第2章 夏

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 帰る時、横須賀駅のホームからは勝世学園の校舎の赤い屋根がちらりと見えた。 「試合の時って、みんな格好良かったね」  今日の試合を思い出した栞ちゃんが言った。 「団体戦の時の、流れるような動きって特に好き」 「弓道は基本、団体戦だからな」  個人戦もあるけど、みんなが力を入れるのはやっぱり団体戦だ。 「私も早くあんなふうになりたいなぁ。ねぇ、朝練とかしてもいいのかな?」 「そりゃいいけど」  気楽に返事したけど、ど初心者の彼女が一人で自主練したところで、あまり成果は望めないような気がした。  ということは……。 「じゃあ、俺もやろっかな」 「いいの?」 「まぁ……そうだな、マユにいつまでもいいとこ持っていかれたままってわけにもいかねぇしさ」 「おぉ、ライバルだねぇ。昴流君もライバルだし裕太君は競う相手が多いね」 「別に昴流をライバルと認めた覚えはねぇけどな」  そこで俺たちはさっそく月曜から、二人で朝練を始める約束をした。  もちろん主将である五十嵐先輩にはLINEで『明日から朝に自主練させてください』と断っておき、返事として『頑張れ~♪』のスタンプを受け取った。  こうして朝練を始めてみて気付いたけど、栞ちゃんは俺と二人きりだとよくしゃべる。   「ねぇ、裕太君はどうして弓道始めたの?」 「集中力がつくし、気持ちが鍛えられるかなって思ってさ。すぐイラっと来たりメンタル面が弱いのは自分でも分かってるし、それに……」  俺は弓を握る左手をじっと見た。 「俺、本当は左利きなんだ。でも右が使えないといけないって小さい頃から矯正してて。あぁ、メスは右利き用しかないから、医者になるなら絶対右手が使えなきゃいけなくてさ。その点、弓道は右利き前提の競技だから、いい矯正になるかなと思って」 「それは凄い理由……」  栞ちゃんは絶句してしまった。 「そうか。裕太君は上山内科病院を継がなきゃいけないんだもんね」  先日稲村ケ崎まで来た時にうちの病院の前を通っているから、栞ちゃんは俺の家が病院をやってることを知っている。 「裕太君は医者以外の進路が許されない環境なんだね」 「別に嫌じゃねぇけどな。俺も医者になりたいとは思ってるし」  強制されてる訳じゃないから、そこまで深刻に捉えてもらわなくてもいい。 「でも医学部ってすっごく難しいでしょ」 「うん。だから推薦を考えてるんだ。指定校推薦なら、小論とか英語くらいの試験でほぼ100%入れるからさ」 「そうなんだ」 「だから定期テストだけはしっかり点数取るようにして、それからC組じゃ組長もやってて」  そうやって内申点をコツコツ稼いでいる。全て確実に医学部へ入るための準備だ。 「栞ちゃんは将来とかどんな感じ?」 「私は助産師になりたいの。私は未熟児で生まれてきたらしいから、そういう子の助けになりたいなぁって。お母さんも助産師だから憧れてるんだけど」  肝心のお母さんにはあんまりいい顔されてないんだよね、と彼女は苦笑する。  きっと現場で働いている人にとっては、娘に勧めたい職種ではないのだろう。でも助産師は出産に関わる大切な仕事だ。 「いいじゃん。栞ちゃんにはなんか似合ってる気がする」 「ありがと」  このとき向けられた笑顔が眩しすぎて、俺は危うく悶絶しかけた。  ……違う、違う。俺は朝練に来てるんだ。  平常心、平常心、と唱えながら弓を引く。  その甲斐あってか矢はまっすぐ的へ向かって飛んで、ちょうどど真ん中に刺さった。 「すごっ」  彼女に褒めてもらえると嬉しい。完全に気持ちは浮ついているのに、それでも面白いくらいに中るのは何故なんだろう。 「この音、いいだろ」  的に中った時の音は心地良くて、俺はどうしても抑えきれなかったドヤ顔を栞ちゃんに向けてしまった。 「でもこれも栞ちゃんたちのおかげかな」 「え?」 「みんなに教えるにあたって、男女の違いもあるから教本も読み直して。それでゴム弓から練習したからこそ、俺も自分のフォームも一から見直すことができたんだ」 「あぁ、そっか」 「先輩は上手いように言って俺に指導係をさせてくれたんだけど、本当はもう一度やり直せっていう意味だったんだろうなって今は思うよ」  やっぱり五十嵐先輩は大したもんだな、とひとしきり感心した俺は、自分の弓を置くと栞ちゃんの背後に立った。彼女も先日から弓を引くようになっていたけど、どうも右腕の位置がおかしいようなのだ。 「それはもう少し引っ張っていいぜ……顎の下より先。もうちょっと、この辺まで……」 「っ!」  俺の指が栞ちゃんの髪の毛を揺らし右の耳朶に触れた瞬間、彼女は弾かれたように飛びのいた。 「ご、ごめん!」  焦った俺も慌てて後ろへ下がる。 「違うの。ごめん。びっくりしただけ。ホントごめんね」  彼女は焦った顔で何度も謝ってくれたけど……触れられることをあからさまに嫌がられた後に何を言われてもなぁ……。 「なぁ、その髪の毛って邪魔じゃね?」  俺は彼女の右頬で揺れる切り下げ髪を指さした。  ちょうど弓を引くときに、右手が髪の毛に当たってしまうのだ。マユくらいのショートカットや、うさ子のようなおさげなら問題は無いが、栞ちゃんの髪型だとどうしても気になる。 「あぁ……っと、私は邪魔じゃないんだ。こういうのって結ぶと痕がつくし」 「そうなんだ」  その辺の事情は俺には分からない。まぁ、絶対ダメというほどでもないから、本人に任せるしかないか。 「じゃあ、眼鏡は……」 「え?」 「いやその、随分レンズの分厚い眼鏡だからちょっと気になって。俺も眼鏡かけてるから分かるけど、もう少し薄くしてもらえるもんだろ?」 「あぁ、これ?」  栞ちゃんは弓を足元に置くと眼鏡をはずしたが、その途端、俺は息を呑む。  ……え。なんだよ、これ。  黒目がちでぱっちりした瞳に、長めの睫毛。今までやぼったい眼鏡をかけていただけに、顔全体の印象もぱっと明るくなったように見えた。  眼鏡をはずしたら美少女でした、なんて漫画みたいな展開だけど、絶対こっちの方がいいじゃん!  栞ちゃんは手にしたメガネを弄りながら苦笑していた。 「この眼鏡、ホントは自宅用なんだよね。だけど私は眼鏡の方が似合うって前に言われたから」 「誰に?」 「うちのクラスの林君」  多分、俺は瞬間的に顔をしかめたんだと思う。栞ちゃんは「林君は同じ中学だったんだよ」と言い訳みたいなことを言ってきた。 「ふうん」  でもそれだけじゃねぇんだろ、って言いたかったけど、この話題を何気ない顔で語れるほどのスキルを俺は持ち合わせていなかった。 「俺は眼鏡じゃない方がいいと思うけどな」  直視するのが照れくさいくらいに可愛い。  俺があらぬ方へ視線を向けながら言ったら「そうだよね。私もコンタクトの方がいいかなって思ってたんだ」と彼女自身まで言い出した。 「コンタクト持ってんのかよ。じゃあそっちにしたらいいじゃん」 「うん、そうする」  眼鏡をかけ直した栞ちゃんは俺の意見に素直に頷いてくれて、それだけで胸の奥底からはものすごい優越感が湧いてきた。  これは要するにさ……俺はあっちの裕太に勝ったことなるんじゃね? 5a6ca5e1-9c71-433d-becc-1c03fee4abc8 「あぁ、裕太君。ちょっとだけおにぎり作ってきたんだけど食べる?」 「栞ちゃんが?」 「うん。うち、お父さんいなくてお母さんが忙しい分、ご飯は基本私が作ってて」  弓具を片付けた後、部室でミニおにぎりを手渡された。 「お腹が減って、昨日の授業中にお腹が鳴っちゃったんだよね」  それでわざわざ作ったらしい。俵型のおにぎりを齧ってみたら中から肉みそが出てきた。   「うわ……すげぇ美味しい」 「ホント? 良かった」  弾けるような笑顔を浮かべる彼女と向かい合ってると、さすがの俺も自覚せずにいられない。  ……これ、楽し過ぎる。  誰だっけ、女子と手作り弁当食うなんて絶対やらねぇ、とか抜かしてた奴。  でも本当にこの時間が幸せでたまらない。一生ここに住んでもいいくらいだ。 「あれ、雨降ってきた?」  おにぎりを食べていた栞ちゃんが顔を上げた。窓の外には梅雨の時期らしい細かい雨が音もなく降り注いでいるのが見えた。  弓道場から校舎までは屋根が無いから、雨は地味に困る。 「俺傘持ってきてるけど」 「じゃあ、私も入れてもらっていい?」  うわ……俺、そろそろ耐えらんないかも、シオリさん。
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