところで実際はそんなに関わらずにすむと思うんですけどね」
「ふふん、甘いな。部活には入って来るぞ」
俺がせっかく自分を納得させようとしていたのに、五十嵐先輩は余計なことを言ってくれた。
「実は高校の編入試験の手伝いに行った時、いい感じの女の子に声をかけておいたんだ」
「な、何やってんですか。大事な入試の最中に?!」
「いいじゃんか、一歩先行く勧誘活動だ。だからさ、もしその子が合格して入学してたら、きっとうちに入ってくれると思うぜ」
「やめてくださいよ。うちの部は女子禁制でいいです」
「何を情けないこと言ってんだ。安心しろ。俺たちは絶対モテる」
五十嵐先輩はにやにや笑いながら、俺の着ている白い胴着の襟を突っついた。
「いいか? これがあれば黙っていても男ぶりは3割増し。お前は一体、何のためにその袴姿なんだ?」
「弓を引くためですよ!」
声に力が入ってしまった。弓道部の主将のくせに、この人はなんてことを言うんだか。
「女にモテたいなら、テニス部なんかの方がいいですよ。あれこそ爽やか男子の象徴じゃないですか」
「テニスがモテるなんて、お前もイメージが古いよなぁ。草食男子が多い今の世の中じゃ、こういうちょっと勇ましい男に人気が出るってもんだぜ」
「そうですかねぇ……」
人気が出たことなんてないから俺にはさっぱり分からないけど。
そういうことなら弓道のできるあべっちはとっくの昔に独身を卒業して、世の女性たちからキャーキャー言われているはずじゃ……?
「そもそもなんですけど、俺たちに女子の指導なんて出来るんですか? 男女で所作が違うんですよね。それに『先輩、袴の着方が分かりません』って来たらどうするんですか?」
「そりゃ、お前……」
口を開きかけた五十嵐先輩が固まった。口元をぐにゃりと歪ませる。
「あはは、そいつは困るなぁ」
「そういう時はネットで動画でも探して見てもらえ」
あべっちが口を挟んできた。
「今ので一つ思い出した。俺もなるべく顔出すようにするけど、弓道場は人目につきにくい場所だから、お前らもあんまりややこしい真似はするなよ」
「ややこしい真似って……そんなこと、するわけないじゃないですか」
俺はむっとして仏頂面で答えた。
やっぱり女子が入って来るなんて嫌だ。痛くもない腹を探られて、これまでののびのびした楽しい部活動ができなくなって。 いい事なんて一つも無い。
「やっぱり女子部員はやめましょうよ。俺たちの平和な弓道部を守るにはそれが一番です」
「なんでだよ。女子がいたらうちも華やかになるぜ。それに『あの的を射抜けたら、俺と付き合え』みたいな告白もできるし」
「やりませんよ、そんなこっぱずかしい事!」
色々と妄想が膨らみニヤけが止まらない先輩を前に、俺はつい声を荒げてしまった。
いつもは力強い弓を引く格好いい先輩が、女の話をするだけでここまでデレデレするなんて情けない。
だからさ、こーいうのを見たくないんだよ、俺は……!
「せっかくだから、やりたいことは今のうちに全部メモしておくか。あとはなんだろうな。下駄箱にバレンタインチョコが入っているとか、卒業式で第二ボタンを渡すやつとか……」
「文化祭でフォークダンスとかどうだ?」
「先生、それはさすがに古過ぎ……」
「やめてくださいよ。4月以降に現実見たら悲しくなるだけですって」
いつまで経ってもノリの悪い俺に、五十嵐先輩は呆れ顔。メモを書く手を止め、つまらなさそうに唇を尖らせた。
「お前さぁ……そういう澄ました事を言ってる奴に限って、いざ蓋を開けてみたら部活サボって女とトンズラしたりするんだぜ」
「俺は絶対しません。女子なんかと出かけたって面白くないんで」
俺はきっぱり言い切った。
共学なんて、断固反対。
やっぱり俺は、今の男子校のままがいい。俺たちの立共に女子生徒なんて必要ない!!
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